―――泰継さんも何か願い事があったんでしょ? いつか……わたしにも教えて下さいね。 あのとき緋色の花弁が真っ先に天へ届けたのは、花梨のそのささやかな祈りであったのかもしれない。 課されていたもの。 囚われていたもの。 長い時間に染み付いてしまった業。 それらをゆっくりと融かしっていったのは、花梨が与えてくれる穏やかで優しい時の流れ。それは、きっと再生の時間。巡り真新しく繰り返す森羅万象と共に再生し、この世界に馴染んでゆく。まるで、この世界の一部になってしまえたように。そんなふうに思う自分にふと気づいたとき、花梨のことを本当の意味で抱き締めてやれたのだと思う。 気負うでもなく、彼女に縋るのでもなく、壊してしまわないかとそれを恐れるのでもなく―――ごく当たり前に傍らに在ることを許された者として。 緋色の花に祈った二度目の秋が過ぎ、やがて冬。 身を切るような冷たい風。 落ち葉の匂い。 澄んで遠くなった青空。 山の向こうから運ばれてきた風花。 雪が降った朝、真新しい雪を踏みしめて喜ぶ花梨と耕太郎の後姿。 点々と続いていく花梨の足跡と、それと交差したり並走したりしながら点けられていく小さな犬の足跡。 白い息を弾ませて振り返った彼女の、キラキラした瞳。 耕太郎のキリリとした巻き尾。 花梨の笑い声。 冬が終わり、また巡ってきた春。 淡い薄紅色の桜。 春めいて浮き立つ町並み、人の流れ。 目に鮮やかな蒲公英の黄。 溢れる陽の光。若葉の頃。 淡い新緑を揺らして吹きぬける、風。 手を繋いで歩いた桜若葉の並木道。 青葉と日の光の匂い。 小ぬか雨の季節が過ぎれば、夏の照り付ける太陽。 暗緑(あんりょく)の影。 突然降りだした大粒の雨。 低く響くようにあたりに轟いた遠雷。 すっかり怯えて足元にすり寄ってきた耕太郎。 少し怖かったのか、繋いだ手を強く握ってきた花梨。 夕暮れどき、繰り返し流れてきた祭囃子。 花梨の足元で鳴る漆塗りの下駄の音。 おろしたての浴衣。 夏の陽を見送るように辺りを満たした蜩の声。 二人で過ごした、たくさんの夜。二人で迎えた、たくさんの朝。 穏やかに流れてゆく、かけがえのない時間。 けれど、幸福すぎてどこかで惧れと後ろめたさを抱く日々。 愛おしさと共に、強くなってゆく惧れ。 鮮明になってくる“失くした”ものたちとの二度と返らぬ時間。 そして……また、華やかに木の葉の色づく季節。 彼岸花の咲く季節。 初めてこの地に降り立ったのと、同じ―――3度目の秋。 目覚める瞬間を恐れ、花梨を強く抱き寄せた朝。 圧倒的な朝の光、目が眩むほどの金色の光。 その中で告げられた、彼女の強い言霊。 この手にしっかりと掴んだもの。 最後の枷を外してくれた彼女と交わした約定は、初めて自分のために紡いだ呪。 与えられた力の全てで言の葉に載せ織り込んだ、たった一つの祈り。 彼女の未来すべてを縛る、強い強い…禁忌の祈り。 共に生きていくことをはっきりと望み、彼女もまたそれに応えてくれたあの朝。 それから少し秋が深まった頃、花梨の家の庭の一隅に天上の花が植えられていたことを知る。いつもの縁台に座って庭を眺めていて、泰継は初めてその緋色に気が付いた。 「花梨…」 「はーい?」 部屋を振り返って呼ぶと、麻の暖簾を少し持ち上げて花梨が顔を見せた。 「花梨、なぜこれを?」 「これって?」 きょとんと首を傾げながら縁台に近寄ってきた花梨はそこで、ああ、と小さく呟く。 「この花はお前の近くに在っては、あまり…よくない」 そう告げると、彼女もまた庭の緋色を目に留めて 「でも…そんなに怖い花じゃないと思うんです。わたしは、悲しいことに絶対負けたりしないから大丈夫。それに…去年この花を降らせて願掛けをしたでしょう? 悲しいのを吸い取って人の願いを神様に伝えてくれる花なんだから、そう考えたら、ここにも少し欲しいなって思って…。あのあと春を待って願掛けに植えたんです」 「お前の……願いとは何だ?」 「内緒です」 「!?―――…まだ叶っていないのか?」 「分かりません。きっと一生分からないかもしれない」 「それでは願掛けの意味がなかろう」 「そんなことないです」 花梨は、鮮やかな緋色を見ながら柔らかく微笑んだ。 悲しみの色をした花弁が天から降るときは吉兆の使者になる。 それは矛盾でもなんでもなくて、きっと当たり前のこと。願いや祈りは、悲しみから生まれるものだから。そして…願いや祈りの先にあるのは、愛おしさ。 ひとつの華が持つ二つの意味。 物事には、いつも表裏一体の相反する意味がくっついている。 悲しみだけを抱えた人なんて居ない。 希望だけを抱えた人なんて居ない。 人は、いつもその両方を抱えて生きている。 だから人は、悲しいことを恐れずにそこから希望を掬いとることができる。