そういえば幼いころ、こんな夏空を見上げたことがある。 母にいつも言われていた「他の方々の邪魔にならないように」という言葉。 それに適う場所を探してたどりついた庭の片隅でふと見上げた空がこんな青で―――情けないことに、どうしようもなく泣きたくなったのを覚えている。 夏空は高く広くのびゆくような青をして、それを彩る唐葵(立葵)の花がとても綺麗だった。 けれど夏空の青は、少しばかり―――いうなれば、どこか横暴な明るさで、空の青に負けないくらい鮮やかな花もやっぱりどこか横暴な美しさで。つまりは、目の前に広がるものの存在の強さに、幼い日の自分はすっかり打ちのめされてしまったのだ。 上背のある夏草の陰で、ちっぽけな存在である己が手を見詰めてひどく悲しくなった。 ああ、こんな小さな手では掴めない。 求めても求めても、決して届くまい。 高々と咲くあの花も、夏空の青も。 慕う母のぬくもりも。 ◇ 「泉水さんが生まれた日も、こんな空だったんでしょうか」 「―――?」 「ほら、あんなふうに、タチアオイの花が綺麗に咲いていたりして―――」 夏空を見上げて笑ったのは花梨だった。 2人で暮らす部屋の窓辺。 少し前に花梨がつるした風鈴が涼やかな音をたてて揺れ、気づけば、あの幼い日と同じように硬く握りしめた泉水の手に、花梨の手がやさしく添えられていた。 こちらの世界とあちらの世界とは暦が違う。 あちらの世界での「水無月の終わり」は、こちらの世界でのちょうど今頃―――梅雨が明け、その空に向かってタチアオイが高く咲く季節だ。 「ええ―――母も…いえ、母たちも、このような空を見たのでしょうね、きっと・・・」 実の母のことはほんとうに何も知らない。 自分を産んで間もないうちに儚くなられたということだけ聞いている。 ただ、実の母と育ての母と、同じようなときに子を産み、そして同じような夏空を見上げたことだろう。 彼女たちは、そこに何を思ったのだろう? 生まれ出づる小さき者の未来を、その幸(さいわい)を、どんなふうに思ったのだろう? こちらの世界に来て―――もう、祈ることしかできない距離をおくことになって、初めて思い至ったことがある。 ほんとうならば、取り替えられた子は、殺されてもおかしくなかったのだ、ということ。 けれど、母―――育ての母は、それをしなかったのだ、ということ。 良心の呵責か、小さき者への憐憫の情か、それとも、わずかであったとしても自分への愛情があったためか(―――それは多分に希望的観測であるとわかっているけれど泉水がどうにも捨てられない選択肢だ)。 いずれにせよ、「自分はあのひとに生かされてきた」―――捨てられるのでもなく、殺されるのでもなく。 それは、ほんとうに今頃になって分かった当たり前の、そして厳然たる事実。 哀しいかな、あの幼い日に切実に求めたものはやっぱり手に入らなかったのだけれど、生みの母と育ての母と、2人の母に生かされた結果―――自分はここに在り、そして別の大切なものを手に入れた。 たとえば、こんな夏空を、小さな窓辺から共に見上げるひとを。 空の青に負けない鮮やかな花を、素直に「きれい」と微笑うひとを。 「花梨さん、夕方涼しくなってから、少し外を歩きませんか?」 泉水が「母」という言葉を口にしたことで、ほんの少し居た堪れない表情をして言葉を探しあぐねてしまったやさしいひとに、努めて明るくそう問いかける。 貴女は何も悪くありませんと、そう態々言うよりもきっとよい方法だと思ったから。 「タチアオイも、ヒマワリも、槿の花も、今が盛りです。ご近所の花めぐりでもいたしましょう」 「―――はい。ぜひ・・・!」 タチアオイ、ひまわり、槿の花―――今が盛りの花よりも、もっときれいに彼女が笑った。 窓から風が吹き込んで、また風鈴が揺れる。 ゆったりと寄せてはかえす、涼やかな音。 あのときと同じ季節。 よく似た青空。 そして、鮮やかな夏の花。 違う世界をつなぐのは、案外こういうものなのかもしれない。 巡り、変わりながらも普遍のもの。うつろうようでいて、かわらぬ確かな存在のもの。 ならば、祈りは届くだろうか。 彼女と手をつないで、同じ花のもとで祈れば届くだろうか。 あのとき、唐葵の花のもとで寂しさを抱えきれずに涙した幼い日の自分に。 そして、いまだ心に居座る、その傷つきやすい小さな子供である自分に向けて。 それでもいつか幸せに辿り着ける、と。 その小さな手は、やがて―――このひとにたどりつく、と。 今、その手は、このひとを守るためにあるのだ、と。 Fin. (わたしの中に棲む、傷ついた小さなこどもへ。) * 企画「the 龍潜博」へ投稿した作品(2010/07/25付)。再掲にあたって誤字など一部加筆修正いたしました。 |