それは、きっと―――彼の、彼だけのカラフルな世界。


◇ ◇

 「―――斯様な薄着では身体に障る」
 「!」
 北山の庵の一隅(いちぐう)。そこは、よく日の当たる縁。小さな庭に臨む暖かい場所は、花梨の特等席。
 声の主のほうをゆっくり振り仰ぐと、眉をひそめた“夫”がつったっていた。
 「あの…大丈夫です。ここはお日様があったかいから」
 庭の白い色が斑になり、ところどころ淡い緑が覗いている―――この地に残った花梨にとって二度目の春が訪れようとしていた。

 「熱は下がったとはいえ、まだ咳が残っている。油断するな」
 帰宅早々小言をはじめた夫に、花梨はにこにこと笑って
 「お帰りなさい、あなた」
と声をかける。
 すると彼のほうは、はっと口を噤み淡く目許を染めてしまった。それから随分間を置いて、おずおずと呟く。
 「―――今戻った…」
どうしてだか、少し口篭りながら。

 ここに共に暮らすようになってそろそろ一年。季節が一巡りしたというのに、彼は“夫”という身分にどうも慣れない。一人暮らし歴が尋常でない長さであるためか、彼なりに調子が狂ったりするものらしい。
 何が引き金なのかは花梨にもよく分からないが、ふいに柱の角に足の小指をぶつけて蹲っていたり、上がり框に脛を強かにぶつけて涙目になっていたりするので、この環境の変化に大いに戸惑っているらしいことはよくよく花梨のほうも承知している。
 卒がないように見えて、実際は随分不器用なひとなのだ。
 “急激な変化”と“はじめての事態”には殊更弱いらしい。
 
 ここに来てからのあれこれを思い返し、つい噴出してしまうと、今度は、酷く気遣わしげに花梨の纏う気を見詰てきた。
 それは、彼のいつもの癖―――その仕草に、花梨はふっと困ったような表情(かお)になる。
 本当はほんの少し切なくて胸が痛いのだけれど、どうしてよいのかわからなくて、そんな表情(かお)になってしまう。

 花梨が笑ったり泣いたり怒ったりするたびに、彼はすっと目を眇めて花梨が纏う気を見詰めてくる。表情や言葉から判断するだけでは心許無い様子で。懸命に花梨の思いを読み取ろうとする。その、いじらしいくらいの懸命さが花梨にはいつも切なかった。
 理由はわかっている。
 あるとき気付いてしまった。
 でも、それを決して口にはしない。
 「もう―――心配性なんだから…わたしは結構丈夫なほうなんですよ?」
 胸に起こる微かな痛みを気取られぬように、花梨は柔らかく笑って手を伸ばす―――これもいつものこと。あの仕草をされると、花梨のほうは、彼のことをただ抱き締めたくなった。
 けれども、伸ばした手はさっと取られ、身体を引き寄せられる。
 柔らかく、でも強引に。
 「指先もこんなに冷たいではないか―――」
 そうして。
 そのまま彼の懐深くに抱き込まれる―――あたかも、真綿で包(くる)むような優しさで。

◇ ◇

 発せられた言葉とウラハラな感情であったとしても、人が抱く想いの色を彼はきちんと見分けることができる。花梨がそれを問いただしたわけではない。けれど、彼の言葉の端々からなんとなく判ることだった。
 元気なときは、「神子の気は、清浄にして淡い陽光の色」と判じられたり、落ち込んでいるときは「露草の藍に似た静かに沈む色。濁(だく)を生ずるほど思い悩むならばわたしに言え。今は澄んだ色だからまだよいが…」と判じられたり。
 彼はしばしば人の気持ちを色に置き換えた。
 それは、彼の視界の色。
 まるで、感情のカラーパレット。
 長い経験の中で彼が獲得した膨大な「色ファイル」のような記憶。

 「花梨、一昨日まで臥せっていたのだ。せめてもう二枚余分に羽織れ。ぶり返したら―――」
 尚も小言を続けようとするその人の唇に花梨はそっと人差し指を充てて、彼の目を覗き込む。
 「泰継さんが、あったかいから大丈夫です」
 先程からすっかり彼の腕の中なのだ。このままで十分温かい。
 愛しいやら可笑しいやらで、花梨は淡く目許を和ませる。
 「ね、泰継さん―――」
 「?」
 「泰継さんのまわりは、今、あったかい色でいっぱいですか?」
 「―――……」

