夕暮れ時の商店街はあたたかくて騒がしくて少し物悲しい。 人々の装いも並ぶ建物も異なるけれど、いつか見た都大路の夕暮れとよく似ているように思われた。 あたたかな夕陽の色と、家路を急ぐ者たちが行き交う雑踏と―――たとえばこんな風に、目の前の光景に二度と戻らぬ世界の断片を重て思うとき、それは「懐かしい」という感情なのだと、以前あかねが教えてくれた。 柔らかく茜の色に染まった空の下、街灯がぽつぽつとともってゆく。 その様子に、隣を歩く弟も遠い世界のことを思い起こしたのかもしれない。 「ここも暮れる様(さま)は似ているな。釣燈籠の灯(あかり)を思い出す。」 「ああ、桔梗紋に抜いた釣燈籠が屋敷にいくつもあったな。」 「そうか。あれらは泰明の頃には既に屋敷に在ったのか。」 「師匠が作らせたものと聞いている。暮れ始めると師匠の式神(しき)がひとつひとつ灯をともしてゆくんだ。」 あちらの世界で互いに会うことはなかった二人だが、時を違えて同じものに触れ同じものを見ていた。こちらの世界で出会うことになり、話をすればそんな共通項はいくつもあった。 「―――思い出すことは苦しくないか?」 「苦しくもあるが・・・仕方がない。わたしが持っているのは長く過ごした京での記憶ばかりなのだから。」 弟は時折、夜中それと分かるほどに気を乱す。こちらの世界に来て一年、二年とそれはずっと続いてきたことだった。数か月か半年に一度だけ。深い水底に沈んでゆくように、弟は遠い昔の出来事に囚われてしまうようだった。敏い泰明が気付いて部屋にかけつければ、いつも苦しそうに胸を押さえて言うのだ。 『………問題ない。気を乱して悪かった………』 肩で息をしながら、掠れた声で。 昨晩も同じことが起きた。 それまでと同じように、泰明はただ黙って弟の傍でその夜を過ごした。 明け方になってやっと眠ることができた弟は、そのまま泥のように眠り続けて漸く目を覚ましたのは日が傾きかけたころだった。顔色がまだ優れなかったが、少し外を歩きたい、人々の雑踏に紛れたい、と。そう言い出したので、近くの商店街に弟を連れ出した。 普段からあまり言葉を交わさぬ兄弟である。 必要最低限の言葉だけで、暗黙のうちに分かり合えることが多い。 それでも互いに不可侵の領域がある。 弟が気を乱したときは、泰明は何も問うことなくただ傍に居ることを選択してきた。 いまも、ただ並んで歩いているだけだ。 弟が何に苦しんでいるのか、何を悔いているのか、泰明は問わず傍に居る。 「泰継よ―――今は逢魔が時。夜の闇に連れてゆかれるなよ。」 努めて静かに声をかけて、泰明は彼の九十年を思った。 弟がたったひとりで過ごしてきた長い年月のことを、泰明は詳らかには知らない。 うつろな心のまま、いわば審眼者のごとく人の世を見つめ続けた日々のことを、いつだったか泰継が夜空を眺めながら訥々と語ってくれたことがある。 曰く―――今日が昨日と同じであったと。それをただ確かめるばかりの月日を過ごしてきたのだと。 「揺れる、変わるは、我等とて必定。それは人の子と同じ。」 「―――・・・」 「それでも我等は人の子と似て非なるもの。我等互いにしか分からぬこともあろう。お前は何を恐れる?」 「―――時折おそろしくなる。小さな歪(ひずみ)の積み重ねにのみこまれていくようで。ふいに足元が消えてしまうような感覚になる。」 小さな歪。 それはきっと安倍の家で引き受けてきた仕事のことなのだろう。 能力が高いものほど無理難題を押し付けられる。 弟は、理(ころわり)を歪める類の仕事を負わされてきたのではないか。 「泰継よ、闇に自ら触れようとしてはならぬぞ。闇を呼び込んではならぬ。お前がいとしいものを深く慈しんでいることを、わたしはよく知っている。」 「そうやって慈しんでいたもの・・・変わり移ろいゆく愛しいものに置いていかれてしまうことが―――ただ、怖ろしいのかもしれぬ。ただ繰り返されてきた当たり前のことであったのに、それを怖ろしいなど・・・自分でも心のありどころが時折よくわからぬ。」 夜の凪いだ海のように静かなたたずまいで、どこか他人事のように弟は言う。 泰明は胸が痛い。 弟が纏うものの色が視えてしまうから。 凪いだ海のように穏やかに視えるそれは「諦め」。 弟はずっと、悲しみをとおりこした諦観の中にいる。 「それでも・・・共に居たいのだろう?」 そう問いかけたら、弟はしばし目を瞠った。 