闇 に 注 ぐ ひ と し ず く の 愛



 背に残る引き攣れた傷痕に細く頼りない指先が触れ、しばらくして小さな小さな吐息がこぼれるのを聴いた。
 冬の闇はしんと深く透明で、吐息がつくる波紋が視えるようだ。

 「―――・・・神子、殿?」

 ◇

 主(あるじ)と従者の関係を踏み越えてしまったのは、頼忠のほうだった。
 季節が動き京洛に幾度目かの雪が降った晩、差し伸べられた手に触れたときに何かが灼き切れてしまったように思う。
 あの雪の晩から数えてもう何度も肌を重ねている。
 いつもは頼忠が主の柔肌を胸に抱きこむようにしてその眠りを守るのだけれど、この晩、主はなぜだか頼忠の背に触れたがった。

 頼忠は、背に遠い日の罪業を負っている。
 主もそのことは知っているのだけれど、背の傷痕は未だに生々しく、こういったこととは無縁で過ごしてきたひとに直に触れさせるのが躊躇われた。
 少し逡巡したあとで、けれど、かまいません、と耳元に吐息で囁いて、抱き締めていた身体を解放する。
 こちらを見上げる碧の瞳に柔らかく目で笑いかけ、くるりと背を向けてやると、やがて恐る恐るといった態で細く頼りない指先が頼忠の古傷をなぞった。

 「頼忠さん・・・もう少し此処に居てくれますか?」

 先ほど小さな吐息をこぼしたひとは、頼忠の背の傷に触れながら、遠慮がちに問うた。
 もっと我儘に命じてくださればよいのに、とは思うけれどそれを口にはしない。主の、そういう「主」らしからぬところが慕わしく、愛しく、頼忠にはとても尊いものに思えるから。

 「お寝みになられるまで、必ずお側に居ります」

 そう答えると、うれしい、と、少し幼い、弾んだ声が背から聴こえた。
 邪気のない、かわいいひとだと思う。
 何者にも優しくて、無欲で―――・・・こんなふうに、自分のようなものに抱かれるのも厭わない。

 突き詰めてしまえば、ただ自分のものにしたかったのだ、このひとを。
 龍神に連れ去れてしまうより前に、ほんのひと時でも。
 やがて時空を隔てて別れ別れになってしまう前に、わずかな間だけでも。
 あるいは―――他の誰かのものになってしまう前に。
 そんな、底暗い気持ちで半ば強引に手折ってしまったというのに、主はどこまでも優しくて清らかで。
 それが、頼忠には哀しいことでもあった。
 遠くない未来に訪れる別離さえ、この優しいひとは優しく受け入れてしまうのではないか、と。

 「―――・・・頼忠さん、あの」

 暗い思考に囚われていた頼忠を掬い上げるように、ふわっと丸みのある声がかけられた。

 「いかがされましたか?」
 「あの、ひとつ、訊いてもいいですか?」
 「―――・・・なんなりと」
 「わたしは、まだ・・・頼忠さんの、、、、、、“死に場所”ですか?」
 「!」

 不意打ち、だった。
 背の傷痕をなぞる指先にも伝わってしまっただろう、この動揺は。
 この傷とともに生きることになってから、ずっと願ってきたことだった。
 たったひとり、主と決めたひとを守って死ねたらいい。
 嘗て、大切な人を守りきれなかったばかりか、死に追いやってしまった。
 だから―――これは願いというよりは「誓い」なのだ。
 生き続けてしまったことの代償として。
 自分の生は、誰かのために死ぬことでしか、果たされぬ。

 「―――貴女を何者からもお守りすることができれば。それが本望です」
 「・・・・・・」

 すぐに、小さな忙しない鼓動が伝わった。
 声を殺し、主が不自然な沈黙をつくっている。
 傷をなぞっていた指先は止まり、やがて―――

 「ッ神子、殿・・・?」

 背の傷に、柔らかくしっとりとした感触。
 この醜い傷痕に、尊いひとが唇を寄せたのだ、ひどく、いとおしげに。
 それから、

 「・・・・・・・何故、貴女が」

 泣いておられるのですか、と。
 背に縋りつくように震えているひとに、掠れる声で頼忠は訊ねた。
 主は声を殺していても、伝わる微かな振動が、冷たく透明な冬の闇に次々と波紋をつくる。
 この狭い場所が悲の海に満たされるよう。

 突然のくちづけも、突然の涙も、頼忠にはその理由はわからない。
 また、それを知ろうとすることを本能が畏れている。死ぬために生きるということの本質を覆すことだろうから。
 ただ、このひとを、こんな闇の底に引きずり込んで悲の涙にくれさせたのは自分の咎だ―――と、それだけは瞬時に理解していた。

 ゆっくりと身を起こし、振り返る。
 涙に濡れた碧の瞳が、こちらを見上げていた。
 零れる涙を、そっと指で拭ってやる。

 「―――貴女の涙は悲にくれていてもあたたかい」

 頼りなく背に縋っていた細い両腕をとり、褥に縫いとめるように押さえて。
 悲しみを慰める術をほかに知らないからか、それとも―――このひとの悲しみにもっと溺れたいからなのか。

 「すみません・・・・・・貴女を、もっと欲しくなりました」

 闇の中で美しく光る眦に唇を寄せ、頼忠は、そう低く囁いた。


 
Fin.

 ( まるで、堕ちてゆくような ) 

*



 お題SS(2009/08/27 up)より。再掲にあたって一部加筆修正いたしました。
 お題「闇に注ぐひとしずくの愛」は、お題サイト【恋花】さん(http://www.ccn.aitai.ne.jp/~w-seven/lf.index.html)の【夜に溶けゆく10の言葉たち】より。