若 葉 の 頃




 桜花の咲く頃に、召喚された。一人ぼっちではなかったけれど、やっぱり夜になれば心細くて、寂しくて、悲しくて。時折涙が止まらない夜があった。
 そんな頃、桜花が散る中で、男の人がぽろぽろと涙を流すのを初めて見た。自分よりも年上で、大人で、落ち着いていて、ほとんど喋らない。冷たい感じさえする綺麗な顔立ちの人。その人が、ただ立ち竦んで零れる涙を拭うこともせずに―――月明かりの下で泣いていた。
 否。
 泣かせてしまった、というのが、本当のところかもしれない。その人曰く―――神子の涙は此方に移る、だそうで、つまりは、私が泣いたから泰明さんも泣いてしまった、ということ。いったいどういう理屈を捏ねているんだこいつは、と思いつつも、釘付けになった。
 綺麗だった。
 はらはらと落ちる涙は月光を受けて、きらきら光り。どうしてよいのか分からずに戸惑う彼の目元では、伏せられた睫毛が長い影をつくり。兎に角、私はその綺麗さに眼を奪われ、自分の涙に狼狽えるその様に唖然とし、慌てて近寄って袖で涙を拭いてあげた。
 「泰明さん………あの。ごめんなさい。私が、泣いたりしたから」
 「―――」
 泣きながらも、酷く驚いた様子の彼の瞳にぶつかる。
 「…神子は、何故厭わぬ」
 「はい?」
 涙を拭う私の腕を払いのけようとする。
 「…私に触れるのを、何故、厭わぬ。兄弟子達は………私を、気味が悪いといって避ける。まして触れるなど以ての外」
 「??? えーと。私、は。厭じゃないですよ。私のために泣いてくれた人を嫌がるなんて。それに、私のせいなんでしょう? 泰明さんの涙には―――私に責任がありますし」
 「………」
 払いのけようと挙げていた腕がそっとおろされる。日頃表情の乏しい泰明さんが目を見張っていて、その事にまた驚かされる。
 「悲しみは世界の共通語なんですって」
 「………?」
 「だから、まだ会って間もない人にも悲しいのが伝染しちゃったのね。ごめんなさい、悲しい思いをさせて」
 「世界、とは………仏法における三千世界か。六道に分かたれた世界全てにおいてのことか。その全てにおいて悲しいという感情は、正しく其れと理解されるということか」
 「…難しいことは分からないけど。誰にでも分かっちゃうってことです、きっと」
 「………」
 ぱしぱしと、泰明さんは瞬きをした。涙は止まり、濡れた睫毛が月光に光った。
 「神子は、悲しいのか?」
 「え? あぁ…恥ずかしいけど悲しいんです。悲しくて泣いていました」
 「何故、だ?」
 「家族に会いたいな、というのが一番です。何時になったら帰れるのか分からなくて、寂しくて心細くて」
 「………そういうものか」
 「そうなんです」
 なんだか可笑しくなった。この人が、幼く思えて。私の一言一言に驚き、疑問を持ち、それを素直に訊ねてくる。
 「泰明さんは、優しいですね」
 「???」
 「そ、そんな、そこまで吃驚しなくても………」
 「驚いたのではない。神子の言が理解できぬ故、当惑……したのだろう」
 まるで他人事のように、この綺麗な人は自分の気持ちを説明する。珍しく語尾は断言できずに、自信がなさそうな口ぶりで。
 「だって、私が悲しいのが伝染して、涙が移ったんでしょう?」
 「そのようだ」
 「物凄く―――優しいって言うんですよ、そういう人のこと。知らなかったの?」
 「………………」
 黙り込んだ彼を見上げて、つい、笑ってしまった。形のよい眉を寄せて、やはり当惑する様が可愛いと思った。
 「よく……わからぬ」
 ふいっと眼を逸らされる。その目線のまま、手をそっと胸に当てて
 「神子の涙を目にしたら、ここが苦しくなった。訳もなく涙が出て………それだけだ。優しい云々は神子の思い過ごしであろう」
 意外にこの人は強情だ。他人の悲しみに触れて、ぽろぽろと涙を零していたくせに。 まったく。優しいって認めればいいのに。
 「―――!! みこ?」
 な、なにをする、と珍しく彼が吃る。両手で彼の頬を挟むようにして、此方に向けさせたから。
 「ありがとう」
 「何故?」
 戸惑う双色の瞳をしっかり見上げて、もう一度言う。思いのほか幼く素直で強情な彼に言い聞かせるように。
 「ありがとう、泰明さん。私の代わりに泣いてくれて」
 私が流す分の涙を、この人が引き受けてくれたのだ。自覚せぬままに優しいこの人が、この上もなく美しい涙に私の悲しみを載せて。
 「………神子の役に立てたのなら、それでよい」
 戸惑いがちにそう呟いてから、その綺麗な手を私の両手に重ねてくれた。