 (ああ、また―――)

 意図が掴めないままぱちぱちと瞬きをしたあとで、彼は、矢張りあの仕草をした。
 何気ない彼のその仕草は、ちょっと可愛い―――初めは暢気にそんなことを思っていたのだ。けれど、あるときふと気づいてしまった。
 “普通の人”ならば、こんなに懸命になって事細かな感情を読み取ろうとはしないことに。
 “人ではない生まれだから”という線引きが、きっと彼にそうさせてきた。
 “解らなくて当然のこと”を、彼は一生懸命に“解ろう”とする。
 “知ろう”とする。
 答などないのに、それを“読み取ろう”とする。
 まるで指の間から零れ落ちる砂を必死で掴もうとする―――そんな空疎な作業に似て。
 何気ない仕草にあらわれる“懸命さ”は、“人ではない”出自故のいじらしさ。それはそのまま、彼が無意識に引いてしまった“境界線”であり、彼が黙って受け入れ耐えてきたたくさんの傷痕に違いなかった。

 そう気づいたとき、花梨は堪らなくなった。

 人の心の機微など誰にわかるものでもない。分からないままでいいのだと、そう正す事も咎めることも、何故だかできなかった。
 彼の長い孤独の前に、どんな言葉も意味をなさないように思えた。
 そうしていつも、何も言えないまま花梨は手を伸ばした。
 “人ではないモノ”として長く生かされてきた彼の、その些細な仕草が齎す哀しみのままに、だだ、彼のことを抱き締めたくなったから。
 今も、そう。
 彼の腕にとらわれているけれど、本当は、彼のことを抱き締めたい。
 彼の唇に押し当てていた人差し指そっとを外し、花梨は、また問いかける。

 「わたしは―――…泰継さんにどんな色をあげられていますか?」

◇ ◇

 言葉にすると、途端に軽いものなってしまうように思えて、口にするのが躊躇われる。言葉にするだけで全てを伝えられるようなそんな輪郭のはっきりしたものではないし、一瞬で消えてしまう言葉に載せるには彼の存在も長い孤独も複雑すぎる。
 だからこそ―――

 毎日の眼差し。
 小さな会話。
 おはようのキス。
 抱き合ったときに伝わる心音、温もり、肌に触れる息づかい。
 共有する心地よい沈黙、穏やかな眠り。

 そんな他愛ない日々の繰り返しだけが、きっと、彼の視界を染め上げる。
 ゆっくりと時間をかけて。
 そういうふうにしか伝えられないことだって、確かにある。

 “わたしはただ、貴方、といういのちを愛しています”

 そのシンプルでいて複雑な想いは、彼の目にいったいどんな色で映っているのだろう。
 そして、花梨の知らないその色が、いつか、彼の意識の奥底にある境界線を融かしてしまえたらいい―――花梨はそう、切に願う。

 「―――花梨」

 少し掠れた声。
 向けられた強い視線。
 絡めた指。
 それから―――どちらからともなく重ねらた唇。

 「――――――っ」

 やがて深くなったその口吻けが、きっと彼の答え。
 哀しみも、悲しみも、愛しみも。
 彼が捉えたたくさんの想いの色、彼のナナイロ―――それが、深く巧みな口吻けになって花梨に伝えられた。



Fin.


泰明さんも泰継さんも「気」をみるひと。
特に泰継さんには、長い歴史がある。
そうしたら、彼独自の「人の感情のカラーパレット」なんてものがあったら面白いな、、、なんて思ってました。
美しくないものだってたくさん視てきただろうけれど、花梨と一緒に居られるようになったら、あったかくて綺麗な色がどんどん増える毎日―――そうしたら、人の想いの色を知っている継さんの世界はカラフルで楽しい…かもしれない。
泰継さんの薄倖設定が醸し出す“切ない”ところを、優しい花梨がそぉっと抱き締めてあげる。そんな継花が大好きです。

というわけで、お題:『Colorful』をチョイス。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました…!

* 企画[神仙に冴ゆる月]様に提出したもの