斎 姫 の 告 白 (4)


 (―――こ、困った…)
 少なからず予測していたものの、実際にボロボロと泣き出してしまった花梨に泰継は酷く狼狽える。
 そして、ほとほと自分は花梨の涙には弱いのだと苦笑う。
 「―――花梨?」

◇ ◇

 腕の中で声を殺して泣いる花梨の背を撫でながら、矢張り、人ではない自分が彼女の傍に在ることの代償は大きいのだろうと目を伏せる。この腕ですっぽりと包んでしまえる小さな肩を、自分は、どこまで守ってやれるのだろうか。
 「すまない、花梨。私がわるかった、詮無いことを言った…」
 慌ててそう謝ってみるものの彼女が泣き止む気配はなく、ただ抱き締めてやることしか出来ない。
 彼女がくれる沢山の想いは、逆に彼女を傷つけるものになるのではないか。自分に向けてくれる想いが深く大きなものであるのなら、尚更、花梨が負うものは深く大きいものになるのだろう。
 物事には必ず陰と陽、正と負、相反する二つの面が備わっている。ただでさえ、愛情は痛みを伴うもの。深い愛情には、相応に深い痛みがあるはずなのだ。彼女が笑顔を向けてくれるたびにこの身のうちに降り積もる神気―――それと同じだけ、彼女が傷つくことになるのではないか―――
 (ああ―――そうか)
狼狽えながらも泰継は、思い至る―――そのことが、何よりも気掛かりだったのだ、自分は。この不安は、自ら覚悟してきたことに対してではなく。花梨に強いる覚悟のためなのだと、泰継は、漸く不安の正体を知る。
 「すまない花梨。もっと他に言い様があったものを………」
 遅すぎる認識に溜息を吐き、泰継は矢張り自分は愚かだと眉を顰める。花梨がからむと、どうも、自分の感情を把握できなくなる。相反する感情が混沌とする中で、いつも、自分は自分を見失っているように思う。愛しいという感情が内包する様々な矛盾に、さらに別の矛盾を孕んだ願いや望みが幾重にも重ねられて、自分は自分を見失うのだ。
 例えば、彼女の目の前から自分が居なくなるのならば、ゆっくりと霧が散じるように優しく彼女の中から消えていくのが望ましい。いつの間にか居なくなっていたと彼女がそう気付いたときに、小さなごく僅かな痛みが一瞬走り、その後は何も残さずに消えていく。今、彼女に深く深く愛されることを望みながら、別れがそうやって浅く優しいものであればよいと、矛盾した願いを抱いている。
 或いは、彼女を見送るのであれば、彼女が逝くのと時を同じくして塵に還りたい。彼女に遺される辛さはいかばかりであろうか。一度手にしてしまった温もりを喪って長い時を過ごすなど、とても出来そうにはない―――だから、ほんの一瞬でいい。彼女の後に、この長すぎる生命の終焉が訪れてくれることを切実に願ってもいる。
 けれど、土台、無理な望みであり願いなのだ。

 生命の終わり方を、或いは、終わる時を、自ら決められるほど世界は自由ではない。
 ただでさえ、自分の存在はこの世の理を乱している。ならばこれ以上、理を乱すことは避けねばならない。理の外にあるのならば殊更に、理を乱さぬように細心の注意を払わねばならない。何時訪れるか分からぬ生命の終わりを、自分はただ、受け入れるしか手はないのだろう。
 そうやって思い知る。
 所詮、自分には事実を受け入れることしか許されていないのだと。耐えようもなく苦しく絶望的な事態に出会ったとしても、陰の気からつくられた偽りの生命は、ただ在るがままに全てを受け入れることしか―――そのことしか許されていないのだと。
 耐えること、受け入れること、待つこと。
 陰陽を見定めそれを御する力以外で、自分に与えられたのは、そういったごく受動的な能力でしかないのだ。

