あ い く る し い 。




 頼忠さんは―――…おひさまの匂い。

 階で足を踏み外して転びそうになった神子を抱きとめてやったとき、そんなことを言われた。
 この腕の中で。


◇ ◇

 頼忠が、“もう一人の龍神の神子”の警護につくようになって、そろそろ一月半。
 けれど、十も歳の離れた少女の思考回路は、頼忠には一向に理解不能だった。
 不快に思ったことは決してない。
 ただ、困惑させられる局面がやたら多かった。
 思わぬところで気遣われたり優しくされたり、ほんの稀に反抗されたりして―――仏頂面なら自信があるほうだが、彼女の傍にいると、それを崩されることが非常に多いのだ。

 だいたい、歳の違いだけではない。
 そもそも彼女は異界からやってきたひとだから、「常識」として捉えているものが少し、いや、随分違う。
 そのうえ、龍の神に選ばれたという稀有な存在。
 源の姓を賜る一族とはいえ、実のところ殿上に昇る貴族でもなく、殿上人などから見れば十把一絡げというか、どこの馬の骨とも知れない出自といってもいいような頼忠からすると、彼女の存在は何から何まで違いすぎた。
 警護につくようになってからのあれこれを思い返し、頼忠は、そっと溜息を吐く。
 「主」を理解せずして従者が務まるものか―――目下頼忠の悩みはそこにある。

 「―――頼忠さん、今晩は」
 「!」

 そっと呼びかける小さな声。
 庭からはっと振り仰ぐと、その悩みの種がニコニコと笑って立っている。
 こんな夜更けに。
 しかも―――

 「神子殿、そのようなお姿で表に出てきてはなりません」
 「え…寒いからこれ羽織ってきたんですけど、それでもダメなんですか?」
 「いけません―――そのお姿は、夜着のままとかわりございません」

 習慣の違いに彼女はいまだ慣れない。
 単姿でふらふら出てこられて始めこそ目のやり場に困った頼忠だったのだが、いい加減慣れてしまった。というか、慣れなければこの神子殿の警護など務まらぬと悟って無理矢理慣れたふりをしている。
 白状すれば、襟もとや首筋のあたりとか、裾からのぞく白い脚やら、柔らかそうな胸の膨らみあたりに、毎回、目がいってしまうのだけれど。
 そんなことは、頼忠、鉄の意志で、おくびにも出さない。

 「今羽織っておられるものよりも少し厚手のものはお持ちではありませんか? そのままでは、お風邪を召してしまわれます。せめて…何かもう一枚羽織て出られませ」
 「あ…―――はい」

 神子が、大人しく頼忠の言に従って自室に戻っていく。

 「頼忠さん…なんだか最近、深苑くんみたいです」
 「!?」

 などと、可笑しそうに微笑いながら。

◇ ◇

 「あのね、この前怨霊を封じたほんのお礼にって、偉いひとがお菓子をくれたんです。彰紋くんと泉水さんが一緒に持ってきてくれたから、、、院なのか帝なのか、どっちかわからないんですけど」

 羽織りものを増やしてから、そろそろとまた現われた神子は、屈託のない様子で頼忠に話しはじめる。

 「寝しなに甘いものを食べると太っちゃうけど、ちょっとくらいならいいかな、と思って…」

 袂をさぐって小さな紙包みを取り出し、留めてあった紐を解いて広げる。

 「―――それで、これ、こっそり食べようと思ったら、外に―――」

 と、そこで彼女の目が頼忠の目をとらえる。

 「頼忠さんが居ることを思い出して、一人占めするより頼忠さんと一緒に食べたいなって思いました」
 「………」

 包みの中には、紅梅と白梅をかたどった小さな干菓子がいくつも入っている。
 砂糖は贅沢品だ。
 このように上白のものとなると、尚更。
 屈託なく笑いながら、はい、手を出してください、と言われたところで、頼忠ははっと我に返る。

 「神子殿…―――私には勿体無い。せめて紫姫と召し上がられては…」
 「あ、頼忠さん甘いものは苦手ですか?」
 「いえ…」

 苦手も何も、頼忠はあまり口にしたことがなかった。
 祝い事や上からの特別な下さりものがあったときに口にする程度。
 そのくらい、砂糖というのは庶民から縁遠いものだ。

 「大丈夫なら、是非一緒に食べてください。紫姫とも一緒に食べました。お世話になっている淡路さんと駒野さんにもおすそ分けしました。あと、いつもいつも一緒にいるのに一緒に食べてないのは、頼忠さんだけだったから…」

 そのあいくるしい笑顔を前に、頼忠はどうも頭が痛くなる。
 とにかく、このように「主」に気遣われることに慣れていない。
 どうしたらよいのか皆目わからない。
 ね、と可愛らしく小首を傾げられて、頼忠はさらにたじろぐ。

 「は…では、ありがたく…頂戴いたします…」

 すっかり面食らって思考することを放棄した頼忠は、おずおずと手を出してしまうと、

 (!!)

