幾度か経験のあるもののはずなのに、どうしてだか、近頃すべてが初めて目にする手に触れるもののようで。 たとえば、この真昼の白い月も、年の瀬近くの市の賑わいも、大路を吹き抜けてゆく冷たい風も、傍らで白い息をまるく弾ませてわらった妻も―――・・・と、そこでひとり合点して泰明はふっと立ち止まった。 「泰明さん、どうしたの?」 不思議そうにこちらを見上げる瞳。 風で少しはねてしまった髪は、夏のころに比べると随分長くなった。 つないでいる指先は、あいかわらず、細くたよりない。 (―――ああ、そうか) 流れてゆく日常に、このひとがいる。 囚われたのか捕えたのか、いまだによくわからない。 それが恋かどうかもわからないまま、ただ離れ難く、気付けば自分はいつもこのひとのことを思っていた。 「―――・・・あかね、」 つないでいた妻の指先を引き寄せて、口づける。 唇にふれた冷たい感触とはうらはらに、見る間に頬を紅潮させてゆく妻はこのうえもなく愛しい。 「は、はやくお屋敷に・・・帰りましょう・・・?」 妻の声がうわずって消え入りそうなのは、ここが都大路で行き交うものたちも多いから―――ああ、屋敷に帰りついたらきっと怒られる。 けれど、そんなことさえ愉しいのだ、と、知れたらどんな表情をされるだろうか。 それに、このまま抱き寄せて、いたいけな瞳に口づけたいのだと言ったら、どんな表情をされるだろうか。 逡巡する間さえ愉しみながら、結局いつものように何も言わずその身を強く強く抱き寄せて。 そうして、瞳ではなく、 「ぁっ―――やすあきさ・・・っ―――」 やはりいつものように奪った唇は、冷たくてやわらかくて。 こぼれた吐息は、とても甘くて、不埒な熱をはらんでいるものだから、あどけない哀しみに胸が焦がされる。 “とどまる者”と“旅する者”。 そこに厳然と在るのかもしれない2人の境界線は、あまりにも重大で、かかえるには手にあまるほど―――それを知っていながら、淡く信じている。 いや、「信じる」よりももっと朧げな期待。 不意に押し寄せるこの感傷は、このひとが齎すものによって、やがてしずかに昇華されてゆくのだと。 それを正確に表す言葉を知らない。 誰に告げるものでもない、けれど確かに存在するもの。 ただここに、妻が美しく見せるこの世界に―――しずかにみちてゆくものに身をゆだねて、息絶えてしまいたい。 Fin. ( 君がくれる、いたいけな幸福。 ) |