碧 ( あ お ) に 還 る (4)




 貴方に還る場所をあげる。
 「理」にはない場所を、貴方の還る場所にして貴方を連れ出すの。
 巡る季節を幾度も生きて。
 いくつもの軌跡を、生きて。
 生きて。
 生きて。
 ずっと遠くまで貴方を連れて行ってあげる。
 その閉ざされた世界から、貴方を連れ出してどこまでも連れて行ってあげる。

 いつでも身を引けるような場所から貴方はわたしを愛してくれて、閉じ込められている貴方にとっては、それが精一杯の愛情なのだと知っています。
 だけど、もっともっと望んでください。寂しそうな表情(かお)などせずに、鮮やかに奪ってくれてかまわないから。息を潜めて別れの時を待つような、そんな愛し方をしないで。躊躇わずに手を伸ばし、手加減せずに愛してください。

 どんなに深く愛しても。
 どんなに深く愛されても。
 そして、互いを失うときがきても。

 「貴方が還ると約束してくれれば、その一事のためにわたしは生きていけるの」

 ―――その約束が「真実(ほんとう)」でなかったとしても、わたしは、大丈夫。

◇ ◇

 「ずっと考えていました」
 貴方の傍に居る意味を。
 貴方の傍に居るために必要な覚悟を。
 「こちらに来て間もない頃に、泰継さんが―――どんな結果になろうとも傍に居たいと―――そう言ってくれたことを、わたし、ずっと考えてきました」
 粉雪の中で、貴方は少し笑ったのだと思います。「傍に居たいと願ってもいいか」と、切ないことを言いながら。
 緋色の花弁の中でも、貴方は何かを諦めました。黙って、けれど、酷く寂しそうな横顔を見せて。
 違う時間軸の中で生きているのかもしれないから? 
 それとも、何か重い罪業を抱えているから?
 崩れぬ過去が貴方を苦しめるのか、不確かな未来が貴方を苛むのか、現在(いま)を生きる貴方はいつも孤独な表情(かお)をして、遠くを見詰めています。
 「いくら考えても…たどり着く答は同じで」
 何度考えても、泣きたくなるのは変わらなくて。
 いくら泣いてみても、きっと現実を変えることはできなくて。
 不確かな未来を、確かなものに決めつける事も出来なくて。
 それでも一つ言えるのは
 「…貴方の傍にいて負う痛みならば…わたしはちゃんと自分で受け止められます。わたしの分の痛みまで泰継さんが負う必要はありません。自分の分は自分で……大丈夫です」
 だから、躊躇い無く奪い去ってください。
 迷うことなく、全てを望んでください。
 手加減なんてせずに―――愛してください。
 「貴方に置いていかれるのも、貴方を置いていくのも―――死にそうな痛みだろうけれど」

 いつか失う貴方だとしても、私は貴方を愛しています。

 「わたしは大丈夫です。泰継さんが思っているよりも、ずっと、わたしは頑丈にできています」

 嘗て、葬送の白い花の女(ひと)がくれた言葉で涙が乾いたように、確かに愛された記憶と縋る言葉があれば、わたしは生きていけるくらい頑丈だから。
 そう言って笑えば、貴方は安心してくれるでしょうか? 
 傍に居て寄り添う現在(いま)を、安心して受け入れることができるでしょうか?

 「貴方を愛するって、そういうことでしょう?」

 今。
 貴方の目の前に居るわたしは………巧く笑えていますか?

◇ ◇

 肉体が時を刻み始めたことは真偽定かならぬこと。
 もし真なればと考え、滑稽なほどに「終焉」を怖れ、或いはまた、偽なればと考え、置き去りにされる時の永さを怖れる。怖れるのは―――この仮初めの生命が、彼女の未来までをも欲しているから。
 抱き締めるこの温もりも、この身に降り積もる彼女の温かな神気も、その眼差しも、それら全てが刹那のもの。永劫巡るものにとっては、これは一瞬の邂逅でしかないのだと、そう弁えようとしても、それが永劫のものとなることを欲し、己が浅ましさゆえに幾度となく大切な人を失う過去に囚われる。

 「―――私は、仮初めの生命を与えられたものだ」
 「はい」
 「共に過ごせる時間は―――少ないのかもしれない」
 「はい」
 「時の進みが違って…花梨だけが、前へ進むことになるのやもしれぬ」
 「はい」
 「…それでも?」
 「はい。それでも泰継さんの傍にいたい――――だって、貴方を愛するってそういうことだもの。ちゃんと、覚悟…しました」
 「――――………」
 「もっと早く泰継さんに言ってあげられればよかったね」
 そう言って笑おうとするのだけど、今にも泣き出しそうな顔で
 「なかなか、泣かずに言えるように…ならなくて」
 「………花梨」
 「だって覚悟しましたって泣きながら言われても…泰継さんは安心しないだろうし―――」
 「―――……」