悲しみは恐れるものではなくて、誰もが少しずつ抱えて心に住まわせ馴らし、ともに生きていくもの。そうやって…昇華されてゆくもの。 「あの華は怖くないですよ、ちっとも…」 緋色の華を前にそっと溜め息を吐いたひとに、花梨は柔らかく笑ってみせる。 この花に願ったのは、唯一人…想うひとの幸せ。 複雑な事情から彼がふつうより多く背負わされてしまった分の悲しみは緋色の華に寄せて、そんな巡りあわせをつくった天の神様にノシをつけてしっかり送り返し。それでも尚想うひとが抱え込んでしまった悲しみや疵は、自分が共に在ることで癒し昇華する手助けになりたい。 たくさん笑って、ときどき喧嘩して、悲しいときは一緒に泣いて―――長い孤独の中に居たひとの幸せが、そやって、長く続いて欲しい。 緋色の華は、天からの祝福の花。 この花に願ったのは、唯一人…想うひとの幸せ。 「叶ったかどうかなんて、きっと一生分からないかもしれない。でも…それでも願掛けするんです」 その願いが叶ったかどうかなんてその想人(おもいびと)でなければ分からないこと。ただ、隣にいるそのひとの柔らかな表情や控え目な笑顔を目にしたときに、願いが叶っているようにそう感じるだけ。 「そういうのも…ちょっと幸せなんですよ」 「……わからん」 「いいんです。わからなくっても」 この願掛けは、好きなひとを想うこと。その時間を、幸せと呼ばなくてなんと言うのだろう。 隣にいるその“好きなひと”が、形のよい眉を寄せて困惑した表情を見せた。花梨は笑いながら、そっと彼の指に自分のそれを絡ませる。 「泰継さん」 「?」 彼の綺麗な双色の瞳を覗き込んで 「あのね…」 本当に小さく、愛しています、と告げると 「…………………」 やがて。 口ごもりながら、何を今更…と呟いた彼の耳元がほんのりと朱く染まり、花梨は、また少し自分の願いが叶っているように思った。その浮き立つ心のまま、不意打ちのように彼のその耳元に唇を寄せてぱっと身を離す。それから庭先に立ち、秋の陽光に両の手を翳して―――天を仰いだ。 「―――龍神様…?」 秋晴れの空。 雨を司る龍の神様が宿る雲など一片もなかったけれど、どこかでこの声を聞いていてくれるように思えたから。 「次の春、学校を卒業したら、私、泰継さんのお嫁さんになるんだよ! さっきお祖母ちゃんがいいよ、って言ってくれたの。私を泰継さんに会わせてくれて、ありがとう。すっごく幸せだよ…!」 天に翳した花梨の左手。 その薬指で小さく光ったのは、昨日彼から贈られた指輪。 これを選ぶために、数日の間…先代の神子様たちに彼が引っ張り まわされていたのを知ってる。 継は、どうやら花梨を驚かせて喜ばせたいらしい…なんて。当の花梨にうっかり教えてしまうくらい、彼のお兄さんが浮き足立って喜んでくれたことも知ってる。 異界の地で一人ぼっちだった彼はもう一人ではなくて、温かくてやさしい…家族みたいな人たちが居る。彼は、確かに今、いろんな愛情に包まれて暮らしている。 緋色の華は―――天からの祝福。 その華を植えるという行為は、天へ祈ることと似ている。 すべての祝福を、愛する貴方へ。 貴方が幸せでありますように。 そして、その幸せが長く続きますように…。 秋色の陽光と、彼岸花。 鮮やかに貴方を彩る―――緋色の祝福。 2年前のこの季節に、神様がくれた御伽噺のような奇跡の出会い。 「龍神様…? 私、もっともっと幸せになるよ」 彼の長い孤独も、彼が負ったたくさんの傷も。 彼のためにたくさん泣いたことも。 こうして、笑顔で過ごす現在も。 手に入れた未来、共に在ることで背負う苦しみ、そして―――やがて互いを失う痛みでさえ、全部を幸福だったと思えるような、そんな結末にしたい。 一年前、路傍の馬頭観音に祈ったように、ずっと離れなければ、迷子にならなければいいと思う。彼が、その魂の還るべき場所を持たないと言うならば、自分を還る場所にしてくれれば。 「泰継さん、、、一緒に幸せになろうね…!」 それが願い、それが希望。 そして多分、二人の身の丈にあった言葉。 寡黙な彼はやはり無言のまま、陽光の中で笑う花梨を、まぶしそうに見つめ返す。それから、仄かに口元を綻ばせて笑顔になり、 「―――無論」 と。いつものように言葉少なに。けれど、確かにそう約束してくれた。 Fin. お、おわったー! 『碧に還る』とも『麦藁帽子』ともちゃんとリンクさせられました(ほっ)。色々張った伏線をちゃんと拾えてよかったっ…!! 予定よりも、随分長いお話になってしまったけれど、ここまでお付き合いくださってありがとうございました…! * 蛇足で(笑) 【彼岸花】の花言葉は、「悲しい思い出」/「思うはあなた一人」/「また会う日を」 そんなテーマで書きました。 |