おかえりなさい、と言いながら腕を伸ばし背伸びをすると、わたしがそうすることをよく知っている背の高い恋人は、その場所で少し身をかがめてくれて、わたしの体をしっかりと抱き込んでしまう。 街灯がともりはじめた冬の夜。 外の冷たい風をそのまま連れてきたみたいなコートの肌触りに、きゅっと胸の奥がせつなくなる。 ここは光が洪水のように溢れている世界だから、余計に懐かしくなるのかもしれない。 いまはもう遠く隔たれてしまった不思議の都の、静かな静かな闇のことが。 少し、せつないくらいに。 ◇ 別の世界でも冬の夜、ここにこうしているひとに、わたしは何度も抱きしめられた。 ここよりもずっと澄んで張り詰めた空気の、静かな夜。 静寂(しじま)の闇はとても深くて、けれど反対に、瞬く星は目に五月蝿いくらいで。 そのときの、このひとの藍の衣や手甲の布地の肌触りをよく覚えている。 冬の外気をまとったままのごわごわと冷たい肌触り。 ちょうど今、頬に手に触れているこのコートみたいな。 「―――花梨?」 「いいえ、あの・・・」 「?」 「四条のお屋敷の冬の夜を、少し思い出して・・・」 「―――」 抱きついたまま離れないわたしのことを、彼は少し笑ったのかもしれない。 そんな気配がした。 やがて、広い胸にぎゅぅっと抱きなおされながら、吐息交じりに囁かれる。 「実は、あのころ。わたしは、いつも―――これきりなのだろうと思って、貴女を抱き締めていました」 「―――?」 ◇ “えーー!?” と、めいっぱい驚いて見上げると、彼は、少し困ったような表情(かお)をしてこちらを見つめていた。 「夜が明ければ貴女はいなくなってしまうかもしれない。龍神が連れ去るかもしれない、元の世界へ戻されるのかもしれない―――それよりも、」 と、逡巡のために生まれた僅かな間(ま)。 そこにまた、このひとの静かな声が重ねられ、 「貴女は・・・わたしとは住む世界の違う方ですから」 「―――」 彼が言うのはきっと、あちらの世界とこちらの世界、という意味とは少し違って。それも現在進行形のことで。 出会うまでに過ごしてきた時間、思ってきたこと、通ってきた道、“日常”と捉えるもの、そのどれもが重なるところのない世界にいた2人、ということ。 わたしは、暢気なごく普通の高校生で、生き死にの境界なんて考えたこともなかったし、あの都に横行していた「生きるために他者から奪う」という行為もまったく想像できない、想像する必要もない場所で暮らしてきた。 だけど、彼のほうは違う。 いつも死と隣合わせな厳しい世界に身を置いて、永遠に消えない大きな大きな喪失感を抱えたまま生きてきた。“死に場所を探しながら生きている”なんて、なんだかいろいろストイックにひっくりかえった状況で。 彼の言うとおり。 たしかに、わたしたちは住む世界が違って―――それは今でも。彼にとっては現在進行形のことで。 「いまでも都合のよい夢の中にいるように思えるのです―――ほんとうに、わたしなどがここにいてよいのか、貴女の傍にいてよいのか、と」 「不安、ですか?」 「はい・・・身に余る幸福、のせいなのでしょう」 「―――」 ああ、きっと。 ここは、光が洪水のように溢れる世界だから。 どこか冬の闇を思わせる貴方にとって、少しばかり生き難い場所なのかもしれない。 貴方の身に馴染んだ闇色が、この世界の光に染まりきれずに、貴方に縋って捉えてしまうの。 そうやって―――どこまでも深い冬の夜の静寂に、あの濃く深い闇色に、そこに瞬く星ぼしの凛とした冷たい光に―――貴方は知らず囚われてゆくのかもしれないわ。 「ね、頼忠さん―――」 「はい」 「・・・わたしは、ここにいるよ?」 「―――・・・」 「ちゃんと、ここにいるよ?」 ◇ まっすぐ見つめ返したら、ほんの少し戸惑いの色を見せて。 だけど、すぐに別の色を宿らせた紫苑の瞳に射すくめられる。 そのまま唇を重ねられ、深くなってゆく口づけに夢中で応えながら、このひとの纏う「夜」の気配にわたしはゆるやかに毒されてゆくの。 「っ・・頼忠さ・・・わたし、このままここに居たいよ?」 「ですが、―――」 高校の制服を着たままのわたしが言っても、それはただの我儘にしかならない。 だけど今は、この我儘を宥めるよりも、ねぇ、奪うように愛してよ。 ひかりがあふれているあたたかい「夜」よりも。 わたしはもう、貴方がまとう「夜」の匂いのほうが安心するの。 冷たい静寂と深い闇の「夜」のほうが。 「みこ・・・っ」 なおも何か言おうとする形のよい唇に人差し指をあてて、ちいさく、「いいの。」って制したら、やがて、熱っぽい瞳に耳元でささやかれる。 ―――手加減できませんが、それでも? って。 ◇ 神様なら、知っているのかしら。 どのくらい一緒にいれば、わたしは彼の隣が、彼はわたしの隣が、自分の居場所になるの? その身にまとう光も、その身に沁み込んだ闇も、同じ朝をいくつ迎えれば2人で分け合うことができるの? 抱き合って指を絡めて、このひとが囁いてくれた言葉の、ほんとうのせつなさを、いくつ夜を超えれば、わたしは知ることができるの? ねぇ、神様―――わたしの“好き”は、いつになったらこのひとの“愛してる”に届くの? 「頼忠さん・・・―――愛してるって言って?」 Fin. ( 奪うように愛してよ ) |