隣に立つ泰明と目を合わせて、それから泣きそうにも見える表情をして目をふせた。 「望むことを諦めるな。伝えればよい。その弱さごと。それでも共に居たい。共に―――生きてほしい、生きたいのだと。」 泰明の目から見て、弟の泰継と彼の神子の関係はじれったい。 互いに深く思い合っているのは明らかなのに、泰継のほうがどこか一線を引いてしまっている。 弟は、これまでの長い年月の多くを独りぼっちで過ごしてきた。 置いて行かれること失うことを繰り返し、やがて北天に近い山から京(みやこ)を独り見守る役目を担い―――安倍家より与えられた庵の方角からして、弟が担っていたのは、霊的に京の鬼門を守る要の役だろう。 泰明が去り、稀代の陰陽師安倍晴明を喪った安倍家において、泰継の存在はどれほど重要であったことか。安倍の家は為政者に請われれば呪詛も行う。そうやって闇のうちに請け負う仕事を安倍の血筋のものが行ってきたかといえば、きっと違う。正当な血筋の者とは別に、一族には有能で強力な陰陽師―――人柱として差し出しても構わぬ、人に非ざる存在がいたのだから。そうやって一族が闇のうちに請け負う仕事を、弟は一手に引き受けてきたに違いなかった。 初めて出会ったとき、弟の魂は―――泰明の目にはひどく無垢なものに見えた。 落ち着き払ったその佇まいに反して。 柔く優しく儚きもの。 その柔い心のまま、人と人に非ざる己が立場の違いを当たり前に受け入れてきたのだろう。 特別な仕事にあたるとき、それが理を歪めてしまうものかどうか―――有能な陰陽師である弟は、そのことに拘ったかもしれないが、歪めてでもそれでもやらねばならぬとなったときに、弟は悩むまい。 たとえば、安倍の家の正統な血筋の者が穢れを負わず済むように。そんなふうに考えて、弟自らが人柱の役を負ってきたことは容易に察せられた。 そうやって、おそらくは何の抵抗もなく感慨もなく引き受け続けた歪みに、弟はいまになって囚われている。 きっと、心を自覚してしまったから。 柔い心と過去の歪みの積み重ねとが鬩ぎ合う中で、神子の手をとることは弟にとってどれほどの決意であったか。 泰明には、弟の境遇がひどく理不尽なものに思え、巡り合わせだとか仕方がなかっただとか、そういう言葉で割り切ることがずっと出来ないでいる。 夕暮れ時の商店街はあたたかくて騒がしくて少し物悲しい。 夏を見送り彼岸が過ぎれば季節は一気に動く。 太陽の軌道はぐっと低くなり暮れる間は短くなった。 私鉄の小さな駅前は商店街の入り口だ。 改札から出てきた人々は商店街へと流れて、夕陽の色を淡くうつした雑踏にまぎれてゆく。 「―――花梨」 泰明が声をかけると改札の向こうからニコニコと屈託ない笑顔で手をふってきた。 弟の大切な神子。 あかねと同じ、白龍が見初めた美しい魂。 こんなに美しいと、付喪の神も妖しのものも易く惹きつけてしまう。 あかねも似たようなものだから人のことは言えぬが、これでは泰継とて気が抜けまい。 「泰継のかわりに迎えに来た。ついでに買い物も頼まれているゆえ、つきあえ。」 学校帰りの花梨の荷物を持ってやり、さてどうしたものかと考える。 花梨には伝えていない。 ほんの数日前に泰継がひどく気を乱して半日寝込んでいたことを。 何かを察したあかねに、いま、泰継がつかまっていることを。 「泰継はあかねの僕(しもべ)として、いま夕食づくりだ。すまんが、花梨にはこっちを手伝ってもらう」 それだけ伝えると、花梨が可笑しそうに笑って肩をすくめた。 「泰継さん、今度は何をやらかしたんですか」 「継は何もやらかしておらぬ。あかねの気まぐれだ。手順の複雑な料理を継に仕込むと息まいていたぞ」 「あぁ、泰継さんのお料理の腕がまたあがっちゃう。」 ―――でも。 と、不意にまっすぐに泰明の目を見て、弟の大切なひとが言うのだ。 「ありがとうございます。」 「どうした、改まって。」 「泰明さんとあかねちゃんが居てくれてよかったです。泰継さん、あかねちゃんに振り回されるのなんだか嬉しそうだし、泰明さんのこと頼りにしていろんなことお話して甘えているみたいだし―――」 (ん? ちょっと待て。) 「甘える? 泰継が、わたしに?」 「そうですよ? 泰継さんは泰明さんに甘えています。とても頼りにしています。」 「―――・・・」 「泰継さん、自分には心があるんだって自覚したときにはもう―――・・・家族のような大切な人は二度と会えない人になっていたから。