◇ ◇

 「詮無いことを言った。お前を泣かせたいわけではないのだ……ただ…私は、私の過去を消化しきれていないのだろう。花梨、聞いてくれるか?」
 腕の中で花梨が僅かに身じろぎをした。未だ歔欷(きょき)は已まないものの、自分の言葉を聞いてくれているのだろう。
 「近頃記憶に今まで抱いたことのない感情―――例えば、『悔恨』がつきまとうことが多くなった。もともと、その感情ごと記憶していて私が目を背けていただけかもしれない。それに苦痛と思ってこなかったことも、今、記憶を手繰れば苦痛を伴って思い出される。そうして、自らを支えきれずにお前に縋ろうとする。浅ましいことだ」
 近頃、泰継は毎夜記憶に苦しめられる。それと分かるほどに気を乱し、必ず泰明が心配して駆けつける。一度、うなされて目を覚ますと、自分の腕をとる泰明が泣きそうな顔をしていたことがあった。きっとこの特殊な間柄も作用して、泰明は、無意識のうちに泰継の夢を垣間見てしまったに違いない。
 彼には悪いことをしたと思う。あの幼くも優しく純粋な兄を、息が出来なくなるほどの深い絶望の淵に不用意にも触れさせてしまったのだから。
 「私は………弱い。だから、こうしてお前を閉じ込めたい欲求が出るのだろう」
 愛情は、痛みを伴うものだ。相反する願いを、矛盾する望を同時に抱くように。愛するということは、自分にも相手にも痛みを負わせるということ。相手に、その覚悟を強いること。
 きっと自分は分かっていなかった。
 彼女が負う痛みの分までは、思い至っていなかった。
 だから、不安だったのだ。

◇ ◇

 それでも彼女の傍に居ることを願うのならば、彼女が負う痛みまで自分が全て被ってやることができればいい。そうやって、彼女を愛することは可能だろうか。
 あの雪の日、願うことを諦めるなと花梨は言ったのだ。  今自分が願うのは、ただ、傍に居たいと願うこと。
 「いくら不安に思っても、どのような結果になろうとも、私はお前の傍にいたい、お前が望む限り。何度不安に囚われても、辿り着くのは結局のところ私がお前を愛していて、お前の傍に居たいということだけなのだ、私が願うことはそれだけなのだ」
 自分は強く在らねばならない。
 「これから、どのような事態になろうとも、お前の傍に在り、お前を守れるように。この感情に飲み込まれて本当の願いを見失わぬように。私は感情に慣れる努力をする。そのためには、この降り積もった記憶に向き合わねばならないようだ…」
 そうやって、必ず過去を克服し彼女を守らねばならない。
 存在するだけで世界の理を乱すものが、この世で最も尊いものの傍に在ろうとする。その我儘で浅ましい望みによって、彼女に悪しき害が及ぶようなことがあってはならない。
 「―――花梨」
 腕を緩めると泣き顔のまま花梨が此方を見上げ、もの言いたげに瞬きをする。つっとその頬を涙がつたい、花梨が唇を噛んだ。言葉にならずただこれ以上泣くまいと、堪えていることが見て取れる。
 「どうか―――」
 泣かないでほしい、と涙の痕にそっと唇を寄せる。驚いて目を瞑った彼女の、その瞼にも柔らかく唇を寄せて、許しを請う。
 「ただお前の傍に、と。そう願うことを許して欲しい」
 自分は、いずれの六道(りくどう)にも属さぬ身。自分の願いを聞き届ける神仏は、この世にはいないのだ。もし、そういうものがいるとすれば、ただ一人―――この龍の斎姫。
 彼女の言葉は、自分にとって唯一の拠所であり、宣託であろう。

◇ ◇

 「………う…の…」
 「?」
 「ちが…う…の」
 「花梨?」
 たどたどしく彼女が口にしたのは。
 「それは、私のお願いなの―――泰継さんに傍に居て欲しいのは、私なの」
 「――――――」
 「だから泰継さんは、もっと別の。もっと違うことを……」
 「違う…こと?」
 「はい」
 花梨が背伸びをして精一杯両腕を伸ばし、泰継の頭を抱え込むように抱きついてきた。
 「すぐに叶ってしまうようなことではなくて―――もっと別のことを」
 「――――――」
 「なかなか叶わなくて、どうしても叶わなくて、心残りで未練たっぷりで―――」
 「花梨………」
 「っ……そう…いうのを……」
 ぐずぐずと涙を滲ませながら、花梨は言う。きっと、彼女の精一杯の力で抱き締めてくれながら。
 「そういう…難しいお願い…じゃないと…わたし、許さないから…」
 「しかし」
 「嫌です。願いが叶うと消えてしまいそうな泰継さんは嫌なんです………だからそのお願いはダメです」
 ダメだと言われてしまったものの、他に何を望めばよいのか泰継は皆目検討がつかない。
 「絶対、泰継さんを連れ出すから。こっちの世界に連れ出したみたいに。泰継さんを閉じ込めている世界から、もっとちゃんと連れ出すから………私が必ず連れ出すから………」
 「――――――」
 「だから居なくなるようなこと、言わないで下さい。一緒に居たいのは私なんです。それで、傍に居るのはもう叶っていることだから………」
 花梨がこうやって切実に願うもの。泣きながら訴えること。自分には見えない、世界のこと。
 ただ傍にと願う先にある、何か。そう願うことしかできない自分を縛る、何か。
 それを理解できないことも、それが見えないことも、酷く歯痒くて胸が痛むことで。
 自分に抱きついてきた花梨が纏うのは、緋色の気。緋は「悲」。自分に向ける愛情を核に緋色を纏い、彼女は言うのだ。
 「今は子供で、いろいろ分からなくて―――でも。それでも、私は必ず泰継さんを連れ出します」

