雨 に 歌 え ば 




名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実ひとつ
故郷の岸を 離れて 汝はそも 波に幾月
もとの木は 生いや茂れる 枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕 孤身の 浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば 新たなり 流離の憂い
海の日の 沈むをみれば 激り落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 国に帰らん

*島崎藤村 『椰子の実』



◇ ◇


 小雨の降る日、空を見上げて神子が歌っていた。雨に濡れることも厭わずに、階(きざはし)に腰を下ろして。
 細い腕(かいな)が見えた。
 掌を差し出して、天から落ちる雨をそこに受けている。神子の澄んだ声が、雨音に溶けながらこの耳の届いた。
 歌声に載って伝わるのは、「悲」―――だから、神子の紡ぐ呪に浚われてしまうのだ。屋敷の結界を強化するための呪が、上手く唱えられない。
 ただ、虚ろのようなこの身の内に神子の「悲」が流れ込んできた。

◇ ◇

 「お身体に障ります。 お戻りください」
 「………はい」
 神子が、大人しく頼久の言に従っている。実に、珍しい事態だ。
 「頼久さんは大丈夫ですか? あの。ずっと雨の中で警護なんでしょう?」
 「鍛えております故」
 「………そう…ですか。泰明さんも、雨の中ごめんなさい。お世話かけます」
 「当然の役目だ。天候にかかわらず為すべきことは為す」
 「泰明さんも頼久さんも、相変わらずですね…」
 肩をすぼめて神子が笑った。表情の見えない笑顔で。神子は、隠し事をしているときに必ずこの表情をする。
 「神子殿」
 「はい」
 「お尋ねしてもよろしいでしょうか」
 「はい。なんでもどうぞ」
 「先ほどのお歌は…」
 「ああ…」
 途端に、悪戯っぽい笑みを浮かべてから、両の手で口元を隠す。くふっと、笑い声をたてて。この神子が、ろくでもないことを思いついたときの癖だ。
 「美味しいものが出てくるお呪いです」
 「………はぁ」
 「椰子の実っていう木の実が、海からドンブラコ~どんぶらこ~と。流れてくるの」
 「やしのみ、でございますか?」
 「そう。南のほうの、ずっと遠い国の木の実でね。泣けるほど美味しいから、こっちにこーい、っていう歌なんです。それでこっちに来たら、故郷に持って帰って皆で食べましょうっていう…」
 「………僭越ながら、そのように楽しげな調べには聴こえませんでしたが」
 するとまた、神子はくふっと笑い声をたてる。頼久さんも、まだまだですねぇ、などと言いながら。
 「いいですか? 悲しそうに歌うと、どうしても来て欲しいのだと分かって、椰子の実が来てくれるかもしれないでしょう? これは、お呪いなんですから」
 「………はぁ。然様で」
 困惑した表情の頼久を見て、神子はまた笑う。やがて、ふっと笑みを消してから、ね、頼久さん、と呼びかける。
 「はっ」
 一瞬、頼久の瞳を捉えて。けれど、すぐに表情の見えない笑顔をつくる。
 「だから。あんまり心配しないで下さい…ね?」
 「………は」

◇ ◇

 頼久は、神子が立ち去ったあともしばらくそちらの方向を眺めていた―――嘘であることでさえ明らかな拙い嘘だった。頼久とてそれが判らぬはずはない。神子が歌っていたのはそんな呪ではない。
 「頼久は、何故騙されてやっているのだ」
 「泰明殿」
 振り返ったその眼はやけに鋭い。
 「騙されてやるなどと………私は、神子殿の仰せに従ったまでのこと」
 「しかし。お前とて神子が嘘を吐いたことを判っているではないか」
 再び、黙れ。と、眼で制される。
 「他愛ないものでございます。それに、神子殿は、心配するなと仰せになられた」
 「けれどお前は神子を気に掛けている。あの歌のせいで」
 そこで、ふぅっと、頼久が溜め息を漏らした。やがて、やや声を潜めてから言葉を継ぐ。
 「神子殿が心配するなと仰せだったのは、それ以上立ち入るなということです。主に…そのように言われては、いくら気がかりであったとて、神子殿のお心をそれ以上煩わせるわけには参りません」
 「………お前の言は、理解できぬ」
 「………」
 「それで神子は…守れるのか?」
 「少なくとも、そのお心を労わるための手段であると、そのように」
 そのような手段には、私は一向に迂遠だ。人ではない出自故心というものがよく分からない。よく分からぬものを、どう守ればよいのか。
 「…それで神子の身の内にあるものを守れるのであれば………私に否やはない、しかし」
 ただ、あの歌は神子の涙だった。神子は、涙の代わりに歌を唱えたのだ。「悲」を滲ませて。
 「神子は泣いていた」
 「存じております」

