海 の 青 さ も  空 の 青 さ も




 あの坂を上れば―――…
 あの山を越えれば―――…
 何度も何度も自分に言い聞かせて上り坂を一歩一歩進んでいく。
 きっと人生は、そんなふうにゆっくりと歩き続けること。

 やがて上り坂の天辺で大地が途切れとき、眼前に海の青と空の青とが広がっているように。その大きすぎる双色の青と踏みしめる大地との間(はざま)で小さな自分の存在を、頼りなくも愛おしく思いながら。大きな青をこの両腕で抱き締める―――そんな瞬間に、きっと誰もが焦がれている。
 青は、夢に見る憧れの色。
 届かぬところから、私たちを抱き締めてくれる優しい色。

◇ ◇

 「ねぇ千歳」
 「何かしら」
 「私達、まだたったの15、6でしょう?」
 「まだ、じゃないわ。もう、よ。そろそろ立派な嫁遅れだわ」
 「そういうことじゃないの~」
 唐菓子を飲み下しながら白い龍の娘がじれったそうに足をばたつかせ、貴女って時々童みたいにお行儀が悪いわ、と黒い龍の娘が綺麗な細い指でそっと唐菓子を一つつまむ。
 「あのね。千歳はね……千歳の力はね、耐えることを司るんだと思うの」
 「耐えること?」
 「そう。千歳に八葉がいないのも、そのためだと思うわ」
 「どういうこと?」
 「ふふふ。だって私は我慢したりじっと耐えるのって苦手だもん」
 「それはよく知っているけど………」
 もっと分かるようにおっしゃい。と、千歳が花梨の手をきゅっと抓ると、花梨のほうは、きゃっと笑って千歳の長い黒髪の先を弄ったりする。
 「もう怒らないでよ。お姫様っ」
 「怒ってなんかいないわ」
 「あのね、千歳」
 「なぁに。花梨」
 「八葉は白龍の神子を守るために」
 「ええ」
 「じゃぁ、白龍の神子は、誰のために居るのだと思う?」
 「あら白龍のためよ」
 「ちがうのっ」
 「さっきから堂々巡りね、花梨は」
 そんな言葉とは裏腹に穏やかに微笑う千歳に見蕩れ、やっぱり千歳って綺麗なお姫様だわ、と花梨は溜息を吐く。あら貴女は花のように可愛らしいわ、お転婆ですけれど。とやはり綺麗に微笑う千歳を見詰めて、花梨はきゅっと唇を噛む。
 「白龍の神子は、黒龍の神子のために居るの」
 「―――?」
 「だって千歳は、踏ん張って頑張って耐えることができる。たった一人でも」
 「―――」
 「それに引き換え、私ができるのは飛び込むこと、前に進むこと。辛い時は周りの人に助けて支えてもらわなければ乗り越えていけないの」
 「私にはできないわ。飛び込むことなんてとても」
 「―――だから、だよ。千歳のために、私が居るの」
 「?」
 「私が手を引っ張って、背中を押して、千歳を連れ出すの」
 「―――」
 「私、貴女が新しい場所へ踏み出すキッカケになら、なれるもの」
 「花梨…」
 「海の青さも、空の青さも、千歳に見せてあげたい」
 まぁ、と口元に手を当ててお姫様はお上品に吃驚してみせてくれる。
 「あのね、私たちは、毎日ゆっくり歩いているの。15歳とか16歳は、まだ人生の上り坂の最初のところにしか足を踏み入れていないの。でも、いつか海の青と空の青をいっぺんに抱き締められる光景に出会えるの」
 「―――なんだか素敵ね」
 「素敵でしょう?」
 美しく整えられた庭を眺めながら、千歳はそっと目を伏せる。花梨も黙って庭に目を遣る。
 屋内には陽光は入らない。
 劇場でスクリーンを眺めているみたいに、明るく浮き立っている美しい庭。それは、輝く陽光を集めて切り取られた一枚の光景。空も海もない、一枚の世界。その綺麗な箱庭を、この暗がりから見詰める綺麗な綺麗なお姫様。
 「ね。千歳…」

