泰継さんの背中が愛しい。
 
 いつもはしゃんとしていて隙のない背中が、ふっと無防備になる瞬間があるのを知ってる。
 それは、彼が何の気なしに空を見上げたときだ。

 朝に夕に空を見上げ、風の音を聴き、雲の流れを見て、星を読む。それが、泰継さんにとっての日常だった(きっと今でもそうだけど)。眠ることのない三月の間、泰継さんは、そうやって空に寄り添って暮らしてきた。
 そんな暮らしを気が遠くなるくらい長い間繰り返してきた泰継さんの、「癖」みたいなものが、空を見上げるときの仕草に顕れる。

 そのときの泰継さんの背中は、とても愛しい。

   ◇ ◇    
   
 「流れ星、ですか?」
 「そうだ」
 
 四条のお屋敷の、お姫様扱いされているわたしの居室に案内を通さずにふらりとやってくるのは、この泰継さんと翡翠さんくらいのもの。といっても、年が明けてしばらくして、翡翠さんは「伊予の潮風に呼ばれてしまってね」なんて気障なことを片目つぶって言いながらカッコよく去ってしまったから、今となってはもう北山のご隠居こと泰継さんしかいない。
 こんなふうにふらりと泰継さんが現れるたび、わたしの警護を未だに任されている頼忠さんを慌てさせている。
 その上、今日は彼にその気があるのかないのか微妙なところだけれど、「夜のデート」のお誘い、なのかもしれない。いやいや、わたしはそう思うことにする!
 これは、絶対、夜のデートのお誘いです!
 事前連絡なしの唐突さで、しかも雰囲気ゼロな台詞だとしても、これは立派な夜のデートのお誘いです!

 「見たい。流れ星、すごく見たいです・・・!」

 勢いこんで身を乗り出したわたしに僅かに驚き、でもその後で泰継さんは柔らかく笑ってくれた。
 
 「以前、神子・・・花梨が、こちらでも星が流れることがあるのかと訊ねただろう。ずっと気がかりだった」
 「気にしてくれていたんですか?」

 わたしのあんな小さな呟きを?
 疑問符を目で投げかけると、泰継さんは照れているようなちょっと困っているような表情をした。

 「星が降るさまをお前に見せたいと思っていたが、一番近い暦でも、晦日を過ぎてしまうものだった」
 「!」

 ああ、自惚れでなければ。
 わたしの小さな呟きのために、泰継さんは暦を繰り或いは膨大な記憶の糸を手繰りながら星の予定表をチェックしてくれた。その上、龍の神様が課したわたしのタイムリミットのことを気にかけ、そして、そのタイムリミットがなくなった今―――こんなふうに照れた表情なんかをして夜のデートに誘ってくれている。

 「すぐ、今すぐ出かけましょう・・・!」

 泰継さんのそんな一喜一憂が、なんだかとてもいとしくてうれしかった。
 うれしくてうれしくて、彼のお誘いに、是非応えたい、と思った。
 彼が差し伸べてくれた手に、わたしの手を重ねたい、と思った。
   
 あの大晦日の決戦の後、わたしたちは言葉で気持ちを伝えたけれど、どこかでまだ踏み出せないままできた。
 お互いの距離を確かめながらその距離を壊さないように壊さないようにと、大切にしてきた。
 本当はもう、とうに選び取ってしまったというのに。
 彼がわたしを引きとめ、わたしもここに残るという選択をした時点で、二人はとうに引き返せないところにきてしまったというのに。
 だから―――。
 「相手を思い遣る」ということにばかり没頭して、肝心なこと―――わたしの人生に踏み込んでくることを躊躇い続けているひとに、伝えたかった。
 大晦日に交わした言葉よりもずっと確かな方法で、何度でも。

 差し込んできた紅い陽の色が教えてくれる。
 わたしの背中を後押ししてくれる。

 星の降る夜は、もう―――すぐそこまで来ている。

◇ ◇

 わたしの勢いにびっくりしながらも、結局、泰継さんはあっさりとわたしの手をとった。
 それから、わたしを軽々と抱き上げ、お屋敷の構造を完全に無視して目的地へ向けて一直線で歩き始めた。彼は物凄く合理的な行動を好むひとだから、こんなときにきちんと門から出て行くなんていう常識には囚われない。
 気を遣って高欄の側まで下がって控えてくれていた女房さんには、「星の姫に伝えろ。神子を借り受ける」なんて言い放ち、庭先でハラハラしていたっぽい頼忠さんには「今宵神子の警護は無用」だなんてピシャンと言って―――そのまま庭に飛び降り、遣り水をひらりと飛び越え、がさがさと庭木をかきわけ、ひょいと高い塀を乗り越えて―――あっという間にお屋敷の外へ連れ出してくれた。
 
