耳 に 残 る は 君 の 歌 声




 確かに自分は神子を好いていた。
 けれど、その贔屓目を差し引いたとしても神子の声は伸びやかで晴れやかでとても美しかったのだ、と思う。

◇ ◇

 珍しい旋律。
 不思議な詞。
 催馬楽とも朗詠とも全く異なる歌物(うたいもの)。
 聴いたこともない歌を神子が歌っていた。

 声をかけることがひどく躊躇われて、彼女の声をその背後でじっと聴き入ることになってしまった。
 やがて、歌い終えて深く息を吐いた彼女の背が不意に小さく見えて、慌てて言葉を探し、勤めて静かに声をかけた。彼女を驚かせぬように気遣いながら。

 「神子…あの…心地よい響きですね」
 「―――!?」

 はっと振り返った彼女の目許が気になった。
 ただ、それを問う間もなく彼女ははにかむ様に笑って、今は会えない人を思い出してつい口ずさんだ歌なのだと、教えてくれた。
 それでいて、その異界の不思議な旋律には遠い故郷を懐かしむには湿度が足りず、かえって晴れやかなものにさえ聞こえたのがまた不思議だった。
 感情を表す術と捉え方が少し異なるのだろうか、それとも―――。

 「神子が歌に載せて思い馳せた方は……晴れやかなご気性の方なのでしょうか」

 遠慮がちに問うてみると
 (…!)
 不意に泣きそうにも見える表情で神子が笑った。

 「あ…神子、申し訳ありません…」
 「いいえ。あ、あのね……ここに来てからね…」
 「?」
 「ここに来てからの日を指折り数えてみたら…今日あたりお姉ちゃんの結婚式なの」
 「神子……ケッコンシキ…とは」
 「えーと……こちらの世界ではなんていうのかしら…婚儀? なんだろう…男の人と女の人が夫婦になって、二人でこれから助け合って一緒に生きていきますってみんなにお披露目する儀式……が私たちの世界にはあって…それを結婚式って言います」
 「神子には…何方かに嫁がれる姉君がいらっしゃったのですね…」
 「そうなんです。歳の離れた姉です。永泉さんとお兄さんくらい離れているかもしれません」

 嫁すときの決まりや仕来り、また一般的なその年頃、その他諸々、“嫁ぐ”という慣習がこの世界と神子が暮らしてきた異界とでは大分違うことが一通り話題になった後で―――

 「多分今日あたり…お姉ちゃんがあれこれ選んでいた白い綺麗な衣装を着て、わたしのお義兄さんになる人と結婚式をしているはずなんです。今朝起きたときに、本当に急にそのことを思い出してしまいました」
 「―――…」
 「六月は花嫁の季節なんです。わたしが暮らしていたところでは」

 何か言祝ぎの類を歌にしたものだったのか。晴れやかな印象の旋律なのはそのためだろう。
 ただ、彼女にかけるべき言葉はなにも出てこなかった。
 彼女は望んでここに来たのではない。
 予期せず、連れてこられたひとなのだ。
 神に見初められるほどに、魂が清らかであったために。
 晴れやかな旋律を思い返すと、かえって胸が痛んだ。

 「あの…神子」
 「はい、なんでしょう」
 「わたくしからも、その姉君のために笛を―――よろしいでしょうか」

 神子は、まぁ!と驚いて、それから嬉しそうに笑ってくれた。

 「神子の寿ぎが天を超えて届きますよう―――この笛の音とともに祈らせてください」

 整えられた庭の緑。
 湿度の少ない空気。
 風は、どこか五月の風に似て若草の薫りさえ纏っていて。
 勾欄から少し身を乗り出すようにして神子が見上げた空は綺麗に晴れ上がって―――どこまでも、どこまでも遠い青だった。

◇ ◇

 あれから幾年過ぎたのだろう。
 あの日の空の青は、いまでもしっかり瞼の裏に焼きついている。
 それから、あの不思議な歌物の旋律も。
 詞までは残念ながら覚えていない。
 その意味するところを理解するには風変わり過ぎて、記憶として留まるには至らなかった。

 「―――おや門跡殿…これは珍しい……」
 「っ―――お運びとは知らず、申し訳ございません」

 慌てて居佇まいを直した永泉に

 「いやいや、かまいませんよ。貴方の笛が聴こえましたのですぐにいらっしゃると判りました。先触れの小僧を断って勝手に罷り通ったは、拙僧のほうが無礼でございますから」

 にこにこと人好きのする笑顔を浮かべ、なじみの老僧が入ってきた。
 門跡―――ここ宮門跡である仁和寺の正当な後継者として指名されたのが3年前。永泉が、その地位を継いだのはほんの最近のこと。以降、この馴染みの老僧は永泉のことを“門跡殿”と呼んでいる。僧とはそも法外のものであるから身分を語るのもおかしなことであるが、どうやら、親しき仲にも…ということらしい。
 その老僧は、永泉が手にする笛に目を向けて