 ―――名も知…ぬ とお…島よ…り 流れ寄る や…しのみ…ひ…つ
 神子の房よりまたあの歌が聞こえてきた。小雨の降る庭先から、頼久と共に振り返る。

 ―――ふる…との…を は…れて 汝は…も ………幾月

 細く途切れ途切れに、雨音に溶けながら。けれど、この耳に届けば刺すような「悲」の歌。やがて、ぐすっと鼻をすする音がした。大きく溜め息をついて、また歌いだす。
 神子の歌声に載って伝わるのは、「悲」の涙だった。

◇ ◇

 悲しいという言葉は、万人に…いかな者にとて通ずる言葉なのだと、神子が教えてくれた。神子の瞳から涙が移り、ただ呆然と立ち竦んでいたときに、神子が呟いたのだ。
 『悲しみは世界の共通語なんだって』
 例えば、仏法における三千世界の全てにおいて、あるいは、六道に分かたれた全ての世界において、悲しみという感情は正しく悲しみとして認識される…そういうことかと問えば、
 『誰にでも、分かっちゃうってことよ』
 至極簡潔な応えがあった。
 『会ってからそんなに時間が経ってない人にも悲しいのって伝染するのね…。ごめんなさい。泰明さんにも悲しい思いをさせてしまって』
 『………』
 自らの衣の袖で涙を拭ってくれる神子を見ながら、思い至る。
 神子は、知らぬのだ、この身が人ではないことを。
 いずれの六道にも属さぬ、この出自を。
 理を曲げて存在する、この罪深き身のことを。

 今も、雨に伝わるのは神子の悲しみ。

 ―――思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 国に帰らん

 少し声を高めて、その最後の節が復唱される。声が震えていた。

  カナシイ、帰りたい、逢いたい、苦しい、痛い、悲しい…。

 神子は、帰りたいのだ。神子を慈しみ育んだ世界へ。
 小雨を手に受ける。それは、雨に混ざった神子の涙。
 「神子が―――泣くからだ」
 天を見上げていると、雨と一緒に自分の目からも涙が落ちた。

◇ ◇

 「―――!?」
 「み、神子殿!?」
 かたり、と御簾を除ける音がして一瞬の後さらに上ずった頼久の声。
 「わぁっ!?」
 「―――うっ」
 「「………」」
 続いて素っ頓狂な神子の声と、頼久の低いうめき声。さらに沈黙。
 「………」

 簀子のへりの高欄から庭に飛び降りた神子を、辛うじて頼久が抱きとめており、勢いあまった神子が、頼久の鳩尾あたりに蹴りを入れたらしい。
 「ご、めん…なさい。頼久さん」
 「ご、無事にございますか? 神子殿」
 「はい………」
 よかったと、酷く情けない顔をして頼久が呟く。
 「お怪我をされては一大事。このような高い場所から飛び降りるなど」
 「ごめんなさい。雨で、ちょっと滑ってしまって」