 ここの世界の恋人達は夜密かに逢うのが常識だって聞いたけれど、「密かに」というには、泰継さんの態度はあんまりにもいつもどおりで堂々としていたし、そんな泰継さんに期せずして攫われる格好になったわたしだって、「攫われる」というには、わくわくと期待に満ちた確信犯。
 誰にも行き先を告げてこなかったから、後できっと深苑くんにものすごく怒られるだろう。
 でもそうなったら、泰継さんにも一緒に怒られてもらおう。
 だって、明らかにわたしたちは共犯だもの。
 
 暮れゆく空の色が深い闇色に変わり始める。
 まだまだ外は寒い季節だ。
 でも、風は春の匂いを含んでいて、そのことがとてもわたしをときめかせた。
 春先の宵の匂いは、どうしたって生き物の心を浮き立たせる。
 生きてゆくことを決めたこの不思議のみやこでも、春はやっぱり春で。そう思ったら、もう帰ることのできなくなったあちらの世界でも、今頃は春の兆しの若芽の緑と新しい湿気を載せた風が吹いているのかしらと、ほんの少し、ほんとうにほんの少しだけ胸の奥が疼いた。

 「―――・・・花梨、寒くはないか?」
 「!」

 わたしを抱く彼の腕がちょっとだけきつくなる。
 わたしの瞳をじっと捉えている彼の視線に負けて、わたしは、彼の胸元に顔をくっつけた。
 嘘をつくのともちょっと違う。だけど、どこか後ろめたい。
 どうしたらよいのかわからなくて、だから、ただそのままぎゅっと彼に抱きついて、ぽそぽそと返事をした。

 「・・・大丈夫です。お姫様っぽい格好はものすごく厚着なんだもの」
 「―――」

 一呼吸おいて、そうか、という彼の声が伝わった。
 春風を邪魔しない、この夜に溶けるような、静かで優しい声だった。
 長い間孤独に過ごしてきたはずなのに、泰継さんは、「ただ誰かに添う」という形の優しさを身につけている。
 無理矢理踏み込まず、泰然と待つということができる。
 それは、天性のものなのか、あるいは、たくさん傷ついて覚えたことなのか、それとも―――あの、空を毎日眺めてそれに添うように暮らしてきたことで自然と身についたものなのか。
 いずれにせよ、その慎ましい優しさはきらきらと尊くて、どこかせつない。

 やがて春の宵風がふらりと揺れて、彼が何かを低く唱えはじめた。
 そっと顔をあげると、わたしたちの周りににオレンジ色のかわいい狐火がいくつも灯っていた。
 狐火はゆらゆらと動いて与えられた場所に留まると、ほんのりと温かな淡い光であたりを照らした。
 それから彼は、わたしを片手に抱きなおし、右手をすっと空にかざした。そうして、彼の奇麗な指先がひらりひらりと文字を書くように動くと―――
 
 「!」

 足元にふわんと白い毛皮みたいな絨毯が現れた。

 「泰継さん、これって・・・?」

 びっくりして訊ねると、何にも応えない彼のかわりに、その陰陽式魔法の絨毯がモゾッと動いて

 「―――神子、どうぞおみ足を・・・」
 「!!」

 しゃ、しゃべったっ・・・!!!

◇ ◇

 夜の森の、木々がぽっかり空いた広い丘の真中。
 月の無い深い闇色の中で、瞬く星はとても綺麗。
 周りには小さな狐火と、足下には不思議なしゃべる絨毯。
 そして、隣には好きなひと。

 「―――そろそろ刻限だ」

 隣にいた泰継さんがすっと立ち上がった。
 わたしはその背中を見上げる。

 「こちらでは星が流れるを凶兆ととるのが大概だ。だが、天も地もただ、あるがままの姿を見せているだけだ。水が高きより低きに流れるように、星もただ流れるさだめに従って流れているだけだ。そこに凶も吉もない。その現象を吉ととるか凶ととるかは、ひとの―――見る者の勝手な事情によるものに過ぎん。だから、お前が流れる星を見たいと言ったとき、わたしは―――」

