春 は 名 の み の (3)




 それは、確かに“恋”でした。わたしにとっても、貴方にとっても。

◇ ◇

 「お師匠は、あまり言葉を下さらない方だった、、、と思う」
 「―――…」
 落花の雪―――白い桜花を彼が見たのは三度。
 紅葉も、紅い南天の実も牡丹雪も三度。
 不思議なお屋敷の庭の桔梗は、別れの日を入れたら四度かもしれない。
 「にもかかわらず、わたしのために言葉を尽くしてくださったのだな…」
 「……うん」
 改めて思えば、“京”という異界の都で彼に巡った年月(としつき)は、たかだか三年ぐらいの短いもの。“時”という尺度で測ればあまりに僅かな“思い出”だけが、こちらの世界に渡る彼の財産だった。
 「師匠め……柄でもないことを…」
 そんな悪態を吐きながら目を伏せて。捨ててゆくものの重さも量れないほど幼かったひとは、今、それらをいとおしむように…僅かな過去の重さを確かめている。
 困ったように見えるのは、きっと照れているから。
 そして、過ぎさった時間を…懐かしいと、そう思った自分に戸惑ったから…?
 「ご…めん………ね」
 (ああ、なんてこと……)
 彼は、その過去を取り戻したいとか後戻りしたいとか決して言わないだろうし、また、その事実も事の重大さも、わたしは、十分に判っているつもりでいたけれど。こういうときは、やっぱり胸にずしんとくる。

 黴臭い書物に溢れた部屋とか。
 磨り上がったばかりの墨の匂いとか。
 わずらわしいだけだと、そんな風に言っていた陰陽寮の人々のこととか。
 都大路の土ぼこりも。
 慌しく立ち働く、市井の人々も。
 木漏れ日の射す清らかな森も。
 柔らかくて豊かなそこの腐葉土も。
 京に息づく神々の声も、精霊たちの唄も。
 異界の地にあった彼の日常、そのどれもが彼の未来には存在しないもの…二度と触れることの叶わない“過去”のものになってしまったの。

 「……ごめんね、、、泰明さん」
 「―――あかね…?」

 二人で望んだこと、二人で決めたこと。
 だけど、どうして、人は何にも捨てず失わず全部を選び取ることが許されていないんだろう?
 どうして、神様は、身を切るような選択を突きつけたりするんだろう?

 「あかね」
 「?」
 「案ずるな、わたしは……」
 「…うん。これはもう…言いっこなし…なんだよ、、ね」

 繋いだ手。いつもわたしを護ってくれている手。大好きな貴方の手。
 “なつかしい”という切なさを超えてゆくためには、確かな今を。
 感傷的な言葉よりも、二人で過ごした手のかかる時間の愛おしさを。
 だから―――

 「ありがとう」

 貴方と一緒に過ごした時間は、なんというか、凸凹で不恰好で一生懸命で。その一瞬一瞬が、わたしにとっては宝物のようにキラキラしていてかけがえのないもので。

 「ずっと一緒に居てくれてありがとう、泰明さん」
 「―――…」
 「愛しているわ」
 「!」

 だからどうか、貴方が選んでくれた私の手が、貴方にとってずっとずっと温かくて優しいものでありますように。貴方を信じて送り出した人の手の、その大きさと温かさには到底敵わないのだろうけれど。
 大切なものが増えて、誰かの未来を思いやることを知っていく貴方の傍で。
 寂しさや懐かしさを覚え、過去を慈しむことを知っていく貴方の傍で。

 「わたしは…ずうっっと―――貴方を愛するわ」

◇ ◇

 鈍色の空の下で告げられた言葉に、初めて気づかされる。

 (ああ―――本当は、待たせているのは自分のほうだったのだ)

 「あかね、あの約定を果たしてもらう」
 「え?」
 我儘で気まぐれなあかねに、待たされているのだと思っていたけれど、それは違ったのだ。きっと、あかねのほうが待っていてくれた。

 ―――“家族ってね、さり気無〜く優しくって、空気みたいなものだと思うの”

  確かに、梅雨時みたいにうっとうしいこともあって。
  真冬の外気のように、時々突き放すみたいな厳しさもあって。
  でも、それは全部必要なことなの。
  それは全部、優しさや愛情からのことだわ。
  少なくとも…そう信じさせてくれる人は“家族”なの。

  例えば、誉めてくれた言葉とか、
  一緒に笑ってくれたこととか、
  本気で叱ってくれた言葉とか、
  黙って見守ってくれていたその眼差しとか、
  そのときの沈黙そのものとか…
  そこに載せられた祈りは、知らないうちに心に染みこんで、 心を強くしてくれるの。

  ふわふわといつも一緒にいて、決して縁が切れるなんてことがなくって。
  遠く離れていても、そうやって信じることや祈ることで、繋がっていられるの。

  ―――“ね、、、家族って、さり気無〜く優しくって…空気みたいでしょう?”