 自分が、彼女の声の届かないところにいるのか。それとも彼女が、自分の手の届かないところにいるのか。
 泰継は、緋色の気を纏う斎姫の願いを、胸に留める。嘗て、師が温かな眼差しをして贈ってくれた言葉を、深く胸に留めたように。
 今は、彼女の願うものが見えず理解できなくとも、長い時を越えて、自分が愛しいという感情を知ったように、いつかそれを知るときがくるかもしれない。ただ、自分に残された時間の中で知るときがくることを、切に願って。

◇ ◇


 「どうか消えたりしないで。私を…置いて………どこにも行かないで下さい…」
 粉雪が見える。
 花梨は、背の高い泰継に抱きついたまま、涙で滲んだ視界の中で降る雪を眺める。
 彼に何を願って欲しいのか。彼にどんな望みを抱いて欲しいのか。ただ、子供みたいに無邪気に彼のことを好きだとそう思っている自分には、分からなくて。
 優しくて不器用な彼が本当に心からの愛情を自分に向けてくれていることを、ちゃんと理解しながら、でも彼が口にした願いでは、切なくて悲しくなるばかりで。
 ささやかな願いしか口にしない彼が、容易く消えてしまいそうで、ただそのことが恐ろしくて悲しい。

 解るのは、彼を縛るものがあるということ。
 彼はまだ、どこかで閉じ込められている。
 何かを望み願うことに不慣れなひとを、その孤独の中から連れ出したい。彼が纏うものが雪の日に似ているのは、きっと、彼を厚く閉じ込めている孤独のせい。雪が融ければ大地が其処にあるように、彼を閉じ込めている孤独を融かして本当の意味で彼を連れ出したい。
 「貴方を連れ出します。必ず、泰継さんを閉じ込めている世界から泰継さんを連れ出します」
 他に言葉が見つからず、彼に上手く伝わっていないことも分かったけれど、その言葉を繰り返さずにはいられなかった。
 この世界に居るのかも分からない神様に。
 遠い世界に居る、白い龍の神様に。
 或いは、彼という存在をつくりだしたという人に。
 挑むように、誓うように、祈るように。

◇ ◇

 それは、龍の斎姫の告白。
 粉雪が降る中、ただ一人のために紡がれた言葉。
 形にできない、言葉に上手くできない、そんな愛情と願いを載せて紡がれた言葉。いつか伝えることができると信じて、それが、彼と彼を閉じ込めている世界とを絶ち、彼と自分とを確かに繋ぐものになるようにと、そう願いながら。
 彼女が望む言葉を彼が見つけるのは近く遠く、粉雪の日の約束はゆっくりと彼に届き、やがて2年後に叶えられる。少し大人になった斎姫と、幸福に自ら手を伸ばしそれを掴もうとする彼との間で、初めて叶えられることとなる。


Fin.


 仲良しで互いのことを深く愛しているのに、なんとなく、かみ合わない二人。解決しがたい泰継さんの「無知」な部分と、彼を幸せにするには子供すぎる立場の花梨との間の齟齬のようなもの。根暗な継さんには、肝心なときにとても男前な花梨だと、いいなぁと思う。
 泰継さんには『夕間暮れ』でもう一段凹んでもらっています。『碧に還る』でやや浮上し『彼岸花』でがっちり落とし前をつけて花梨を貰って頂きます。
 どうしようもないところで終わるのがどうかなぁと、こねこねと悩んだものの、一つの話に収めるには長くなりすぎてしまうことだしと諦めました。
 ネクラ一直線で暗夜行路ですみません。