 “嬉しかった”、と。

 それは、とても素直な言葉だった。
 あるがままの姿を周囲に受け入れられてこなかったひとの、その長い時間がぎゅっとつまったような言葉だった。

 「―――凶兆だなんて、もったいないです。流れ星はとても綺麗なのに・・・・・・」

 こちらに背を向けたまま、泰継さんは、星の瞬く深い闇色の空を見上げていた。
 空は、泰継さんにとって慣れ親しんだ、けれど、決して手の届かない存在。
 それを何の気なしに見上げるとき、泰継さんの背中はふっと無防備になる。今も、そうだった。
 手の届かない絶対の存在に焦がれながら、それに身を委ねる小さな子供みたいな…どこか頼りなく幼くて、でも、ちょっと疲れている背中。泰継さんが、そんな背中になるのは、空が相手のときだけだった。
 変わってゆくすべてのものを見送りながら生きてきた泰継さんの、大切な空。
 触れることはできないけれど、ただ、添うように傍に居る―――空に焦がれるその背中が、泰継さんと空との関係を、泰継さんの長い孤独を、抱えてきた哀しみを語っているように思えた。

 (―――ああ、なんて)  

 “いとしい”という言葉は声にはならず、それなのに、タイミングよくこちらを振り返った泰継さんと目が合ってしまった。だから思わず、どぎまぎと目線が泳いでしまったのだけれど―――

 「あ、流れました・・・! 泰継さん、余所見しちゃダメです!」
 「!」
 「お願い事をしなくちゃいけないんだから、流れ星から目を逸らしちゃだめなんです!」

 勢いに押されて律儀にまたくるりと背を向けたひとのうしろで、わたしはそぉっと立ち上がり、手を伸ばしかけて――― … でも、その背に届く前にはっと手を止めてしまった。
 彼の背中の向こうで、ひゅっと星がまたひとつ流れたのが見えたから。
 けれど、ふたりとも願い事を唱えることはできず、流れる星はあんまりにもあっという間に地平線の黒い森に吸い込まれていってしまった。
 そうして、次の星は―――と、思ったときだった。
 空のある一点の闇から、まるではじけるようにたくさんの星が流れ、幾筋もの光跡が空に描かれた。
 流れる星は一瞬強く光り、闇色の空に美しい残像をつくる。
 そんな星の軌跡が、いくつもいくつも重なって―――

 「メテオ・レイン」
 「――― ・・・?」
 「これじゃぁ、お願い事が追いつかないです…ね」

 音もなく降る星の雨の下で、わたしは笑って、さきほど止めてしまった手を伸ばし―――愛しい背中に今度こそ触れた。
 そのまま彼の背に頬を寄せて、心の中で、アイシテル、と呟く。

 ―――アイシテル、アイシテル、アイシテル。

 ただ、それだけのことを。
 ここに降る星と同じくらい、たくさんたくさん伝えたかった。
 この、愛しい背中のひとに。

 「―――泰継さん、ここでは三夜続けて通えば夫婦になれるんでしょう? じゃぁ―――三夜続けて、泰継さんに攫われたら、わたしは泰継さんのお嫁さんになれますか?」

 背中越しにそう問いかけると、彼は驚いた様子で一瞬息を止めた。
 それからほんの少しの沈黙の後で、

 「―――三夜とかからずとも、このままお前を攫えば叶えられることだ」
 「!」

 くるりとこちらに向き直った泰継さんにじっと見詰められる。
 口ほどにものを言う彼の瞳が問いかけていた。

 “攫ってもいいか?” と。

 答えなんて、とっくに決まってる。
 だから―――わたしは、一生懸命腕を伸ばした。
 彼の胸に飛び込んで、背の高いその肩に一生懸命腕を伸ばして。
 あの愛しい背中ごと彼を抱き締めるように。

 「―――・・・花梨?」
 「―――よろこんで・・・!」




 ――― ほら。
 こうやって、わたしは彼の全部を抱き締める。
 背中が語る貴方の過去も、今わたしを抱くこの温もりも、貴方ががわたしに、わたしが貴方に齎す未来も。

 ここに降る星と同じくらい、たくさん、たくさん、アイシテル。





Fin.


だれよりも空を知っている泰継さんの背中は、い・と・し・い・ぞっ☆ という妄想をお話にしてみました。でも、まさかプロポーズな話になるとは思っていなかったのよ、書き始めたときは。
ここまで読んでくださってありがとうございました…☆     

WEB企画「雨の午後、君と」に(May 21, 2009)付で投稿した作品を、少々修正しました。