その日も、朝から寒かった。 時折、北西の風が駆け抜けて空が遠い日。やはりマフラーに顔を埋めて、花梨は此処に来た。結婚の約束をした泰継と一緒に。 「お父さん、お母さん、私、お嫁さんになるんだよ」 墓前に花と線香を手向けながらそう話し、泰継が提げてきた手桶の水を柄杓で掬って墓石にかける。 「安倍泰継さんっていうの―――お祖母ちゃんには内緒だけど、神様が会わせてくれた人なんだよ。私、誘拐してきたの。こっちの世界に」 冗談めかしてそう言い、花梨はくすくすと、笑う。 「はい、泰継さんもご挨拶してください!」 「―――」 墓前に押しやられて、泰継は、困ったような顔を見せた。 「―――どう、すればよい?」 「………」 改めて問われれば、正しい墓参りの仕方など花梨が知るはずもない。しばし、考え込んでから、只、自己紹介と決意表明をお願いします、と言うと、一層彼を困惑させてしまった。 「―――――」 「もう。泰継さんってば」 「ああ………」 少し考えてから急に花梨を抱き寄せて、腕に閉じ込める。 「え?―――泰継さん?」 「仮初めの生命を与えられた私が、花梨の傍にあり、花梨を守ることをお許し願いたい」 線香の煙がくゆる中、人気のない墓地に彼の声が静かに響いた。 「全力で花梨を幸せにする。この身が現世(うつしよ)にある限りこの唯一の愛しいものを守ると誓う」 「お父さん、お母さん、私、泰継さんと幸せになるよ。今よりもっともっと。お嫁さんになることを許してね」 息が白い。 頬に冷たいものがかすめ、彼の腕の中から見上げると、晴れた空に風花が舞った。 「寒いね。泰継さん」 「ああ。風花ならば―――あの山の向こうは雪が積もっているかもしれないな」 平野を縁取る紫の山の稜線。 背の高い泰継は、遠くを見ながらそう呟いた。 「――――――!!」 『寒いね』 『今頃、あの麦藁帽子に―――雪が積もっているかもしれないね』 「――――――あ」 『でも、誰かのお家になってるから。きっと麦藁帽子の下は暖かくて。沢山の虫さんが、そこに住んでいるかも。だから、麦藁帽子は寒くないし寂しくないわ』 『―――優しいね。花梨は』 『え?』 『優しい花梨、どうか幸せにおなり。わたしたちは、いつもお前の幸いを願っているよ』 あの人は…。 「お父さんだ―――!」 風花の冷たさと、花梨を抱き締める泰継の温かさが、夢で見た光景を鮮明にした。 「お父さんが―――来てくれたんだ」 「花梨?」 数日前に見たのは、まるで遺言のような父との思い出。 亡くなる一年前の冬―――庭先で風花を見上げて、麦藁帽子のことを話した。父は、小さな花梨を背から包むように抱き締めて、言ったのだ。『今頃、あの麦藁帽子に―――雪が積もっているかもしれないね』と。 「夢で見たの。お父さんのことを」 「―――そうか」 「幸せにおなりって。そう言って抱きしめてくれたの。今の泰継さんみたいに―――思い出した。急に」 「………」 「私、小さい頃、夏に谷底に麦藁帽子を落としてしまって…」 遠ざかる麦藁帽子に手を伸ばしたのは、自分だけではなかった。ずっと大きな手も、一緒に、空を掴んだのだ。父も―――あの麦藁帽子には届かなかった。 「その年の冬、今日みたいにお天気の日に、風花がきて、それを眺めながら―――」 麦藁帽子の話をした。 雪が積もった麦藁帽子の下は、ふかふかの枯れ草と暖かい土で、きっとそこにたくさんの虫が住み着いているだろうと。 だから、麦藁帽子は一人ぼっちではなくて、寂しくないし、きっと寒くもないのだろうと。 「そう言ったら、お父さん、花梨は優しいねって笑ってくれて。それで―――」 『優しい花梨、どうか幸せにおなり。わたしたちは、いつもお前の幸いを願っているよ』 舞う風花と。 抜けるような青い空と。 父の大きな手と。 優しい声。 小さな花梨の目線で見えたものばかり思い出す。 ―――でも、父の笑顔はやはり曖昧で、すぐに遠くへ行ってしまう。 「――――――お父さんに会いたい。お母さんに会いたい………よ…」 面影に追いすがるように、ボロボロと涙が零れた。 「―――行っちゃやだよ………忘れたくないよ」 写真とは違う。