(―――…) 差し込む日の光に薄っすらと瞼を開け、身に寄り添う小さな温もりに気づく。 それから数拍置いてはっと起き上がったとき、頼忠は本気で狼狽えた。 (―――こ、これは不味い…) 目にうつるのは、からくれなゐの色ばかり。 緋色、紅色、それから血の色。 自分の居室がまるで心中現場のような有様になっていた。 血まみれの衣やサラシが無造作に脱ぎ捨てられ、床(とこ)や板壁にも血痕が付いている。 そこに、ほぼ全裸で横たわる男女(それは自分達のことなのだが)。 女が纏っていた衣の緋色の紐が妙に鮮やかに目に飛び込んでくる。 その肌は白く血の気がない。 ただ、艶(なまめ)かしい紅色の痕がたくさんつけられている。 はっきり言って、いわゆる「典型的な心中現場」だ。 この世の名残にと激しく睦みあった後で心中に及んだかのような。 おそらく「凄惨な」と形容しても差し支えないくらいの。 その上、心中の相手―――否、腕に抱えているのは―――肌も露にされた神子。 その柔肌には件の紅色の痕だけでなく、痛々しく痣になっている箇所まであり、寝顔には涙の痕さえ残っている。 勿論、頼忠自身、はっきりきっぱり身に覚えがある。身に覚えがあるだけに、青褪めた。 まったく手加減をせずに抱いてしまったのだ。というか、手加減など出来なかった。それ以前に、「無理矢理」コトに及んだ。 慌てて彼女の息があるのかを確かめ、確かめてから、ああ、そういえばこの小さな躰は今朝気づいた初めから温(ぬく)かった…と思い至る。 酷く狼狽えていた。 その混乱した思考のまま、頼忠はそこら辺に落ちていた着物を一枚羽織って、のそのそと起き上がる。 それから少ない身の回りの調度品を漁り、その中から洗いざらしの単を一枚取り出した。 彼女を、痛々しい姿のまま寝かせておくことが、忍びなかった。 まだ眠ったままの小さな躰をそれで包(くる)んでそっと抱き上げる。 淡く陽の射す少し暖かい場所を見つけると、頼忠は、其処に胡坐で座り込み、板壁に背をどさりと預けた。 情けないことに、立眩みがするのだ。 眉間を押さえ、深く息を吐く。 立ち上がるだけで、頭がクラクラして視界が消えそうになった。 怪我による失血のためだろう。 だいたい、止血もままならぬうちに、さんざんこのひとを抱いたのだから当然だ。 我ながら無茶苦茶なことだと思う。 いまだ眠ったままのひとを、膝の上で抱えなおす。 くたりと力のない躰。 折れてしまいそうに華奢な骨格。 簡単に傷ついてしまう柔らかな肌。 「―――神子…殿…」 そう呟いたのは、起こすためではなかった。 ただ、どうしようもなく哀しくなったのだ。 朝の淡い陽の中で今は穏やかに眠る様が、あどけなくて、痛々しくて、愛おしくて。 「―――…っ」 どうして、このか弱いひとを優しく抱いてやれなかったのだろう。 優しくて、傷つき易くて、けれどとても強くて、神々しくて。 それなのに、手を伸ばせば触れられるくらいいつも近くに自分などを置いてくれて。 優しく笑いかけてくれて。 易く触れられる距離にいつも居るからこそ、自分は、彼女に触れることを、一線を越えることを、今まで薄氷を踏む思いで堪えてきたというのに。 頼忠は、力のない小さな躰を懐に深く深く抱き締めた。 壊してしまわぬようにと、気遣いながら。 (―――!) 懐深く抱き締めていると、腕の中で、花梨が身じろぎをした。 瞼は閉じたまま、けれど、長い睫毛が震える。 「神子…殿…?」 「…あ…より…ただ…さ…?」 眼差しはまだぼんやりとしていて、舌の回らぬ口調。 この状況を飲み込めていないのかもしれない。 かけるべき言葉を探し、逡巡し、躊躇いながら頼忠は訊ねる。 「…寒くは、ございませんか…?」 「―――…」 その問いかけさえ飲みこめぬ様子で、花梨は、きょとんと小動物を思わせる瞳を瞬かせる。 それから、ゆっくり首をめぐらせて 「~~~~!!!??」 声にならない声を挙げて驚き、見る間に頬を紅くして、頼忠の腕の中で身を固くした。 「――っ申し訳ございません」 謝ったところでそれは無為の言葉なのだが、頼忠には、それ以外の言葉が見つからない。 花梨のほうは、頼忠の胸に顔を埋めて固まったまま動かない。 動かないまま、耳朶が紅く染まり、鼓動が物凄い勢いで早くなる。 互いに気まずい沈黙が続いた後で、消え入るような声で花梨が呟いた。 頼忠の羽織る着物の端をぎゅっと握りこんで。 「―――こ、怖かったです。とても」 「申し訳ございませんでした」 頼忠は、やはり無為の言葉しか出てこない。 今更詫びてもどうしようもないことなのだ。 「いろいろ順番が滅茶苦茶だと思います」 「はい…」 「体中が…痛い、です」 「っ…すみません…」 「死ぬかと思いました」 「っ……」 「頼忠さんが気を失って倒れたとき、わたし、死ぬかと思いました。怖ろしくて、悲しくて、どうしようもなくて」 「!?」 「頼忠さんの傷。血が止まらなくて、夢中で符をかざしました」 「!!」 (―――我ながら、情けないにも程がある) そこで初めて頼忠は、気付いたのだ。 紋様が消えて効力を失った符が床(とこ)に何枚も落ちていることに。 それから、左肩と左大腿部に負った傷がほとんどふさがっている事に。 「貴女というひとは―――…」 喉が掠れ、胸が潰れるように苦しくなる。 それ以上言葉もなく、頼忠は、腕の中のひとを強く抱き締めた。 「よ、頼忠さ……っくるし…」 「っ…申し訳っ…」 「も、さっきから頼忠さん謝ってばっかりです」 「―――」 腕の中で、花梨がくすくすと笑う。 疲れと消耗は隠しようもないけれど、こんなときでも、このひとは、柔らかく可笑しそうに笑う。 「―――貴女はまだ…神子のままなのですね」 そう呟いて、頼忠は花梨の額に口吻ける。 それは、安堵と落胆の両方。どちらかというと、「落胆」のほうが大きいのかもしれない。 手折られ陵辱されても、このひとは神子のままだったのだ。 今この瞬間、この腕の中にあるというのに、彼女は龍神のものなのだ。 龍神はこのひとを手放していなかった。 すべてが終わったとき、龍神は、このひとを天へ連れ去るのだろうか。 自分が仕える為政者たちは、このひとを、自分の手の届かぬ殿上へ連れ込み囲うだろうか―――それとも、その命を奪えとでも命じてくるだろうか。 神も為政者も、頼忠にとっては同じように遠い存在だ。 どちらも気まぐれで、その手駒を取捨選択する際に酷く冷酷なのだということは共通しているようだけれど。 ぐるぐると暗い思考を巡らせながら、頼忠は思う。 ただ、このひとの意に沿わぬことになれば―――…神であろうが殿上の為政者だろうが、自分は、刺し違えるだけだ。それが大罪であったとしても、刺し違えてこのひとを護ることができれば本望だ、と。 今まで多くの者を殺めてきた。 これからも幾人殺めるのか知れない。 だから、最期くらい誰かを生かし守りたいと思った。 たった一人でいい―――このひとを守りきって死にたい。 「頼忠さん…」 「はい」 「側に居てください」 「―――…」 「わたしの手の届かないところに一人で行ってしまわないで。いつも側にいてくれなくては、嫌」 「―――…はい」 「晴れの日も、雪の日も、雨の日も、風の日も」 「?」 「―――それから、お休みの日もお勤めの日も………必ず会いに来て」 泣きたいような思いで、頼忠は、はい、と応える。 可愛い我儘だと思った。 幼くていじらしくて、哀しい我儘だ。 すべてが終った後のことまで、今はまだ互いに何も約束できない身なのだとこのひとも解っている。 だからこれは、彼女の精一杯の我儘なのだ。 京を覆っていた負の結界が大きく崩れ、季節が動き出し、雪が降った。 さらに結界を崩すと雪は穏やかに止み、やがてその雪もあらかた融けた頃、今度は季節がゆり戻されるように冬の兆しの野分けがたった。 (きっと、もうすぐ終ってしまうのだろう) こうしてこのひとの側で仕えることができる時間が。 誰に咎められることもなく、このひとを守ることができる時間が。 頼忠は、甘える幼子をあやすように花梨の髪を撫で、その額にもう一度口吻ける。 「……?」 「貴女を必ずお守りいたします」 「―――」 “この身に代えても”とは言わない。 それを口にするとこのひとは酷く悲しむのだと、学習しているから。 愛おしくその身を抱き締めて、柔らかな耳朶を喰む。 戸外では、野分けの名残りの風音。 それを耳に溜めながら、頼忠は、くすぐったいと身を竦ませた花梨に、低く囁く。 「お側にいて必ずお守りいたします―――わたしの、神子殿」 Fin. ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございました…! 読んでくださった神子様の脳内に、自動三木声チェンジャーがインストールされていることを祈る…!(す、すみませ…) そして、わたしの文章が、そのスイッチになれることを切に願う…!(ほんと、ずうずうしくてすみませ…) *以下無用の事ながら* この後頼忠は、井戸端で会った棟梁に無言で後頭部を殴られます。 「夜明けごろ心配して様子を見に行ったら、っおめぇ…」 とかボソッと言われて、ぎゃふん!となる頼忠。 そんでもって、 「昨夜(ゆんべ)の刃傷沙汰(にんじょうざた)な。事情聴取のために、これから検非違使別当殿自らお運びだってよ…此処に」 とか、ボソッと言われて、さらにぎゃふん!となる頼忠。 もう、頼忠大ピンチ! あられもないお姿の神子殿をどこに隠すのか! お召し物とかバカぢからで裂いちゃったから、どうやって神子殿を四条にお返しするのか! 紫姫のお怒りをどうかわすのか…! 前方には紫姫、後方からは幸鷹殿。 さあ、どうする、頼忠!! 棟梁は、いろいろまるっとお見通しなのさ、HAHAHA…! …などと、どうでもいいことまで妄想して楽しかったです。 しつこいですが、棟梁の声は藤原啓治さんで……(ほんと趣味丸出し) |