◇ ◇

 「―――あかね?」
 「………ん…」
 「あかね、起きろ、あかね」
 「あ………やす…あ…きさん?」
 視界いっぱいに広がるのは、若葉の色。寝ぼけたままのこの目には、痛いほど鮮やかな―――生命の色。
 「あぁ、ごめんなさい」
 そっか、わたし………。
 公園だ。木の葉だ。
 「………あかねは、よく眠る」
 「ふふふ。きっと、背が伸びるんだわ。泰明さんより背高くなっちゃったりして」
 「あり得ぬ」
 ピシャリと言われてしまった。
 「そんなことより―――具合は、どうだ?」
 「………なんとも。眠くなっちゃっただけ」
 公園のベンチで私は居眠りをして、隣で泰明さんは本を読んでいた。

 ―――具合は、どうだ?
 その台詞を言うとき、泰明さんは辛そうな顔をする。体力がないのは私の生まれつきで泰明さんのせいじゃないのに。私が龍神様を呼んだことが、この人の十字架になってしまった。
 あの時、皆を、この人を助けたくて、私は神様の手を借りた。神をその身に降ろすということは、気力も体力も酷く消耗するものらしい。元々体力のない私は瀕死の状態で泰明さんの腕に戻された。
 ぼんやりした意識の中で見たのは、ボロボロ涙を流す泰明さんと、抜けるような青空。ただいま、と呟いて、それっきり私は意識を失ったのだそうだ。
 あれから4年近くになる。
 未だに身体は完全に回復していなくて、大学生にもなって小さな子供のようにしょっちゅう熱を出して寝込んでしまう。体力温存のための本能なのか、座っていれば本当によく眠りに落ちて、電車を乗り過ごして泰明さんに迎えにきてもらうこともしばしば。今日みたいにお天気のいい日は尚更眠気を誘うから、散歩が目的だったのに、やっぱり眠ってしまった。
 「―――そろそろ帰ったほうがよいのではないのか?」
 「うん―――でも、もうちょっと」
 そうか、と言って、彼は再び文庫本に目を落とす。それでも、しっかり彼の腕は私の肩に回っていて、眠っている間もちゃんと守っていてくれたんだ、と嬉しくなった。
 「泰明さん、その本好き?」
 「――――――ああ」
 ちょっと面倒臭そうに、気のない返事が返ってきた。
 「もう。ちゃんと真面目に応えてよ。じゃぁね、今週好きになったものを5つ挙げてください」
 「――――――――」
 またそれか。と、嫌な顔をされた。
 「あのねぇ。好きなものはたくさんあったほうが、人生楽しいの。一つでいいなんて、そんなこと思わないでね」
 「………だからと言って、早々に5つも増えるものでもない。」
 「だって。こっちに来てから泰明さんが気に入ったものって…プリンでしょう、泰継さんでしょう、あと花梨ちゃん…」
 「泰継も花梨もものではない」
 「じゃぁ、プリンだけじゃない」
 あの『平安時代のヤンゴトナキお子様』のように彼はプリンを愛している。油断していると冷蔵庫がプリンでいっぱいになっていたりするくらいに。
 「そんなことはない」
 「じゃぁ、ちゃんと言ってください。今まで好きになったものでいいから、5個」
 「――――――」
 「言わないなら、また居眠りして泰明さんの服にヨダレ垂らすからね!」
 「――――――――――あかねあかねあかねあかねあかね」
 きっちり5回、文庫本に目を落としままで、彼は私の名前を唱えた。
 「ちょっとそれ、ぜんっぜん嬉しくないっ!」
 ―――まったく。いつのまに、こんなに生意気に育ったのかしら。桜の下で泣いていた素直な泰明さんにもう一度会いたい! さっき夢に見ちゃったほど会いたいと思っているんだわ、私。
 「あかね」
 「な、なによ」
 「何故、こうも頻繁に好きなものを尋ねる」
 「だって」
 出会ったとき、彼は涙を知らなかった。自分が優しいということも知らなかった。それどころか自分にココロがあることを考慮外にしていた、お馬鹿さんでうっかりさんなのだ。
 賢くて冷静なのに、誰かとコミュニケーションをとるための言葉は酷く不自由で、お化け退治のための呪文だけは正確にスラスラ出てくる人で―――だから今でも『好き』は一つしか知らないんじゃないかと思う。色々な好きがあることを、彼は、本当に理解しているんだろうか?
 4年近くも一緒に居ながら、そこのところだけは一向に分からない。
 「だって………フェアじゃないし。教育の一環です」
 そう。何にも知らない彼を閉じ込めておくのは、フェアじゃない。錯覚のまま共に居ても時が経てば、そんな関係は砂のようにあっけなく崩れてしまうだろう。本当に欲しいものを手に入れるためには、きっちり、それなりのリスクを負うべきだ。彼には好きなものを増やしてもらわなければ。
 だから、私は好きになったものを彼に尋ねる。
 そうやって増えていった好きなものの中で尚、特別でありたいと願う、この複雑なココロが解りますか? 
 うっかりさんの貴方に。
 「教育の一環? 言っている意味がよく分からん」
 「わかんなくたっていいもん」
 はぁっっと大き目の溜息を吐いてから、ぷにっと頬っぺたを抓られた。
 「〜〜〜〜〜〜???」
 「あかねは嘘を吐くのが下手だからな」
 「やひゅあひぃひゃん?」
 「悪態を吐くときは、往々にして、逆のことを考えているはずだ」
 顔を見上げると、器用にかたっぽだけ眉毛が上がっている。流石―――人間離れしている平安アンドロイド。
 「解って欲しいのならば、解るように言え」
 「〜〜〜〜〜〜〜〜」
 みーーーっと頬っぺたを抓られたまま、わたしは、心の中で叫ぶ。

