やがて、雨は


 季節が動くときには雨が降る。

 あの日―――京を分断する結界の一端、要のひとつが崩れたのと時を同じくして、雨が降り出した。留まるばかりであった秋が次の季節へと動く。その証のように雨が降り出したことを、頼忠はよく覚えている。

 天を仰ぎ、掌に雨を受ける。
 息が白い。
 この雨はやがて雪になるのだろう。

 結界の要として置かれていた怨霊を封印し、きっとひどくお疲れになったはずだ。
 けれど、頼忠の主は、先ほどから己が眷属たる天地の青龍の身を案じ労る言葉をかけてくれていた。
 こういうとき、上背のある頼忠を小柄な主が見上げる形になる。
 常であらば、主を背に庇うか主の数歩後ろを付き従うか、そのいずれかである。こうして相対することは珍しく、此方を見上げる碧の瞳を頼忠はついまじまじと見つめてしまって僅かに狼狽える。
 頼忠には、戸惑う距離感なのだ。
 だから誤魔化すように、少しばかりうわずった声であったかもしれない。

 「―――神子殿、この雨では冷えましょう。お体に障りがあってはなりませぬ。早うお屋敷へ。お送りいたします。」

 頼忠がそう声をかけると主は素直にうなずき、やはり柔らかく笑いかけてくれた。
 頼忠の主は、屈託がない。
 従者として仕えながら、主のそういった主らしからぬところが頼忠には尊く思え、慕わしかった。

 季節が動く―――ということは、おそらく。

 (この方の御側に仕え御守りすることは、いつまで許されるのだろうか。)

 胸に起こるものが淋しさなのか、あるいはもっと別のものなのか。
 判然とせぬまま、あの日、頼忠は主を屋敷へと送り届けた。



 季節が動くときには雨が降る。
 午過ぎから俄かに雲が厚くなり雨となったこの日、本来北面の武士団に所属する頼忠は、ある役目を以って内裏を守る滝口の武士団などを訪れてきた。
 主の住まう屋敷に帰り着いたのは、夜も遅い時刻であった。

 頼忠は、表門入ってすぐに置かれている衛士の詰め所に一度顔を出してから、いつものように直接庭をまわってゆく。
 すると、小さな灯ひとつ。主の居室に通じる渡殿の端に当の主が所在無げに佇んでいた。
 雨の降る庭先、灯篭の淡いあかりのもとに頼忠の姿を認めると、主がうれしそうに顔を綻ばせた。庭先から渡殿に入った頼忠のもとに主が駆け寄ってくる。

 「お帰りなさい。雨になってしまって心配していました。随分降られてしまいましたね。大丈夫ですか?」
 「―――・・・只今、戻りました。遅くなり申し訳ございません。」

 雨に濡れた髪を拭こうと麻布(あさぬの)を手に主が背伸びをしようしたのを受けて、頼忠は身をかがめてやる。

 ―――今はもう青葉繁れる季節。

 雨に濡れてもどうという季節ではなかったが、頼忠の身を案じてこうして世話を焼こうとしてくれる主のことが、いじらしく愛おしく、頼忠は、されるがまま大人しくしている。
 ほんとうは、目の前のひとを抱きしめたいところなのだが辛うじて堪える。
 雨に濡れた衣のままでは主を抱きしめるわけにはゆかないから。

 「花梨殿、ありがとうございます。もう、このくらいで。」

 世話をやいてくれている華奢な腕をとり、その手の甲に口づける。
 そうして、碧の瞳をとらえて、囁く。

 「着替えて直ぐにまいりますので、どうか先に奥で御寝すみになっていて下さい。」

 今、主が住まうこの屋敷の最奥の対には、ここに仕える者たちとて立ち入らせないことになっている。この、頼忠を除いては。このあたりの事情を知っているのは家令と女房頭とごく一部の者だけである。
 遅い時刻ゆえ、もう屋敷内で立ち働くものはほとんどおらず、人目はないといっていい。
 それでも、その最奥の対には至らぬこの場所で頼忠が取った行動に驚いたのか、恥ずかしかったのか。
 主の碧の瞳が揺れるように瞬いて、すぐにその目元が淡く染まった。

 こうして主と相対し近しい距離で、その碧の瞳を真正面から見つめることに、頼忠はもう戸惑いはない。頼忠にとって主は主のまま、同時に、ただひとりの愛しいひとであった。

 “龍神の神子とその八葉”という二人の関係は、あれから“斎王とその護衛者”に変じていた。



 この京の絶望と穢れが祓われたあの風花の日。龍のもとから戻った神子は、この京に残り頼忠の傍に居たいと強く願ってくれた。その願いを受けて、八葉たち―――特に、帝と院に近しい東宮様と別当殿が陰日向に動き、その願いを具体化した。