 「………神子は、思慮が足らぬ」
  はっと、二人此方へ振り返る。
 「それでは、頼久の寿命が縮む。我らとて何度、心臓が止まる思いをしたことか。自重することを覚えろっ」
 「………泰明殿」
 神子と頼久の許に歩み寄る。
 星の姫といい、この頼久といい、神子のために幾度となく肝を冷やしているというのに、双方全く懲りない。
 「頼久も、神子を甘やかしすぎだ」
 やがて、頼久に抱き上げられたまま神子がくふっと笑った。小雨の降る中、両手で口元を押えて、くふくふと笑う。
 嫌な予感がした。
 神子が、ろくでもないことを思いついたときの癖だ、この笑い方は。
 「泰明さんは、泣き虫です…」
 「…なっ」
 「それに、すぐ怒るし」
 「………」
 「泰明さんの………」
 頼久の肩越しに、神子が口をあけたまま言い淀む。酷く、間抜けな表情だ。
 「で、なんだ? 次は」
 「う”………」
 「泣き虫も短気も、神子であろう。そもそも、お前の涙は私に移る。甚だ迷惑だ」
 神子が、此方に手を伸べる。今は頼久に抱き上げられているから、神子のほうが目線が高い。
 「偽りを申すは陰陽の理に反する。お前のような力あるものの言には言霊が宿る故、滅多なことを口にするな」
 細い腕が伸ばされて、呪の施された頬に触れた。神子だけは、私に触れることを厭わない。この醜い呪にすら、躊躇うことなく柔らかく触れる。
 「また、移っちゃったんですよね…ごめんなさい」
 つっと…涙の跡を神子の指がなぞる。
 「それから………ありがとう」
 「神子に礼を述べられる筋合いはない」
 「………泰明さんの馬鹿」
 「…泣き虫、短気ときて、三つ目はそれか」
 「………」
 頬に触れた手に、自らの手を重ねると、神子が笑った。つつけば、すぐにでも泣きそうな顔をして。
 私は、溜め息を吐く。頼久の言うとおりかも知れぬ。神子の他愛ない嘘に付き合うのが、上策のようだ。
 「神子………椰子の実とやらは、届きそうか?」
 「え…?」
 「美味なるものを得るための呪を唱えていたのであろう。お前は」
 「………うん」
 「食い意地のはった娘だ」
 「なっ! 泰明さん!? ひどっ」
 「事実だ。だいたい一日に三食もとっておきながら、尚、椰子の実の呪いか。余計な肉がついても知らんぞ」
 「さいっってー!!」
 見る間に、頬を膨らまして剣呑な表情になる。先ほどの泣きそうな顔よりはマシだと思い、さらに言う。
 「余計な肉がついては、元の世界に戻る入り口に弾かれるやもしれぬ」
 「えぇっ!? 体重制限あるの? 来たときよりも重いと、帰れないの?」
 途端に、うろたえる。表情がくるくると変わり興味深い。龍神の神子は、実に落ち着きの無い娘だ。
 重ねた手―――呪の頬に触れた神子の手を、強く握る。
 「必ず、帰す」
 「………?」
 深い碧の瞳を見上げて、誓う。この娘を守るのが、私の存在意義。守るべき、ただ一人の斎姫。
 「お前を。必ず元の世界に帰す、この身に代えても。神子の望みであればそれを叶えるのが八葉の務め」
 「泰明さん………」
 「しかし今は、耐えろ」
 「………」
 「お前の八葉として、神子の帰還を約定する。だから…もう、食い意地のはった呪など唱えるな」
 悲の歌を。
 涙の代わりに、そんな、悲の言霊を唱えるな。
 嘘を吐いてまで、その澄んだ声を悲に染めるな。
 「……う…ん。ありがとう………」
 「………」
 「神子殿。そろそろお戻り下さい」
 「………はい」
 手を、離す。
 神子の温かな手から離れると、この掌(たなごころ)にじわじわと雨の涼が広がる。
 頬に触れていた小さな手も、やがて離れていき、この呪に小雨が戻った。
 遠ざかる頼久の肩越しに、神子の大きな瞳が瞬く。
 やはり、私は神子の涙を止めることはできなかったのだろう。
 雨音が少し大きくなった。龍の娘が泣いたからだ。龍は、雨を呼ぶ神だから。
 陰陽の呪を唱える以外、何の能もない自分を、歯痒く思う。守るべきただ一人の娘の抱く悲しみという感情の前に、私は実に無力だ。
 頬に触れていた神子の手は温かった、と、ぼんやりと思う。その小さな手に重ねた、私の手は………人ではない私の手は、温かかったのだろうか?