 今日のご飯に嫌いなもの全部組み込んでやるから覚えてなさいよ、 ピーマン、セロリ、春菊、茗荷、ピクルスなんだからねっ!

◇ ◇

 「全く、話にならん」
 「なにそれ。頬っぺた抓ってまで訊きだしておいて」
 「抓られるまで口を割らずにおくようなことか!?」
 お門違いだ、と思った。
 一言、わかんなくっていいと、そう言った途端抓ってきたくせして。抓られる『まで』のところに、全然プロセスがなかった。今も昔もこの人は短気だ。
 「何故、解らない――――――とっくに、お前は私の特別だ」
 「――――――?」
 「京の戦いで、私はかけがえのない友を得た。こちらに来て、気がかりだった対の存在―――泰継にも会えた。継を幸せにする存在である花梨にも。もちろん、我が師を父と慕う気持ちも変わらない」
 けれど、と言いながら再び不機嫌印で眉毛が片方だけ攣りあがった。
 「一瞬たりとも目が離せぬほど気がかりなのは、あかね―――お前だけだ」
 「――――――」
 「あかねのように、好きなものも綺麗だと思うものも少ないかもしれないが、私にとって大切だと思える人々の中で―――お前は確かに特別だ」
 木漏れ日の中。
 照れているときの癖で、泰明さんはそっぽを向いてしまった。
 それなのに、肩に回った腕にぎゅっと抱き寄せられる。伝わる彼の鼓動は、少し早くて―――なんだか嬉しくなった。
 「ありがとう―――私を泰明さんの特別にしてくれて」
 願うのは、彼の特別と私の特別が同じ色であること。ちょっとは、期待していてもいいのだろうか?

 (―――ねぇ、八百万の神様。どうかお願い)

 私、この人ともっと一緒に居たいよ。長生きしてお婆ちゃんになって、この人の隣で今日みたいに日向ぼっこをしていたい。そんなふうに、彼の『特別』としてずっと傍に居られますように!

 「―――どうした?」
 「ううん。なんでもない」
 「まだ、寝ぼけているのか?」
 「違うって。もう――――――ねぇ泰明さん」
 「?」
 「好きなもの、いっぱいいっぱい増やさなきゃ、駄目だからね。今よりも、もっと増えてからじゃないと、さっき言ってくれた『特別』は有効とは認めません」
 「なんだ、それは」
 ふふふ。これからも増えるであろう『好きなもの』に対して、宣戦布告しているだけですよ。まぁ、うっかりさんで10歳にも満たない貴方には分からないことでしょうけど。
 「そのようにニヤついて………陽気のせいで脳に虫でも湧いたか?」
 「―――――――」
 「なんだ」
 「―――――泰明さん。口は災いの元っていう諺、教えてあげるからね」
 「?」
 「覚悟しなさいよ」

 ますます口の悪い彼のお夕飯が、この瞬間、決定した。
 『ピーマン、セロリ、春菊、茗荷、ピクルスの、丼』

 「お残し厳禁、おかわり歓迎、泣いたって知らないからね!」



Fin.



 あかねちゃんが、こんな衝撃ハニーだっていいじゃないか(叫)!
 発展途上陰陽師に愛と刺激に溢れた毎日を(笑)!