幸 福 論




 幸福というものは、時に、避けがたい落とし穴を孕んでいる。ある意味、代償のようなものかもしれない。が、きっと誰も避けようとしないものなのだ。眼前にその落とし穴が迫っていることを知って尚、足を一歩出さずには居られない。
 幸福とは、実に、奥が深い。

◇ ◇

 「泰明さんね、近頃、反抗期なんですよ」

 台所でコーヒーの用意を手伝いながら、先代の神子―――あかねが不意にそう言った。
 あかねは、花梨と同じように周囲の者たちに対して深い慈愛の念を持って接する。 この優しさを湛えた温かい「気」が、龍神に選ばれる条件であるのかもしれない。
 「泰継さんが“よく出来た弟”だから、急に何でも背伸びしているの」
 泰明のカップに、角砂糖4つとミルクを入れながら、まぁ、仕方ないことですけど、と彼女は笑った。
 「私が泰明に敵う訳が無いだろう」
 「それそれ。泰継さん相手にしてないでしょ? だから余計に反抗期なんです」
 相手にしていないのではなくて、端から敵わないと常々言っているのだが…。
 「そうやって一歩退いてるところ。絶対、泰明さんには無理。真似できないと思います」
 「………泰明が聞いたら臍を曲げる」
 「そうですよね。ほんと、どっちがお兄ちゃんなんだか。…えっと。花梨ちゃんはお砂糖は?」
 「あれは3つだ」
 「「………」」
 幼さの残る彼らを想い、お互いに顔を見合わせて笑ってしまった。
 ―――と。
 ふいに居間の方から強い視線を感じる。
 「………あかね。先に3人分のコーヒーを持って行ってくれ」
 居間のソファーに座って拗ねた横顔の泰明に気づき、あかねは今度こそ噴出した。 彼女は、泰明の想い人であると同時に保護者であることを自任しているらしい。こんな時は、ことさら姉や母親のような表情をする。
 「泰継さんは?」
 「ああ。甘いものを用意して、あとから行く」
 「はーい」

◇ ◇

 「コーヒー入ったよ」
 あかねに声をかけられて先代―――泰明の気がふっと和んだのを背で感じる。それと同時に、あかねが
 「さっきブーたれてたでしょ。でこぴーん!」
と言うのが聞こえた。続いてぱちんっと音がする。
 この『でこぴーん!』というのが先代の神子の『躾』であるらしく、 事ある毎に、泰明はそれをくらっている。今回も泰明の額は少々赤くなっているに違いない。
 先代の神子は、実に不可思議な存在だ。
 花梨と同じように優しい気を纏っているわりに、泰明に対しては容赦がない。
 先日も、自分の分だけプリンを買ってきた泰明は、その場に居合わせたあかねから例の躾をくらっていた。
 あかね曰く、同居人である私への『配慮』が足りない、ということらしい。
 私は甘いものは得手ではないのでむしろ買ってこられても困ると言い、額を押えながら泰明が、継(つぐ)の言うとおりだ、と口答えしたところ、そういう問題ではないと、さらに怒られた。
 結果、あかねに『三日間のプリン禁止』を言い渡されて、泰明は不貞寝してしまったのだ。
 本日ついにそれが解禁となり、それを聞きつけた花梨が洋菓子の箱を携えてこの部屋を訪れた。

◇ ◇

 冷蔵庫から洋菓子(ケーキというものだ)の箱を取り出し、花梨が好きな白いのと、あかねが好きな表面が茶色いのと、泰明が好きな派手なやつを並べて見て、思わず嘆息する。
 どう見ても泰明の所望した菓子が、最も派手で甘ったるいものであろう。いったい、どのあたりで背伸びをして反抗しているのだろうか?
 いっそ、おぞましい程の甘い香りが其処から立ち上る。
 この泰明の趣味というか、嗜好というか、思考が―――絶対に『敵わない』ところでもある。90年の間に『諦めること』や『望まぬこと』を覚えてしまった私は、泰明には決して敵わない。たった2年で、かけがえのないものに間違えることなく手を伸ばし、それを掴み取った彼には。
 自分に比べて泰明は随分と素直なのだ。
 例えば、幼い子供のようだと言われようとも(実際、そうなのだが)、種々の果物もプリンも生クリームも…好きなものが全部載った件の菓子を、何の臆面も無く所望するほどに。
 好きなもの、欲しいものを絶対に諦めないし、諦める必要などないことをよく知っている

