さくら前線



 出会ったのが秋だったから気付かなかったけれど、きっと桜が一番似合うひとなんだ。

 ◇

 散る桜の花びらに思わず空を見上げ、ふわりと通り過ぎた春風に、髪を押さえる。
 桜の季節ということはあれからもう半年。
 この背の高いひとと並んで歩くことも、少しは板についてきただろうか?
 まばらにおちてゆく花びらを向こうに、相もかわらずきりりと前を向いて歩くひとの横顔を見上げる。背に庇われることばかりだったから、こちらで並んで歩くようになってやっと見慣れてきた。
 おとこのひとらしいとてもきれいな横顔。

 このひとの、ふるさとの桜はどんな花だったんだろう?

 少し、ううん、とても残念なことに思えた。
 このひとに馴染んだ花のことを、なんにも知らずに帰ってきてしまったことが。
 このひとに馴染んだ世界を―――捨てさせてしまったことが。
 時折。些細な風景の中にあちらの世界の風景を重ねては、もしも、を考えて罪悪感が過ぎったりもする、丁度こんなふうに。それはとても驕った考えなのかもしれないのだけれど。

 「・・・花梨?」

 どうなさいましたか?
 と、やっと名を呼べるようになったというのに、それとは不釣合いな丁寧な言葉遣いで訊ねられて、微笑う。
 その不釣合いなことが、このひとの中でまるくしっくりとおさまっているのが不思議で可笑しくて、いとしい、ものだから。

 「―――さくら。頼忠さんのふるさとにも、桜はありましたか?」

 そう問うと、彼も花を見上げた。
 花をじっと見上げながら言葉を探し、しばらくして「こちらの桜は、その・・・華やか、でございますね」と、遠慮がちに微笑ってくれた。
 静かに咲いて散る淡い花に「華やか」という言葉が不思議だった。

 「河内の里山に一本、山桜がございました。枝ぶりも整えられたこともない、野(や)の大樹です。その花に比べると、こちらの桜は華やかに思えるのです。長く生きた大樹でしたが、毎年よく花をつけ、それが散る様は儚くうつくしいものでございました」

 もちろん、こちらのこの花の華やかさも、とてもうつくしいと思います。
 と、彼らしい気遣いの言葉も添えて、そんなふうにふるさとの花のことを教えてくれた。
 穏やかに、とても懐かしそうに。
 ここにはない花を見詰める眼差しに、先ほどの罪悪感が蘇る。決して、あちらに帰りたいなどといわないひとだと知っているから、余計に。
 ごめんなさい、とも、帰りたいですか、とも、言えない訊けないまま、それでも何か言わなければと言葉を探しあぐねていたら

 「―――花が」

と、大きくておとこのひとらしい骨ばったきれいな手が、わたしの髪に優しく触れた。
 まるで、わたしを宥めるみたいに。
 見上げると紫苑の瞳。
 何も言わなくていいですよ、と言っているみたい。そんなふうに目元を和ませて、背の高いひとがわたしのことを見詰めていた。

 「貴女にあの山桜をお見せできなかったことは確かに心残りです。貴女は、きっとあの桜の景色が似合ったと思いますから。ですが―――・・・河内の里のことを穏やかに話せるようになったのは、やはり、貴女とこの世界にわたったからなのだと思います。あの里では、いろいろ・・・ございましたので」
 「―――・・・」

 深く穏やかな眼差しに、不意に泣きなくなる。
 彼がここにいる理由が、わたしのためだけではないことが、嬉しくて。
 このひとにも、ここに来る理由があったのだ。決して「逃げ出す」という意味合いではなくて。
 過去のあまりに悲しい出来事を消化するために。囚われ続けた時間から前に踏み出すために。それから、自分自身を受け入れるために。
 そのためにきっと―――わたしと、この世界にわたってきた。
 意識しないことだったのかもしれないけれど、たしかに、彼のなかにそれはあった。

 「来年・・・再来年ですか」
 「?」

 わたしの短い髪を指で梳くようにして、髪に落ちた柔くしめった桜の花びらを取り、背の高い恋人が笑った。
 来年、再来年・・・?

 「我侭を許していただけるのでしたら、その頃には、貴女を」

 ―――貰い受けたいのですが。

 そう囁く声が、薄紅の花の中でわたしを捉えた。
 あんまりにも重大な我侭で赤くなる。
 なんてことを言い出すのだろう、このひとは。

 「卒業の年のことなんて気が早いです、わたしやっと2年生になったばかりなのに」
 「ですから、“我侭”と、申しました」
 「!」

 少し意地悪そうに笑って、だけど、急に大人のおとこのひとの顔になってわたしを抱き寄せる。

 さくらだ。
 きっと、さくらのせい。

 遠く懐かしく思い出したふるさとのさくらかもしれないし、ここに咲く“華やか”なさくらかもしれない。
 いずれにせよ、彼は、さくらを味方につけている。
 なんだか、そんな気がした。

 “我侭”を覚えた年上の恋人は、とても桜の似合うひとで。
 その一番似合う桜の中で、優しく、どこか意地悪に我侭なんか言われてしまったら。
 こんなところで、腕にとじこめられてしまったら。

 「ずるいです・・・頼忠さん」

 わたしに勝ち目なんて絶対にない。
 ずるい、と呟いたわたしはさらに深く抱きこまれて、“ずるい”ひとの我侭に、小さく頷いてしまうのだから。



 この花をもたらしたさくら前線を今年来年と見送って、やがて、3度目のさくら前線がめぐってきた頃に―――


 薄紅の花の中、そんな甘い約束をして。
 わたしは、彼の小指に自分のそれをそっと絡めた。




Fin.
 

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「さくら前線」(頼忠×花梨)



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