この目で見てこの手で触れた、彼らの纏う空気と想い。その全てを、覚えておきたいというのに、いくら涙を流しても遠ざかる速さには追いつけない。 ―――忘却というのは、やはり、切ない。 風花が舞う。 枯れ枝を揺らして、北西の風が何度も通り過ぎていった。 泰継は、ただ花梨を抱き締める。忘却の痛みに耐える愛しい魂を―――小さな子供のように泣きじゃくる、優しくて清らかな魂を。 出会った頃、花梨はまだたった16歳だった。けれど、優しくて強くて、その笑顔は、まるで陽だまりのような温かさで。 (―――大きな悲しみを知っていたからだ) ひとたび思い出せば、こんな風に涙が尽きぬほど大きな悲しみを。その上、その悲しみに絶望せず、抗わず、懸命に受け止めてきたのだろう。末法の荒んだ世に降臨した龍の娘―――白龍が自ら選んだ神子は、鬼にも怨霊にも―――人ではない自分にも、全てに対して優しかった。 大きな悲しみを知った魂は、強く、優しい。 以前、悲しみは世界の共通語なのだと花梨が言った。人の優しさや強さの根源に悲しみがあるのならば、さもあらんと泰継は思う。 「花梨」 「………ふっ……く」 「あまり、童のように泣くと―――不細工になるぞ」 「う”〜〜〜。嫌―――」 「親御も心配していよう」 「う…ん……」 ぐすぐすと、涙を滲ませながら、どうにか花梨が泣きやんだ。 「ごめん…な……さい…」 「―――」 「ごめ…ん。あり…が…と…」 「大丈夫か?」 「う…ん………」 花梨の頬に伝う涙を、泰継は指でそっと拭ってやる。瞼が既に紅くなっていた。 「私、今更だけど、ちょっと判った」 「何が?」 「手が…ね。泰継さんの手、お父さんの手に似てるの」 「――――――!」 「ふふふ。娘って、お父さんにどこか似ている人を好きになるのね」 泣き笑いの変な笑顔が、腕の中から泰継を見上げている。瞼を紅く腫らして、いつもより、少々不細工で。そんな花梨が、殊更愛おしく感じられた。 「寒いだろう―――そろそろ帰るぞ」 「うん………」 「そのまま家に帰って、問題ないのか?」 「―――あります」 「では―――、一度私の家に寄るか?」 「泰明さんとあかねちゃんは?」 「―――浮かれて街に出ているだろうから、きっと居ない」 「ああ―――そっか」 クリスマスだもんね―――。 今度こそ、花梨は笑った。 「可笑しいね。私たち」 「―――花梨だけだろう、それは」 「え?」 「こんなときに、泣き腫らして不細工になって街を歩くのだから」 「―――泰継さんの意地悪!」 ならば、と。 手桶を提げていないほうの腕で、花梨をしっかりと抱きこんでしまう。そのまま少し膝を折り、片腕で抱き上げる。 「―――!?」 「掴まっていないと落ちるぞ」 「えぇ!?」 両腕を泰継の首の後ろに回し、肩に顔を埋めるようにして花梨がしがみ付いた。 「そうしていれば判らないだろう、泣き顔も」 「でも―――これはこれで恥ずかしいよ」 「どっちが恥ずかしいんだ? 泣き顔を晒すのと」 「――――――こっちにする」 「よし」 ひどく機嫌よく、泰継が歩き出した。 彼の肩越し、花梨の瞳に、遠く山の稜線が映った。天辺は白く、その他は青空に溶けるように淡い紫色をしている。 あの麦藁帽子は、どうしているだろうか? 小さい頃に思い描いたように、誰かの幸いのために日陰をつくり雪避けになり―――やがて雨に打たれて土に溶けてゆく。そうしてまた、生い茂る夏草の糧となって、新しい生命に生まれかわる。 春になったら、碓氷峠へ行こう。 父との思い出のあの麦藁帽子に会いに。 もう、麦藁帽子の姿ではないのだろうけれど。芽吹く春―――あそこの草は、みな、麦藁帽子の子供たちなのだ。その草を食む小さな虫も、それを糧とする動物も。 優しいね、と笑ってくれた父の想いが、ストンと胸に落ちた。 『わたしたちは、いつもお前の幸いを願っているよ』 父の言霊は、風花に載ってやってきた。祝福と、幸いを伴って。 「ありがとう、お父さん」 頬に触れた風花に、花梨はそう小さく呟いた。 Fin. ★モチーフは、もちろん西條八十『ぼくの帽子』と石川啄木『一握の砂』です。西條八十と石川啄木は、乙女系だと思います。 |