三月に降るのは、名残り雪。 銀色の雲間から時折陽が射すものの、その日、朝から粉雪が降り続いていた。 冬の忘れ形見のようなその雪は、とても穏やかで儚い“水気”を纏っている。このまま降り続いても、地上に積もることはないのだろう。 過ぎてゆく時間のことを見送ってしまえば誰もが忘れてゆくのに似て、冬の名残りの粉雪は、泰継の掌の上でさらりと消え去ってしまう。 “名残り雪”とは、そんなものだ。 泰継のほうが待ち合わせに早く来てしまうのは、いつものこと。 実のところ、ただぼんやりと花梨を待つ時間は嫌いではなかった。 以前―――神子という存在に出会う以前の自分ならば、そんな無為の時間を好ましく思うことはなかっただろう。 所在ない思いをしたこともない。 何もせずただ人波を眺めて、花梨がやってくるのを待つ。 少しでも早く会いたいとか、少しでも近くで待っていたいとか、突き詰めてしまえば、そんな他愛のない理由。 そんな他愛のない理由のために、この無為の時間を好ましいと捉えている。泰継自身にとっても、それは意外なことだった。 けれど。 泰継の姿を見つけて嬉しそうに笑って手を振ってくれたとき。 それから、一心に走ってきてくれるとき。 弾む息のまま泰継を見上げ、はにかむようにまた笑ってくれたとき。 待ち合わせの度に繰り返される花梨のその表情が、なぜだか、異界での雪の日のことを泰継に思い起こさせた。 今でも鮮明に蘇る、それは強烈に焼き付いた雪の日の柔らかな温もり。 寂しいという感情を融かすものが触れる手の温もりであり、確かに向けられた温かい心なのだ、ということ。言葉よりも雄弁に語るその温もりを、初めて教えてくれたのが花梨だった。 (―――…) 僅かに風が変わり、粉雪がふらふらと泰継の掌を逸れていく。 人波の向こう。 雑多な気の中にあっても一際奇麗に視えるから、すぐに判った。 見つけるのはいつも泰継のほうが先。 それから数拍置いて、花梨が気づく。 遠くから目をあわせ、花が咲くように笑う。 「!」 その瞬間が、泰継にとってはこの上もなくいとおしかった。 人波をすり抜けて走ってくる小さな体。 ただ、泰継の許に向かって。 「ご、ごめんなさい。またわたし泰継さんのこと―――」 “待たせちゃった”という言葉は、駆け寄ってきた花梨ごと抱きこんでしまう。 「気にするな、お前より少し早くここに着いただけだ」 息を弾ませたまま泰継に囚われてしまった花梨は、腕の中で“うぎゃっ”とか“ふぎゃっ”とか声にならない声を挙げて酷く狼狽え、 「あ、あ、あの、でも」 「?」 「泰継さん、ほんとはずっと長い時間待っていてくれたんでしょう?」 「―――…」 「だって、上着がこんなに冷たいよ」 「お前が気にするほどの時間ではない。それに、お前を待つことは苦ではない」 「だめですよ。上着だけじゃありません。髪も、ほっぺもこんなに冷たいもの。寒いのに遅くなってごめんなさい。どっかであったかいお茶を飲みましょう」 本当は、待ち合わせの時間に花梨は決して遅れてきてはいない。学校帰り、そのまま急いで此処に向かってくれたのだろう。 早く来てしまったのは泰継のほうなのだ。 ただ、少しでも早く会いたかっただけ。 ただ、少しでも近くで待っていたかっただけ。 けれど、それを口にしなくてもきっと花梨は気づいているのだろう。 「あ、わたし、ホットチョコレートが飲みたいなぁ。マシュマロもつけてくれるところがいいな。だからほら、前に一緒に行ったことがあるあのカフェなんてどうですか?」 こうやって、彼女はいつも、その優しい気遣いを他愛のない我儘で包んで投げかけてくるのだから。 「――…ね?」 そう促されてただ頷くと花梨はまた笑った。ぱっと陽が射すように。 やがて身を翻し、泰継の腕をぐいとひっぱってきた。今にも走り出しそうな勢いで。 「…花梨?」 「寒いから、早く!」 「!」 ほんの瞬きのうちの出来事。 冬の名残りの寒空の下で、小さな風が生まれた。 その風の只中―――泰継の目に映るのは、過ぎてゆく灰色の街並、冬色の人波。 未だ冬色の景色の中駆けていくのは、春の花、蒲公英に似た花梨。 空から降る名残り雪を優しく融かし、また空へと還してやりながら。 (ああ、いつもそうだった) ただ待つのではなく自ら春を迎えに行く―――花梨は、そんな娘だ。 だから、自分はこんなにもこの娘に惹かれるのだ。 「か、花梨、今日はお前に渡したいものがある」 「?」 引きずられるように走りながらやっとそう告げると、花梨がキョトンとした表情で振り返る。 やがて一人合点がいったのか、見る間に頬を赤らめて泰継から目を逸らしてしまった。 (……今更照れる必要もないだろうに) 3月14日、今日この日の待ち合わせの意味を。 そもそも一月前に気合の篭った“本命チョコ”とやらを渡してくれたのは花梨のほうなのだから。 ますます走る速度を上げた花梨に引きずられながら、泰継は気づかれないようにそっと笑う。 近くから見ていても、やはり華奢な背中。 弾む白い息、少々騒がしいくらいの足音。 繋いでいる小さな手が伝える、その体温。 それは、泰継を泰継たらしめる唯一の存在。 無為と思える時間さえも淡く彩られる―――そんなささやかな幸福を、花梨に出会うまで自分は何も知らなかったのだ。 孤独の中で過ぎていった沢山の時間は、現在(いま)の幸福の下に静かに塗りこめられていく。 だから、これを渡すときは「ありがとう」という言葉を添えよう。 傍に居てくれること。 傍に居ることを許してくれたこと。 つい一月前にも、心は此処に在るのだと、飽かずに伝えてくれたこと。 言葉で、眼差しで、触れる温もりで柔らかく彩られる時間。 彼女が与えてくれる、その総てに対して。 Fin. 泰継さん、なーにーをプレゼントに選んだんでしょーねー(うふふ)。 長い時間をただ待ち続けた泰継さんには、季節が巡るのをただ待つのではなくこっちから季節を迎えに行くような神子だった花梨嬢のことがとても眩しい存在。好きとか愛してるとかよりも、もっと本能的なところで、その眩しさに惹かれているといい。 お題「ありがとう」をチョイスして、室生犀星の『三月』という作品をモチーフに、3月14日の継花のヒトコマをお届け。 すっかりデレた泰継殿なのですが、クールで無表情な外見のまま、花梨嬢には心底メロメロでデレデレなアイツがいいと、わたしは思うのですよ! 花梨嬢に、ぐいぐいひっぱられて幸せになってしまえ! デレ継、ばんざーい! ここまで読んでくださった神子様、最後までお付き合いくださりありがとうございました…!(多謝) それから、大変遅刻で相済みませんでした! 「バレンタイン企画2008 春風にそよぐ花」様に捧げます。 * というわけで、安倍神子VD&WD企画さんに提出したものでした。 |