ほ ろ 苦 い の を 愛 す る ひ と



 (・・・!)

 夕暮れ近くの駅前商店街。
 珈琲豆の自家焙煎のお店の前でよく知っている背中を見つけた。
 背筋のすっと伸びた、遠目にもきれいな立ち姿。
 人波を避けながらそろそろと近寄ってゆき声をかけようとしたところで、その人は実にタイミングよくこちらに振り返って、
 「―――あかね?」
 と。
 気に聡いひとだから、こちらから声をかける前にあっさり気付かれていた。
 だけど、
 「わ、珍しい!」
 そう。こちらにふりかえってくれたその人は珍しいことに眼鏡をかけていて。
 わたしのほうは、その物珍しさやらフレームを選んであげたときのウキウキ感やら、あれこれ綯交ぜの気持ちでうっかりテンションが上がってしまって、
 「似合ってる! 継さんすっごくカッコいい!!」
なんて、思いっきり声に出してしまった。
 「―――・・・」
 わたしの様子に驚いて瞬きをしたあとで、けれど、その眼鏡のカッコいい人は淡く目許を和ませた。今日は人の多いところへ出かけてきたので、と。そう言いながら、眼鏡をはずしてみせる。そうして、
 「花梨と共にこれを選んでくれたそうだな。感謝する」
と、柔らかく笑ってくれた。

 それは彼にとってはフィルターの役目をもつ伊達眼鏡。
 視えなくてもいいものが視えてしまうという難儀な方向で視力がよい彼は、こちらの世界に来て初めて「とんでもない規模の不特定多数の人混み」というものに遭遇した。あちらの世界では考えられなかった規模の人混みの中で、そこに渦巻く数多の思いに一度に触れたことで視界がひどく揺れて、船酔いみたいに具合が悪くなってしまったらしい。
 そういう場に身を置くとひどく消耗してしまう彼のために、まわりで対策を考えて、フィルターとして少しは役立つだろうと「眼鏡してみようか?」ってことになった。
 寝込んでいる彼のかわりに、顔のそっくりなわたしの大事なひとを引っ張り出して(モデルとして)、彼の大事なひとと一緒になってお節介がてらウキウキといくつかフレームを選んであげて―――そんな訳で、彼は、今日かけているセルフレームタイプの他にも、色違いの同タイプのと、さらにメタルフレームのものも持っていたりする。

 「―――そういえば、」
 と、彼はまた眼鏡をかけながら、
 「泰明は、これが無くとも問題なかったのか?」
 「はい。どうしてだか大丈夫でした。いろいろ視えちゃってるはずなんですけど・・・」

 多分―――あのひとは無意識のうちに、いま視るべきものとそうでないものを、ばっさり斬り分けてる。ほんとうに“意識の外”で、そういう決断をする勘がすさまじく鋭い。ちょっと神憑(かみがか)っているくらいに。
 捨てることに躊躇いがなくて、その視界のうちのものについても―――”状況に応じて”とはいえ―――けっこう極端な取捨選択をしているんだと思う。
 それは、ときに危なっかしいくらいの潔さで。

 「そうか・・・泰明のほうが視えているものが多いはずなんだがな。力が強い分その反動も大きかろうに。まったく―――あいつには敵わないな・・・」
 そんなことさえ、少しうれしそうに言ったあとで、彼は、

 ―――まぁ、あいつが難儀な思いをせず済んでよかった。

 と、この夕暮れの緩やかな風に融けてゆくような優しい声で呟いた。

◇ ◇

 社交辞令とかそいういう類(たぐい)の言葉を一切もたないひとだとよく知っているから、こうやって何の気なしにほろりと零れる彼の優しさに触れるたび、わたしのほうは少しせつなくなる。彼の長い旅のことを思って。
 彼は、わたしの大事なひとにとても優しい。
 ずっと前からそうしてきたように当たり前の顔をして、こういう優しさを示してくれる。
 その優しさは純粋でどこかあどけなく、彼の長かった旅路とはあまりにアンバランスで、わたしは、ときおり胸をつかれるように哀しみにおそわれる。
 いまも、そう。
 けれど、それを悟られぬようそっと話題をかえて、

 「―――珈琲豆、お気に入りのありましたか?」

 ちょうど行きつけのお店から出てきたところだったみたいだから。
 多分、彼のお気に入りの豆のほろ苦い香りとともに、彼はそこに立っている。
 たしか、苦味が強い深煎りのなんとかという種類。
 彼は、ほろ苦いのを愛するひとだ。

 「ああ―――それもそうなんだが、あかねが好きなものも無くなりそうだったから買っておいた」
 「!」

 取り出した珈琲豆の袋の、苦味と酸味のバランス表示のところをわたしに見せてくれながら、たしかこのようなものだったな?と。
 それから、“これで合ってる?”とは口では訊かず、それはただ目で問いかけられたから、わたしも大きく頷いて笑って見せる。だけど、

 「継さん・・・・」
 「ん?」
 「なんだか“お母さんみ”が日々増してきますね・・・オカンと呼びたくなる」
 「・・・なんだそれは」
 「だって、優しくて世話好き・・・」
 なんだか可笑しくなって笑いをかみ殺しているわたしの様子に、彼は少し困って、
 「あかねのそういうところに近頃慣れてきたがな・・・」
と、溜息をついた。

 あちらの世界では、彼は北山の庵で隠遁生活をして、森の動物たちにはとても慕われていたのだそう。庵近くに迷い込んできた獣たち、怪我を負った子や親とはぐれた子を助けてあげていたらしい。
 言葉は端的でちょっととっつきにくいのだけれど、とても優しくて、細やかにいろんなことに気付いてくれて。わたしも、わたしの大事なひとも、彼にとっては“新たな森の仲間”なのかもしれない、と思うとなんだか可笑しくて。同時に、そうであったらいいな、と思ったりする。
 “家族”っていったらいまひとつピンとこないでいるらしい彼にとって、まずは、“愉快な森の仲間”になれるのなら、それも素敵なことだと思うから。

 「継さん、あのね」
 「―――?」
 「これから、お夕飯の材料と・・・あと泰明さんのプリンも・・・お買い物につきあってもらえますか?」
 「ああ―――かまわん」
 「よかった。お荷物よろしくおねがいしますね」
 「当然だ。そのための、わたし、なのだろう?」
 「バレてましたか」
 ふふっと笑うわたしと一緒に、彼のほうもちょっと楽しそうに口の端っこで笑ってくれるから。世話好きな彼に、ついつい頼みごとの上乗せをしてしまう。
 「今晩ね、コロッケ作りたいんです。手伝ってください。ジャガイモの皮剥いたり潰したり、パン粉つけたり揚げたり、なかなか手がかかるやつなんです」
 「―――承知した」
 そう短い言葉で応えたあとで、ふっと笑って、

 ――・・・泰明の大切な神子の頼みとあらば。

 なんて。
 半ば冗談めかしてそう言いながら、彼は徐(おもむろ)にわたしの頭にポンと手をのせて、わしゃわしゃっとやってくれた。やっぱり、ずっと前からそうしてきたことのように、ごく当たり前に。

 多分―――かつて共に過ごした森の動物たちの頭をなでてやるみたいな感じで。


Fin.

 本編第4章の『若葉の頃』あたりの、彼ら。
 こうやって泰継は料理の腕をあげていけばいいよ・・・(笑)!