 あかねが笑いながら話していたこと。まだ、あかねが神子だった頃だ。“帰りたい”とよく泣いていた神子が、少しずつそれを言わなくなった。
 そのとき気がついた。
 神々が護る京。精霊達が宿る樹や水や風。それらに、神子は深く愛されていること。また、それらを神子が深く愛していること。

 (―――…ああ、あのときの彼女の言葉の意味が、漸く解った)

 「“継のほうで決着がついたら、すぐにでも、お前を貰い受ける”―――そう約束したはずだ」
 「!」
 抱き寄せた身体は相変わらず頼りなく、そのことに胸は痛むけれど、 もう待たせてはいけないのだろうし、待ちたくなかった。
 去年の夏―――星が降った夜と同じように、彼女の髪に口付て
 「お前を…貰ってもよいな」
 「―――…」

◇ ◇

 幸せになって欲しいと思うもの。
 健やかであって欲しいと思うもの。
 例えば二度と会えなくても、その願いは変わることがないし、どこかで信じている、判っている。
 かの人が、快活に笑いながら見守り信じてくれているのだということも。目の前にいる泰継が、ああやって手に入れた全てのものを、慈しみながら暮らしていくだろうことも。
 あかねが言っていた意味が漸くわかった。

 “―――さり気無く、空気みたいに優しいもの”

 家族は、離れていても信じるものだ。手を離しても信じて願うものだ。寂しいと思っても、離れていくことを妨げない。深く理解して信じているから。
 だから祈る。
 その祈りが、あかねが言うところの“空気みたいに優しい”ものなのだ。

 ならば、自らの手で掴むべきは何か。
 どうして、自分にとってあかねだけが特別なのか。
 願い思うだけでは決して満足(たら)うことなどできない。手を足を労して、言葉を尽くして、そうやって幸せにしたいと思う、その衝動は―――

 「あかね、もう一度問う。お前を貰ってもよいな?」
 「―――…うん……も、貰われてあげる…

 腕の中で身を硬くしながらもぎこちなく頷く様を、愛おしいと思った。師の願いも、彼女の願いも、勿論、自身が希ってきたことも、 全てを叶えられるときが来たということだ。

 「ならば、あれをわたしが奪ってくる。それが順当だ」
 「……?」
 「先程あの娘達が話していた。あれは順番を決めるものなのだ、と」
 「は?」
 「次は私たちの番だ。そう決まっているし、そう決めた。異存はあるまい」
 「え、、ちょっと…」
 「あの中で多少憂慮すべきは黒龍の娘の動きだけだ、だが…」
 「??? え、ちょっと泰明さ…」
 「だが、私の敵ではない。必ずわたしが勝ち取ってこよう」

 大切なあかねのために。
 柄にもなく言葉を尽くし心をかけてくださった、かの人のために。
 勿論、自身が希うもののために。

 「花梨が投げようとしているあの花束を、必ず手にしてみせるっ!!」

 こちらでは、そういう“しきたり”だというではないか。
 花嫁が投げたあの花束を受け取った者が、次に必ず幸せを手にするのだと。


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 泰 明 さ ん !!
 イイセンいってたけど、なんかすっごく間違ってるから!!!
 『天体観測』(4)とか『ペルセウス流星群』というお話に、ちょびっと掠ることとなりました。そちらを読んでいない方にはわかりづらくってゴメンなさい。
 と、ところで…ですね。
 『碧(あお)に還る』(2)の泰継さんとお師匠様とのお話のときもそうだったのですが、ヤスたちとお師匠様たちとの間柄を書くときに、いつも、ぐるぐる巡る言葉がこちら。

 「 然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ 」 (有島武郎 『小さき者へ』)

 お師匠様たちは、泰たちにとって、こんなお父さんであってほしい。。。やがて手離してしまうとか、見届けることはできない、って判っていて。その上、鈍感なヤスたちはよく解ってないトンチンカンな子達で。だけどしっかり手をかけて。いつか必ず伝わるし解るだろうって。そんなふうに雄大で寛容なお父さんであってほしいのです……。