 さらに面食らうことになる。
 菓子を一つ一つ丁寧に渡しながら、小さな手が、手甲をつけたままの頼忠の無骨な手にふわりと添えられたものだから。

 記憶を手繰っても―――こういうあいくるしい小動物、いや、こういう年頃というか少し幼い雰囲気の娘や、幼子たちに懐かれた例はない。
 河内にいたころは年下の兄弟の面倒などもみていたが。
 京に上ってからは、尚更。
 常に殺気を帯びているような暮らしだから、むしろ、子供に近寄れば泣かれるぐらいのほうが多いと思う。

 「ね、美味しいでしょ」
 「ッはい…」
 「美味しいものは、独り占めしないで、仲良しと一緒に食べるともっと美味しいからわけっこしなさい、ってよく母と祖母が」

 ふふふっと笑いながら楽しそうにして、彼女の話はとりとめもない。
 信じがたいことなのだが、頼忠とて自覚せざるを得ない。
 また、自分がそれをどう捉えるべきなのかまったく混乱したままであるということも。

 (どうも自分は―――…この神子殿に懐かれているらしい)

 頂戴した干菓子を齧りながら、頼忠の眉間にさらにシワが寄った。

◇ ◇

 そうして―――頼忠をさらに混乱に陥れる決定的な事態が起こった。
 それも、なんのことはない。
 いつものように龍神の神子の警護についている日常の中の出来事。
 ほんの些細なこと、で終るはずだったというのに。

 よく磨かれた廊板に滑ったのか階の段を踏み外したのかは定かでない。
 頼忠の目の前で、神子がこの庭先に転げ落ちそうになったものだから

 「ッ―――お怪我はありませんか?」

 あっと思ったときには体が勝手に動いていた。
 小さな躰を咄嗟に抱きとめてやると、

 「あ……おひさま。頼忠さんは―――…おひさまの匂い」
 「!?」

 腕の中に彼女を抱き締めたまま、頼忠、しばらく固まる。
 言われたことの意味が汲み取れず、けれど、その意味を探ろうと思考はフル稼働する。
 そして、やっと思い当たったのは、

 「!!…―――ご、ご無礼いたしました。その…埃っぽい身なりでございます故…」
 「そんなっ…」
 
 唐突な動作で神子の身を解放し、ばっと離れると、頼忠は片膝をたてて地に蹲る。

 「あの、頼忠さん…」
 「はっ…」

 階の上のほうから声。
 俯いたままでいる頼忠には、彼女の表情まではわからない。

 「お礼くらい、ちゃんと言わせてください」
 「?」

 はっと顔を上げると、神子がそろそろと階を降り始めたところだった。

 「…神子殿?」

 それから、階の下で蹲る頼忠の目線と同じくらいになる段に、ちょこんと腰をかけた。

 「頼忠さん、ありがとうございました」
 「…いえ…」
 「あのね、おひさまの匂いっていうのは…違うの。そうじゃなくて、頼忠さんがいつもここに居てくれるからおひさまの匂いなんですよね…」
 「???」
 「梅花の香りとは別に、頼忠さんはおひさまの匂いもするんです」
 「はぁ…」
 「だから余計にありがとうございますって言いたくなりました。ううん、ちゃんと言わないとって思いました」
 「???」
 「―――ありがとうございます。いつも」

 “いつも、傍で守ってくれて”

 そう言いいながら―――細い腕が伸びてきて、小さな手が頼忠の頬に添えられ、ふいに神子が身を寄せてきて

 ―――ちゅっ!

 「?」
 「ふふふ」

 瞬きをすれば、目の前には、いつもと同じあいくるしい笑顔。
 ―――が、どうやら。
 額に口吻け、を、された、らしい…?

 「@%$#*っ?!!」

 頼忠、あまりのことに気が動転し、得意の仏頂面もどこかへいってしまった。
 そんな頼忠を残して、あいくるしい小動物は、さっと身を翻すとその場を離れていってしまう。
 み、神子殿、とよびかけようにも声が出ない。
 当の神子殿は、姫君にあるまじきことに、ととととっと足音をたてて、そこの回廊を小走りで去ってゆく。

 頼忠がしばらくその場で呆然としていると、不意に、

 「おやおや……これはまた」
 「!!」

 背後から物凄くいやな気配が。
 昼間からそういう無駄に艶っぽい声で話しかけてくるのはあいつしかいない。
 後ろめたいので、背中だけ変な汗をかいて頼忠は硬直する。
 それでも、ぎしぎしと鉄錆びた音が出そうなくらいぎこちなく振り返ると、案の定、そこには、

 「ひすい……いつのまに」
 「不覚だよ………姫君の口吻けを頼忠ごときに奪われるとは、ね」

 至極楽しそうに笑っている―――が、目だけが笑っていないような気がする優雅な海賊。

 「ええ、まったく許しがたいことです」
 「!?」

 渡殿の方からも声。
 がばっとそちらに目をやると、其処には、眼鏡だかその奥の目だかを光らせた検非違使別当殿。
 日頃いがみ合っている割に、こういうときだけは気が合うらしい。
 老獪でわりと陰険―――この場合、最悪の部類に入るであろう組み合わせの二人に睨まれながら、頼忠の思考は目まぐるしい。

 (神子殿に懐かれている上に、、、、いや、懐かれているから遊ばれているのか……? そ、それとも―――…)

 源頼忠、26歳、独身(今まで通った女は幾人かいるが、どれも長続きせず)。
 職務上常に傍に居る、十も歳の離れた愛くるしい「主」に口吻けされたことに動転しながらも、それを美味しいことだと頭の片隅では悦に入っていることには全く自覚がない。
 けれど、このとき否が応にも覚悟させられた。

 今後―――八葉としての勤めは、ますます波乱含みになるのだろう。


Fin.

あんな可愛い子に懐かれても懐かれ慣れていない頼忠さんの、美味しいような気苦労の絶えないような、微妙な日々。
頼忠さんのほうは、神子殿に“好かれている”のを“懐かれている”とカン違い。
しかも、あんまり自覚せずに、むっつりと神子殿のことが大好きな頼忠さん。