もうすぐ雨の季節になる。 京で「さうび」と呼ばれている花は小さくて、けれども、燃えるような深い赤色をして。 花梨が知っている、家の庭に咲くものとは随分違っていた。 「―――花梨、どうだ・・・?」 静かな声とともに額にひんやりとした感触。 初夏の明るい空とは反対に、薄暗い屋敷内の風通しのよい場所で、もう三日も伏せっている花梨である。 外界の庭は切り取られたスクリーンのよう。 そのスクリーンからこぼれるように紅の「さうび」が咲きほこっていた。 「泰継さんの手、大好きです。ひんやりしてて・・・あの・・・ほっぺたにもあててもらいたいなぁ」 「―――・・・」 視界がぼんやりと潤んでいるのは高熱のせい。 そのぼんやりとした視界の向こう、少しばかり困ったように溜息をついた人に、それでもそっと頬に添えてくれた掌の冷たさに、微笑う。微笑ったつもりが、泣き笑いになったのかもしれないけれど。 甘えたくなって上掛けの衾(ふすま)から少しだけはみ出させた手は、なんとなく行き場を失う。 結局甘えきれずにひっこめようとしたら、花梨のその意図に気付いたのかどうなのか、彼はその手を柔らかく握ってくれた。 「あと数日養生することだ。あのそうびが盛りのうちに庭に出られるようにもなろう」 「・・・は・い」 それでも、こうして弱っているときはダメなのだ。 初夏の日差しを一心に受ける紅のそうびに目をやりながら泣きたくなった。 瑣末な理由だと分かっている。解っているのだけれど。 今は遠い世界のことばかり浮かんできてしまう。 自宅の庭の薔薇は柔らかなピンク色だった。 そこのそうびよりももっと優しい色で。 自己主張の仕方がもっと控え目で。 香りももっと・・・。 世界を違えて生きていく―――その大きすぎる決心に比べて、なんてくだらないことだろう。 だけど、そんな些細な違いに、自分はこんなふうにつまずいて寝込んでしまった。 知らない世界、知らない場所で生きていく―――・・・それはきっと、こんなつまずきを幾度も繰り返していくことなのかもしれない。 「―――あれは、夏を告げる花だ」 「?」 「春の終わりを知らせ、やがて雨が来ることを告げるもの。今のお前の目にはつらいか? あれは鮮やか過ぎるから」 「――――――・・・」 「少し眠るといい。夕暮れ時になればあの薔薇(そうび)の紅は柔らかくなる。夕暮れ、日暮れ、薄暮、黄昏時と、少しずつあの紅が夜の色に溶ける―――そうして、明くればまた陽光の下に鮮やかに咲く」 落とされた目線に、頷いて見せる。 彼のまなざしはどうしてだか深い水底を思わせる。冷たいのではなくてしんと深い。優しくて、でも決して甘くはない―――だからきっと、信じられるのだ。彼の言葉はいつも誠実で、花梨の胸にすっと落ちてくる。 「神子の役目を終え、龍の加護が遠のいたのやもしれぬな・・・。だが、焦ることはない。少しずつこの地に馴染んでゆけばよい。休むことを厭うな。それが必要なときだ」 はい、と応えようとして上手く言葉にならず、彼を見上げる。 熱と涙でうるんだ視界。 彼はそれ以上何も云わず、でも、つないでいる手をもう一度優しく握り返してくれた。 そうだ、わたしは知っている。 この世界で初めて出会ったときから知っていた―――彼の温かさを、優しさを。 それは、ゆるぎない事実として。 花が花であるように。そのぐらいの確かさで、彼の温かさと優しさを。 ―――だから、わたしはここに居る。 そっと目を閉じる。 ほろりと涙がこぼれてしまった。 それでも何も言わないでいてくれる彼のためにも、ただ、眠ろうと思った。 初夏の風がわたるのを頬で感じながら。 たそがれる花の色を思いながら。 Fin. ( 愛とか恋とかより、もっと深く。) |