◇ ◇

 それから程なくして、今度は日照雨(そばえ)が降る日。
 神子がいなくなったと星の姫に泣き付かれて探しに出れば、森の中で一人、歌う神子を見つけた。
 先日のものとは、違う歌だった。
 声をかけると、泣き出しそうな顔をして此方を見上げる。木漏れ日を受けて、その瞳がキラキラと光った。
 その歌は何の呪だと訊ねると、やはり、食べ物の呪だと神子は言い張る。
 「カツ丼がもらえるの。このお呪いは」
 (―――ああ、またか。拙い嘘に、私はまた付き合ってやらねばならぬのか)
 それ以外に神子の抱く悲しみという感情への対処の仕方を知らないというのが忌々しい。効果があるものかどうかも、疑わしいというのに。
 「それもまた、美味なるものなのか?」
 「そう。悪い人も涙を流すほど美味しいの」
 「………」
 「悪い人を小さな部屋に閉じ込めて、お前にも親が居るだろうとか、年老いた母を思い出せとか、そう言ってから、このお呪いを歌うの」
 「………」
 実に、支離滅裂な呪いだ。神子は、やはり嘘を吐くのが下手だと確認する。ぐすぐすと、鼻を鳴らしながら、神子は続ける。
 「それから、ホトケの山さんとか呼ばれる年配の男の人が、『お前も辛いだろう。カツ丼でも食うか』、って。そう言ったところで、カツ丼がもらえるの」
 「………」
 「そ、それだけっ」
 「………」
 「………」
 「………」
 「………」
 「……年老いた母を持つ悪人も、小さな房も………此方にはあるが。山さんとか呼ばれる者は、神子の世界の者なのであろう」
 「………う…ん」
 「その者がおらねば、呪は完成せぬ」
 「………」
 「神子が呪を唱えたとて、その者がおらねば」
 「う……ん…」
 「よって、その呪も禁止だ。唱えても無駄だ」
 「―――!!」
 「………なんだ」
 「泰明さんの………意地悪」
 「聞く耳持たん。帰るぞ」
 「―――」
 「駄々をこねるな」
 「―――!?」
 強情を張る神子を、肩に担ぎ上げて森を抜ける。
 降ろせと暴れたとて、酷く軽く―――やはり、神子は温かかった。
 嘘を吐くのが下手で、よく泣き、すぐに怒る、他愛ない娘。雨が降ると、食べ物の呪を唱えて泣きそうな顔をする、不可思議な龍の娘。異界より無理矢理召喚された―――あかね、という真名を持つ………私の所有者。
 「………神子?」
 大人しくなったので、地に降ろしてやる。壊れてしまわぬように、気をつけながら。
 「お前の許しを得ずに、触れたこと。悪かった」
 「―――」
 歩みの遅い神子は、あの森に至るまでに随分日照雨にあたったことだろう。
 「………触れても、いいか?」
 ややあって頷くので、それを了と取り、手を伸べる。額に張り付いた髪を払い頬に残る涙の跡を拭う。

(―――!)

 神子が、笑った。
 日照雨が上がったあとの陽だまりのような笑顔で、この笑顔ならばよい、と安堵する。
 「案ずるな。私はお前の帰還を約定したであろう」
 「………うん」
 「ならば………」

 何故か、言い淀む。言うべき言の葉を知っていながら、それを口に出すのが躊躇われた。

 「泰明さん………?」
 「ならば…もう泣いてくれるな。お前は、笑っていたほうが………」

 ―――まだ可愛げがある。

と、言い終わったところで突然、神子に両頬を抓られた。酷く憎憎しげに。瞳が怒っていた。
 「…みひょ。いらい………。」
 神子、痛い。と抗議したはずだが、気の抜けた音が出ただけだった。指を離し、今度は両頬を挟むように、叩かれる。
 「っ―――。 いったい何を怒る!?」
 皆目見当がつかなかった。

◇ ◇

 肩を怒らせて足早に去ってゆく小さな背。
 遠ざかってゆくその背を眼で追いながら、神子を帰すということは、この背に二度と追いつけぬことだと思い至る。
 ―――それが。
 それが、殊の外………残念なことに思え、何故そのように思うのかは分からずに困惑する。

 (――――っ)

 日照雨に濡れた新緑は、この網膜に焼きつくほどに鮮やかな色をしていた。

 神子の涙が齎した雨。
 その雨に歌う神子。
 そして、二度と神子に触れられぬことに落胆する己。

 (―――いったい、私は、どうしたというのだろう………)

 神子の帰還を約定したことを、この日私は僅かに後悔した。



Fin.