  ………一緒に行こうよ。

 窺うように、念を押すように呟けば、綺麗な黒髪のお姫様は横顔のまま。
 「………」
 それは、ほんの少し息が詰まる時間。
 年頃の娘が二人いるのに酷く静かで行き止まりみたいな空間で、花梨は息を止めたままその綺麗なお姫様の横顔を見詰める。
 「―――私、海を見たことがないの。近江の淡海すら見たことがないわ。 多分、貴女の言ういっぱいに広がる空も………見たことが無いわ」
 やはり横顔のまま、黒髪のお姫様は静かに口を開いた。
 「この足で大地を踏みしめて、たくさん歩いたことすらないの」
 「―――」
 「そんな私を………貴女は連れて行ってくれるの?」
 「!」
 「貴女と一緒なら、何処へでも踏み出せそう」
 ぱぁっと陽光が映ろい零れるような笑顔を見せる花梨を、やはり眩しそうに千歳は見詰める。
 「貴女と居て、わかったの」
 「なぁに?」
 「私たちは、絶望するには若すぎるんだって」
 15、6は嫁遅れだけれど。
 「・・・・・・・・・」
 「絶望、という行為は望みが絶たれるほど全てをやり尽くした人にしか、許されない行為だから」
 「―――千歳」
 聡明な瞳の色で、光が踊るような庭に目を遣り千歳は、小さく呟く。そう―――私たちは絶望するには若すぎる、と。京の民の絶望に染まりそれを支持し加速させた咎を、胸の痛みで確認しながら。本当は、人も京も流るる水の如く変幻自在に状況にあわせて形を変え生き永らえる―――そんな強かさを諦めてはならなかったのだ。たいしたこともせずに絶望するなんて、そんなお手軽なことは誰にも赦されていないのだと、今傍らに居る陽だまりのようなもう一人の神子が気付かせてくれた。
 「耐えてじっとして、待っているだけじゃ人生は詰まらないわ」
 終わりを大人しく待つだけなんて、ひどく味気ない人生に思えて。そう思ったら、途端に肩が軽くなって。
 自分にしては酷く思慮の足りない決心をしてみたりする。本当に、人生ってわからないもの。
 「………なんだか千歳、お姫様なのにお姫様じゃないみたい」
 「誰のせいだと思っているの?」
 「?」
 「貴女って時々信じられないくらい鈍感ね」
 だけど。と、千歳は淡く微笑する。
 「この世界の淡海も見たことがない私が、一足飛びに異世界の海を見て空を抱き締めるなんて、そんな突拍子もないこと一度くらいやってみたいわ。一生のうちに一度くらいは」
 「千歳、強くてかっこいい」
 「あら、貴女のほうが強くて優しくてキラキラしていて愛しいわ」
 千歳の言葉に目元を仄かに朱く染め
 「わたしのほうが千歳のこと大好きなんだからっ!」
と花梨は大きく手を広げる。このくらい!と計れもしない想いの丈を見せようとして。
 そうして、房室に入りそびれている人影に、千歳は声をかける。口元は淡く綻ばせつつも挑戦的な目を向けて
 「そういうことですから。兄上、わたくしもご一緒させて頂きますわ」

 ―――花梨の世界へ。

 言外に、この花のように可愛らしい親友を幸せにしなかったら承知いたしませんと、刺々しい思いを滲ませながら。
 「あ、勝真さん来てたの?」
 「あ…ああ」
 「ね。千歳も一緒に来てくれるって!」
 そ、そうなのか?と吃り語尾が上がった人の表情など見ることなしに、三人で海に行こうね、山にも行こうね、ドライブしようね、電車にも乗ろうね、と朗らかに笑い、花梨は二人を引き寄せて抱き締める。二人分の肩は広すぎてとても腕は回らないけれど、気持ちだけはがっしりと。精一杯、二人を抱き締める。
「わたし凄く嬉しいの…千歳大好き! 勝真さん大好きだよ!」
 先に大好きと言ってもらえた千歳はそっと目を伏せて小さく笑い、最愛の女(ひと)に「も」大好きと言われた兄は小さく溜息を吐き
 「おう! 千歳だって俺が幸せにしてやる」
 「わたくしのことは結構ですわ」
 ぎこちなく発した兄の言葉は呆気なく、最愛の女の大好きな人であるらしい、自分の妹姫に、ぴしゃりと却下された。
 兄上にそんな甲斐性があるもんですか、と。駄目押しの一言が付け加えられて。

◇ ◇

 房室をふわりと吹き抜けた風に、花梨は目をとめる。
 風は空と海の間で生まれるもの。きっと生まれたての風は青い色をしている。
 長い人生には、急峻な上り坂もあれば断崖のようなところもあって、山肌の上で小さな黒い点でしかない自分たちは、青のない、緑と土の色を瞳にうつし、繰り返し歩を進めていく。飽いて道端の花に目を遣り、あるいは、小さな生き物を目で追い、見上げれば葉や枝々の隙間から見える僅かな青。
 空は海の青を映し海は空の青を映し、届かぬところから私たちを見守り育んでくれる。
 青は、夢に見る憧れの色。
 だからこそ、一瞬であったとしても、やがてあの―――大きな青を抱き締める瞬間に心躍らせる。
 海の見えない空の見えない切り取られた一枚の風景しか見えない場所から、この綺麗なお姫様は「連れ出されてもいい」と言ってくれた!
 そのことが酷く嬉しくて。
 海の青さも空の青さも腕をいっぱいに広げて抱き締める、そんなふうに、二人を―――得がたい大切な二人を、花梨はまたぎゅうっと抱き締めた。


Fin.


 ある日の平兄妹と花梨姫。捏造千歳ED的勝真ED。ザネさんの扱いがひどくてゴメン。