 四条の藤原家が預かる大切な龍の斎姫が権力とは一線を画し心穏やかに暮らせるように。彼女の今後の生活の保障とともに、この京を取り巻く権力の均衡、そして、この京の秩序たる身分制度との兼ね合いから導き出された落としどころがそれであった。

 院と帝の双方から認められ庇護される「龍の斎王(龍神に斎く姫)」―――であれば、いかに高い身分の公達であっても、彼女との婚姻は成らず、貴族たちの権力闘争に巻き込まれずに済む。
 そしてその「斎王の護衛者」―――であれば、常に彼女の身辺に在ることが許される。

 この京と龍神とに囚われるような形であり、いわば神に嫁した斎王の秘密の恋人という立場に甘んじることになるのだが、頼忠はそれで構わなかった。
 正式な婚姻は叶わないものの、ただひとりの人と決めた主の傍に在り守ることが許されるのだから。

 近々宮中で雨の祭事が執り行われる。
 院と帝と双方の思し召しにより、頼忠の主がこの祭事に招かれることとなっている。

 この日、頼忠は「斎王の護衛者」の立場で、祭事の折の警護や式次第など、蔵人所とその配下の武士団(滝口の者たち)、陰陽寮、式部省の実務担当者たちとの打ち合わせに出向いていた。
 出向いた先に元八葉の陰陽師殿と式部大輔殿の姿もあり、ただでさえ人目を惹く彼らが無位無冠の者である頼忠と親しく話す様子にその場が大いにざわつくという場面もあったが。ともかくも、頼忠は、「北面の武士団から派遣されて斎王の護衛を取りまとめる実務者のひとり」として認識され、各部署の実務担当者らとの間で、細かな点まで情報のすり合わせを行ってきた。

 春から夏へと季節が動くとき降る雨は、恵みであると同時にこの京の川をあふれさせることがある。
 龍は雨を司る。
 そのため、龍に斎く姫たち、白龍と黒龍が選んだ二人の神子―――今は白龍の斎王と黒龍の斎王という立場―――がこの祭事に召されることとなった。



 雨に濡れた衣を替えて最奥の対へと入ると、すぐに主が頼忠のもとに飛び込んできた。
 華奢なその身を抱きとめて、そのまま祭事の仔細のうち一番に知らせるべき事項を伝えると主の表情が輝いた。

 「それじゃぁ、千歳にも会えますね・・・!」
 「はい。祭事の折にはお席はお隣同士とのことです。控えの間もお近くにとってくださるそうですので、そちらでゆっくりとお話することも叶いましょう。また近々、式部省より泉水殿が、陰陽寮より泰継殿がこちらにいらっしゃいます。ここの家令と女房頭とを交えて、当日のお衣装のことなどお打合せくださるそうです。これは神事でもありますので、当日身に着けられる神具のことなどご説明くださるそうです。」
 「二人一緒に来るの?」
 「ええ。お二人でいらっしゃるそうです。泰継殿はそれが無駄がなく理にかなうとおっしゃっておいでで。泉水殿もそれに同意なさって。」
 「うれしい・・・! とても楽しみです。いつ来てくれるのかな。」
 「明日にでも、お二人の訪いの日を告げる御使者がいらっしゃいましょう。」

 旧知の八葉の訪いに胸を弾ませる主の様子に、頼忠も目許を和ませる。

 斎王としての暮らしは主にとって窮屈ではないか。不自由ではないか。これまでのところ主が不満を漏らしたことはなかったが、頼忠にはそれがいつも気懸かりであった。
 神に斎くという職務上、日々の暮らしの中で祈り言祝ぐ儀式がいくつもある。
 頼忠との関係も、斎王の屋敷内であってもここの最奥の対以外の場では、あくまでも主従の態を崩さないことになっている。
 四条の屋敷に居た頃と比べれば、幾分決まりごとの多い暮らしであった。

 この世界で頼忠の傍に在ることを望み選んでくれたのは主であったが、それは当然に、主からそれまで慣れ親しんだ世界を奪うことでもあった。
 心優しい主にとって、どれほどの痛みを伴う決断であったか。
 そうまでして選んでくれたこの身が、この暮らしが、それに見合うものなのか。