 「して、聴きなれぬ旋律でございますな」
 「実は……異国(とつくに)の歌物と申しましょうか。それももう―――10年ほど前に一度耳にしたきりの」

 笑ってそう言うと、10年前ということに合点がいったのか、

 「あの龍の姫神子…ですな」
 「ええ。ちょうどこんな季節に、神子が口ずさんでおいでだったのです。空の青と草若葉の様子に、つい懐かしく思い出しておりました」
 「その歌物の音から察するに、龍の姫神子とは……晴れやかなご気性の方だったのでしょうか、拙僧にはそう思われます」
 「!」
 「門跡殿?」
 「―――…はい。伸びやかで晴れやかで―――とても美しい方でした」
 「今でも―――。門跡殿は今でもその姫神子に恋を?」
 「!?」
 「いやいや、重ね重ねのご無礼を」

 とたんに頬を赤らめた永泉を見て、老僧は、快活に笑った。
 からかう様な声音とは反対に、目許は穏やかで優しい。
 その眼差しに、少し落ち着きを取り戻したのか、誰に語るともなしに、永泉は目を伏せて呟いた。

 ――…今となっては、恋かどうかもわからないのです、と。
 
 「ただ。神子が幸いでありますよう願う一方で、神子が今、確かに幸いであると―――わたくしは知っているのです」

 それは、名状し難い“思い”の繋がり。
 おこがましいことかもしれないが、それは確信めいたものとして、永泉の中にずっと居座っている。
 あの日の空と、草の青と、泣きそうになったり嬉しそうに笑ったりした神子の表情、それから、不思議な旋律、神子の歌声。
 それらは、“恋情”と一口に片付けられるような判りやすいものではない。
 また、“恋情”と呼ぶには、些か、淡いものでありすぎる。
 “恋”にしては、強く求める熱も、執着する湿度も、ひどく足りないのだ。

 「わたくしは確かに神子を好いておりました。今でも、神子を好いております。が、果たして、それが恋かと問われれば―――わたくしには、判らないのです」

 共に戦った八葉の一人を伴って、神子は、異界へ還された。
 それを見送ったときも、またそのときを思い返す今も、永泉の中に、嫉妬のような狂おしい思いは生まれない。
 互いの人生においてほんのひと時、触れ合ったという縁。
 その一期が総てであり、また、互いに“一期”でなければならないものだった―――そう、思う。

 「ふと思い出したときに、かのひとの幸いを祈り、寿ぎたいと思うのです。また、その健やかで幸いであることをどこかで確信するのです。おこがましく、可笑しなものでございましょう……?」

 はたして、そんな“恋”があるだろうか。
 はにかむように目を逸らした永泉に、老僧は穏やかに目を眇め―――やがて、永泉の前で平伏した。

 「あ、あの…?」
 「いやはや、それはもう―――…恋などと下世話なものではございません。とうに、恋を飛び越えておりましょう。拙僧としたことが、恐れ入りましてございます」
 「!?」

 それは、尊ぶべき美しい魂魄の繋がり。
 御室の御子と龍の姫神子―――いずれも、神の斎く者同士の。
 花(さくら)が花(さくら)であることが自明であるように、美しい魂はその所在を互いに知っている。
 “人”が踏み込めない、最早、神の領域での魂の交歓とでも言うべきか―――世界を違えても、二つの魂は繋がり、分かりあえる。
 自覚なしに、自明の理の中で互いを知っている。

 ―――時、恰も水無月。

 湿度の少ない空気。
 風は、どこか五月の風に似て若草の薫りさえ纏っていて。

 「―――善(よ)き哉(かな)、善き哉」

 老僧の快活な笑い声が響き、吹き抜ける風と共に御室の木々の緑を揺らした。



Fin.

 恋よりも、尊く根源的な繋がり。

 永泉さんに流れた年月とあかねさんに流れた年月が同じ長さかどうかはわからない。でも、丁度そのころ、あかねさんは一緒に帰った八葉さんと結婚式を挙げていたりして(笑)。
 そんな、永泉さんとあかねさん。

 暦の違いはこの際目をつぶってやってください。