 理から外れた存在にはその魂の還る場所はなく、たとえその場所を見つけることが出来る力をつけたとしても、嘗て師が言葉をかけてくれた時分からすれば多くの業によって手を汚している。時を刻むことができる身体になっても、自らの罪業によって還る場所を失っている。
 矢張りこの仮初めの生命は、今生(こんじょう)が全てであり、未来永劫巡ることは叶わない。魂魄の寄る辺たる場所など何処にもない。
 「今生共に歩める時は僅かであり、それが潰えれば、私は二度とお前に会うことはないだろう」
 それでも、お前の―――遠い未来まで欲しているのだと、それを認めずに居られれば、少しは楽であったのかもしれない。願いを言の葉に載せれば自由であるべきお前の魂を縛り、触れてはならぬ理に関与し、いつかお前を傷つけることになる。
 「覚悟、したけど………二度と会えないのは、嫌です」
 「―――」
 「……だから約束を下さい―――神様が決めた場所になんて還る必要はないんです。泰継さんの還る場所を、わたしにして…ください」
 「!」
 遠い未来までもを欲するこの仮初めの生命に還る場所を与えようとして叶えられるかどうか分からない約束を、それでも彼女は欲しいのだと言う。
 「わたしは、泰継さんだけの還る場所になって、ずっとずっと一緒に居ます。それでは駄目ですか?」
 「――――――」
 「辛い過去にも、不確かな未来にも囚われたりしないで。きっと、寄り添う現在(いま)は、幸福な時間は、すぐに過ぎ去ってしまうものだから」
 知っている。
 幸福はすぐにこの手をすり抜けていってしまうものだと、よく知っている。
 「だからこそ、息を潜めて別れの時を待つような、そんな愛し方をしないで。失うことを怖れずに、貴方自身の現在(いま)を受け入れてください……わたしは…いつか失う貴方だとしても、心から……貴方を」
 此方を見上げる彼女の眼差しに、もう許されないのだと悟る。
 己が望みに背を向ける事は、もう許されない。
 生きるもの全てに等しく訪れる朝のように、それをいざなう圧倒的な光のように、彼女の眼差しは強く、その前でもう嘘はつけなくなる。

 (―――苦しい)

 すべてを望むことは、斯様に苦しい。
 唯一守るべきものに斯様な決意を強いるほどに、私が全てを望むことは苦しい。最早隠し立てできぬその望みを、本当はとうに知っていた。 理に則ったことであると諦めて、やがて離れてゆく彼女をただ見送ることなど、本当は出来るわけがない。遠く別の軌跡を生きる彼女に「覚えていてほしい」と、そう願うだけでは足りない。彼女の幸いのためにと言い訳をし、いつでも身を引ける場所から彼女を愛するのでは足りない。
 奥底では、理を曲げても、理を犯しても―――手に入れたいと、自分は欲しているのだから。

 「――――約束する。必ず、還る」
 此方を見上げて泣くまいとする彼女を見詰め、そう誓ってやることしか術を知らない。
 いとおしいその色に。
 何を措いても掴みたい、その色に。
 彼女の瞳の色は深い森の色、そして、深遠なる海の色。
 生命を慈しみ育むそれらと同じ―――全てが始まる深い碧(あお)。
 それが、彼女がくれた還る場所。
 何を措いても―――手に入れたい還る場所。
「何度でもお前を見つけて―――必ず還る」
 その碧に、いとおしい碧に。
 「だから――」

 与えられたこの力で、理を犯しても望むことを。
 ずっと未来(さき)まで、お前を縛ることを。
 その願いを言の葉に載せて、理を乱すことを。

 「どうか共に」

 永劫巡るお前の生命の軌跡、そのすべてを奪うほどに強く望ませて―――この言の葉に載せて。

 「花梨、ずっと未来(さき)まで共に―――生きてくれ」

◇ ◇

 ゆったりとした光。
 静から動へ切り替わるあの力強く鋭い光ではなく、いまこの部屋を満たしているのは穏やかな光。すっかりこの世界を支配した朝が、そっと背を押してくれるような暖かさでわたしたちを包んでくれる。
 ずっと未来まで共に生きてくれと、そう言ってわたしを抱きすくめた彼も、彼に抱きすくめられながら、はい、と返事をしたわたしも、多分、二人とも判然っていたこと。「必ず還る」という約束が、叶えられるかどうかも分らない、不確かなものであると。叶えられるかどうかが重要なのではなくて、二人には約束という形で縋る言葉が必要だったのだと。
 わたしには、彼と生きていく覚悟のために。
 彼には、わたしを手加減せずに愛する覚悟のために。

 ずっと言えなかった言葉を彼に。
 きっと嘘と知りながら「必ず還る」という約束をくれたひとに。
 そして、共に生きていくことを、はっきりと望んでくれたから。

 昨晩とは何処か違うそのひとの重みを身体に受けながら―――愛しています、と小さく告げると、彼は一瞬動きを止め掌を合わせ指を絡めて
 「―――この身に過ぎた幸福だ」
と、すべてを望むには優しすぎる眼差しでそう囁いてくれて。
 沈み込んでくる彼の身体に溺れながら、はしたない声を上げそうになるわたしを、強く抱き、
 「花梨の傍でしか私の幸福はありえない」
と…確かに愛されているのだという記憶を、今までよりも一層鮮やかに刻み込んで。

 わたしの全てを、彼は、いとも簡単に奪い去ってくれた。



Fin.


 自分のために祈ることを知らないひとだから。こうやって連れ出すしかないんだと、、、思う。自己暗示のように自分を抑えて自分を縛るひとだから、誰かがそれを壊してあげないと。
 泰継さんって、そういう手のかかる人だと思う〜。