多分、ありがとうも、ごめんなさいも、言いたいことがたくさん出てきたのに、それはもう叶わなくて。だから、泰継さんにとって泰明さんは、初めて会えた家族なんです。一緒に居て、ありがとうも、ごめんなさいもちゃんと言うことができる。」 ああ―――弟の過ごした九十年という時は複雑だ。 今共に過ごす弟を見て、花梨に見えているものと、自分に見えているものと、当然のことながら、少しずつ違うのだ。それでも、花梨に見えているものもまた真実なのだと思う。 「陰陽師の家のことも陰陽師の決まり事もわたしにはわからないし、泰継さんはあまり話しません。でも、自分よりも力の強い味方の陰陽師が傍に居ることが、多分泰継さんにとって初めてのことなんです。だから、泰明さんが居ると泰継さんはどこかふにゃぁっと油断している感じがします。泰継さん、弱音をはいたりしていませんか? 泰明さんにしかそういうの言えないと思うんです。」 共に暮らしながら、期せずして弟の脆さを知ることになった。 弟のほうも、今はそれを隠さずにいてくれる。 きっと、それでいい。今はまだ。 弟が闇に連れてゆかれぬように、傍に居てやれることが大事だ。 「継のやつ、あれで甘えているつもりなのか。」 「そうですよ? 泰継さんにしてはデレッデレです。」 「そういうものか。」 「そういうものです。」 後ろ向きで少し面倒な年上の弟のことを思って、ふたり、顔を見合わせて笑ってしまった。 弟の九十年の孤独は手強い。 欠けることなく精緻に積み上げられた九十年分の記憶と自覚したばかりの心とはあまりにアンバランスで、柔い心は暗く刃物のような記憶に易く引きずられてしまうのだろう。 「花梨、わたしは―――」 「?」 「―――わたしは、あいつの兄をしてやれているのだろうか」 家族を知らないのに家族のようなものでありたいと願う、人に非ざる者のこのおこがましさは、人の子の目にどう映るのだろう。 「そんなの―――・・・あたりまえですよ! 泰明さんは、ずっと前から泰継さんの憧れのお兄さんでした。一緒に居られるようになってからも、泰明さんは、泰継さんに安心できる場所をくれたお兄さんです。」 「!」 これは・・・どういうことだろう。 ひどく面映ゆいではないか。 「っ、さて・・・頼まれた買い物をすませてしまおうか。」 「はい、頼まれものは何ですか?」 「甘いもの・・・デザートだ。花梨と相談して好きなものを買ってきてほしいと言付かった。」 「好きなもの―――何でもいいんですか?」 「当然だ。」 「それじゃぁ・・・新しいプリンのお店行ってみませんか? 駅の反対側でちょっと歩くんですけど、少し前に専門店ができたから。泰明さんに早く教えてあげなきゃって思ってたんです。駅の反対側は、泰明さんはあまり行かないでしょう?」 「よし。その話、のった」 そう応えると、弟の大切なひとが嬉しそうに笑った。 暮れる空の下、淡い灯がともってゆく。 この灯が照らす道の先がたとえば地獄であったとしても、あかねが行きたいと言えば自分は共に歩いていくだろう。 弟と弟の神子はどうなのだろうか。 弟が抱える九十年の孤独を、この神子は捨てさせるのだろうか。 それとも―――九十年の孤独さえ、共に連れてゆこうとするのだろうか。 暮れる空は「さよならの色」なのだとあかねが言っていた。 暮れる空を見て懐かしいと思ったとき、それは何かと「さよなら」したのだと―――そんなふうに教えてくれた。 この世界の暮れる空の色は、弟に何を思い起こさせたのだろう。 あの釣燈籠の灯(あかり)を、弟は懐かしく思ったのだろうか。 九十年という長い時間のいくばくかでも、その記憶が弟の中で消化されて懐かしいものに変わってくれたらいい。 傍に居て、ただ共に日々を送りながら。 そういう風にしか伝えられないことは、確かにある。 自分も、あかねも、それから、弟の神子も―――それを知っているから。 だから、弟の傍に居る。 いつか弟の心に訪れる、九十年の孤独への「さよなら」のために。 Fin. 本編第5章の『ペルセウス流星群』というお話の少し後、そして、「今日もプリン日和」の第1話(青空プリン/ヴェランダわんかっぷ)よりも少し前のお話でもある。 泰明から見た泰継×花梨。そして、花梨から見た泰継+泰明。 泰明と花梨は、「泰継のことがめっちゃ大事!!同盟」の同志みたいな感じで仲良いといいな!それぞれの立場から泰継の九〇年を手強く思っているといい。 |