◇ ◇

 洋菓子の載った盆を右手に、ブラック・コーヒーの入ったマグカップを左手に持ち、居間へ移動する。
 いち早く花梨がこちらに振り返り瞳を輝かせた。
 「泰継さん、ありがとう。待ってたよー」

 相変わらず、我が神子は愛らしい。浮き立つような気の高揚とともに見せる彼女の笑顔は、至上のもの。
 「甘いものが遅くなったな。すまない」
 「何言ってるんですか〜。ケーキも待ってました!だけど、泰継さんのことを待ってたんだからね」
 花梨のこぼれるような笑顔に、思わず眼を細める。私はこの笑顔にも敵わない。
 「ベイクドチーズがあかねちゃんのだよね。泰明さんのは、この派手なやつね。ふふふ」
 私の手から盆を受け取り、花梨が、例の賑やかな『プリン・ア・ラ・モード』が載った皿を泰明の前に置く。
 途端に、あかねが口を挟んだ。
 「いーなー泰明さんの美味しそう。プリンと生クリームのところ、ちょっとだけ頂戴?」
 仕方がない、という表情をして泰明がそっと皿をあかねのほうに差し出した。日頃口答えをするものの、結局泰明はあかねに従順だ。
 「ありがとう泰明さん。一口頂くよ」
 そう言って、こちらの神子も笑顔を見せた。

◇ ◇

 幸福と言うのは実に他愛ないものなのだ。他愛ないのに、かけがえのないものだ。それを考えたこともなかったから知らなかった。例えば、この一瞬であっても―――幸福な時間というものは、濃く深く心を彩る。異界の地―――京で、どれ程長く時を重ねようとも、この他愛ない一瞬には、敵わないだろう。
 窓の外では葉を落とした枝が揺れ、間も無く、こちらの世界で初めての冬が来ることを知らせる。
 此方に目を移せば、コーヒーの湯気の向こうで花梨が笑った。
 彼女の笑顔は陽だまりに似ている。
 殺伐とした冬枯れのような景色の中でも身を切るような雪の中でも、温かな場所。閉じ込められていた長い時の回廊で、初めて触れた奇跡―――至福の存在。
 「―――花梨」
 「ん? なぁに? 泰継さん」
 名を呼ぶと、洋菓子にのみ向けられていた彼女の瞳が此方に向けられた。
 小首を傾げて。
 小柄な彼女は、少し私を見上げるようにする。
 あどけなく、けれど艶のあるその仕草に、慌てて私は咳払いを一つすることになる。
 やがて花梨がふわりと笑って、その笑顔が確かに私に向けられたものであったから―――動悸がした。
 すると。
 「………えっと、泰継さん、一口どうぞ」
 気づきませんで、と言いながら彼女がおずおずと手を伸べた。
 差し出されたフォークの先には、甘ったるい食べ物が一欠けらあり、その一欠けらは、私に沈黙を齎すには十分な存在感があった。
 「………………」
 いや、菓子を所望したのではない、という言葉を飲み込んで、私は花梨の笑顔を見遣る。
 「レアチーズだから、多分、泰継さんも大丈夫ですよ?」
 あどけない笑顔に、一瞬目の前が霞む。
 花梨が愛しいからなのか、それとも差し出された食べ物から逃れられないと悟ったからなのかは、判然としない。ただ、再び今、三月の眠りにつけそうな気だけはした。
 「……………………いただこう」
 どうにかその一言を搾り出す。
 視界の端に、額の真ん中を紅くしながらも嬉しそうにあかねの菓子に匙を入れる泰明の姿が映った。

 ―――幸福とは、時に。
 この甘ったるい洋菓子を、黙って飲み下さねばならぬような。
 或いは、愛しいものから額を強かに(したたかに)小突かれるような。
 些細な、けれど、避けることができない落とし穴を孕んでいる。
 それは、幸福であるが故に自ら作った落とし穴であるとも言え、ある意味払うべき代償である。

 「美味しいでしょう? さっぱりしていて」

 花梨が笑顔でそう言うので、慌てて口に含んだ苦いコーヒーの味に安堵しながら、私はただただ黙って頷いた。



Fin.