 それらのことを思うと、頼忠はいつも胸が苦しくなるほどの悲しみに襲われた。

 季節が動く時には雨が降る。
 龍を戴くこの京では、ずっと昔からそうだった。
 青葉繁れるこの時期、篠突く雨は龍の涙雨だとも言う。
 つい先ほどの姿。小さな灯のもと、渡殿の端で不安そうに佇んでいた主の姿が気になった。

 「―――花梨殿、あの渡殿でいつから待っておられたのですか?」

 そう問いかけながら、頼忠は主の身をさっと横抱きに抱き上げる。
 夜も遅く、早く寝所へお連れせねばと思ったから。
 頼忠に抱き上げられた主は、ごく自然に、その細い両腕を頼忠の首元に緩くまわしてつかまり、主を少し見上げる形になった頼忠の視線をもの言いたげに受け止める。
 それから逡巡するように少しの間をおいて、主の細く頼りない指先が、頼忠の左の耳にそっと触れた。
 左耳の外郭、巽(ソン)の宝玉が在ったあたりを主の指先がなぞり、小さく、ため息のように呟く。

 「ここに・・・今はもう―――宝玉が無いから」
 「―――・・・」
 「宝玉があるときは、頼忠さんが来るのがいつもなんとなく分かったんです。頼忠さんが怪我をしたとか、そういうのも。でも、今はもうそれが分からなくて。」
 「それで、ずっとあの場所で?」
 「―――暗くなってきて。雨は止まないし。大丈夫かな。早く会いたいな、早く帰ってこないかなって・・・そう思いながら、あの場所でついずっと待ってしまいました。今はこうして頼忠さんが傍に居てくれて毎夜一緒に眠るのに。今日はどうしてだか、とても心配になってしまって・・・」

 そうか―――やはりこの雨は龍の涙雨なのだろう。
 頼忠の胸に不意に起こるのは、どうしようもない焦燥感。
 人と神との間の大きすぎる隔たりを前に立ち尽くしてしまうような。そんな神への畏れとともに、胸に起こるジリジリと焼けるようなこの感情は―――。

 「わたくしは、ずっと御側におります」
 「―――」

 龍は雨を司る。
 主はその龍が選んだ愛し子。
 だから、この方の御心は少なからず雨と影響し合うのだろう。
 きっと、主の淋しさや不安が雨を呼び、降る雨が主の淋しさや不安を募らせる。

 龍はその愛し子を決して手放さない。掌に囲い、干渉しつづける。

 主が抱える不安の種が何であるか、その核心は頼忠にはわからない。
 推し量れば様々に思いめぐらせることはあれど、主が自身でどのように思っているのか。
 それを他者が決めつけることがあってはならない。

 頼忠にできるのは、ただ―――添うことだけなのだろう。
 褥にゆっくりと主の身を降ろし、此方を見上げる碧の瞳を捉えて問いかける。

 「貴女を・・・この龍の涙雨が貴女を呼ぶのかもしれませんね・・・」

 はじめてそれに気づいたように、碧の瞳が大きく瞬いた。
 きっと、この世界に在る限り、龍は主に干渉し続ける。
 近く遠く。ときに、この京に降る雨となって。
 ともすれば、主を攫いかねない危うさで。

 「このまま雨があがるまで、お側におります。夜が明けても。」

 この雨音が、貴女の身の内に悲しみをもたらすのなら。
 この雨音が、不意に押し寄せる淋しさに貴女を誘(いざな)うのなら。

 「―――この雨音が、これ以上貴女に届かぬように。」

 龍よりも強く、貴女をこの地に繋ぎとめるために。

 ―――愛しています。

 そう低く囁いて、頼忠は、ただひとりの愛しい人をその胸に深く深く抱き込んだ。


Fin.
( 神様よりも、もっと深く。ただ貴女だけを愛している。 ) 


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「 やがて、雨は 」 (頼忠×花梨)
photo by [0501]

 頼忠×花梨の京エンドは、頼忠が神子殿に囲われる方向を、わたくし、ひとりで推しております。
 あくまでも主従関係を崩さない恋人関係というのが、頼忠の本領発揮と思います。女の子の恋心には明後日の方向ぐらい疎いくせに、「主」のこととなるとやたら細やかさを発揮する頼忠さん。主従関係がベースにある恋人同士が理想のお方です。
 現代に連れてくるのは心配過ぎる人ですし。どちらかというと、京エンド推奨な人ですよね、頼忠さん。
 とはいえ、京エンドとしても、この後の河内源氏の血で血を洗う抗争を思うと、武士団からどうにかして距離をとらせたいところです。ひとたび抗争が起これば鉄砲玉のごとく、早期に討ち死にしそうで心配だ。

*2022/12/05 clapお礼ssとしてUPしたもの