名はこの世で最も短い呪(まじない)。 力あるものが真名を呼ぶとそれは強い呪縛になってしまう。 ここ不思議の京では、言葉には霊(たましい)が宿り呪(まじない)が生きている。 それなのに、初めての夜に旦那様になるひとに訊ねられたことを少し風変わりだなと―――そう思ったのは、わたしがここの常識を少しばかり忘れていたから。しかも、旦那様になるひとはわたしが育った世界ではもう居ない、この不思議の京ならではの職業―――陰陽師、だというのに。それもかなり凄腕の。 「神子、ここではお前の名を呼んでもよいだろうか?」 「?」 「わたしがお前の名を口にすれば、お前という存在を強く縛るも同じ―――それでも・・・いいか?」 はにかむように訥々と訊ねられ、わたしはすぐに目の前がぼぅっとして頬が熱くなった。 なんてすごい言葉だろう。 “名を呼ぶ”という些細な、でも、その意味するところの深く情熱的な、これは明らかに「プロポーズ」の言葉。 実は、よく考えたら、忙しくて慌しくてお嫁入りの段取りがここまで進んで初めて貰ったプロポーズの言葉だった。タイミングが完全におかしいのだけど、貰った言葉とともに、それがあんまりにも彼らしくて、なんだか可笑しくなって微笑ってしまった。 小さな灯ひとつ。 白い単姿で向かい合い、ふたりカチンと正座していたのだけど、わたしが微笑ったものだから、旦那様になるひとは戸惑い心配そうに首をかしげた、神子? だめだろうか、と。 灯のせいかいつもは冴え冴えとしている彼の瞳がゆらめいて、こんなときに微笑ってしまった自分を少し不謹慎に思って反省した。 大好きなひとが、わたしの名を呼んでくれる。 わたしにはそれだけで十分に嬉しいことで。 だから、そっと彼の頬に手を伸ばし、ゆらめく瞳をしっかり見詰めてはっきりこたえた。 かまいません。それに、たくさんたくさん呼んでください、わたしの名を。 そう伝えたら、ほんとうに嬉しそうに彼の瞳が輝いて口元が綺麗にほころんで。 彼らしい控え目な笑顔が、小さな灯の中で、わたしの網膜にくっきりと焼きついた。 それから、壊れ物を扱うようにほんとうに優しく懐深くに抱き込まれて。 そのまま彼の胸に顔を埋めていたから、いつのまにか灯がなくなっていたことには気付かなかった。 だけど。 躊躇いがちに一瞬息を詰めた後で、きっとわたしだけが知っている低いわりに艶のある優しい声が、わたしの名を囁いてくれたのを確かに聴いた。 ―――あかね? と。 好き、も。 愛してる、も。 ずっと大切にする、も。 ずっと一緒に居て、も。 その全部がわたしの真名に載せられていて。 彼の言うとおり、わたしという存在は、そのたった一言で彼に強く縛られてしまったのだと思う。 彼が口にすれば、わたしの名は強い呪になる。 この世界で。 彼の言霊だけが、わたしを繋ぎとめる甘やかな鎖になる。 Fin. |