影 法 師




 逃げ水、みたいなものだ。妹にとっての「幸せ」というのは。
 妹がしているのは、影法師を追うような恋なのだから。
 「ねぇ、朔―――」
 「?」
 「今更だけどさ…女の子って強いんだね」
 ほんのひと時愛されただけで、それをよすがに生きてゆこうとする妹も。
 見知らぬこの場所で生きてゆくことを決めたあの娘も。
 「ふふふ。兄上が不甲斐無いから余計にそう見えるんじゃないかしら」
 楽しそうに笑う妹と、きっと情けない表情(かお)をして笑うしかない自分と―――天気のよい庭先、一緒に洗濯物を干すなんて久方ぶりのことだ。
 「お似合い、だと思います」
 「?」
 「不甲斐無い兄上だから望美くらい強い女(ひと)でなければ、ね」
 「―――・・・うん」
 晴れやかに笑う妹の横で、微かに起こる胸の痛みを気取られぬようにそっと息をつく。
 ああ―――そうやって、いつも妹は見送ろうとする。
 すぐ傍にあるのに決して届かない逃げ水を見送るみたいに。周りに起こる幸福というものを。
 「朔はさ、もう自由に―――」
 と、そう言いかけた言葉はやんわりと遮られる。
 「わたくしは、大丈夫です。それにね―――兄上」
 「?」
 「―――私はまだ、消えてしまったあのひとに…恋をしているんです」
 この世界を取りまくすべてのものに溶け込んでいるのかもしれないけれど、もう何処にもいない神様を想い続けて。
 それでも穏やかに微笑む妹の傍で、この娘の幸せと人並みの幸せとが同じものだったらよかったのにと、兄としてごく人並みで月並みなことを思い続ける。
 決して妹はそれを言わないだろうから、兄である自分が。 
 妹の思いは正しい。
 でも、兄である自分が抱く哀しみは、正しさの類ではかれるものではなくて。それと同時に、この哀しみは妹の大切な恋を冒すものであってはいけなくて。
 妹はわかっている。
 妹が恋をした神様は、たったひとりなのだということを。やがて出会えたとしても、巡り満ちてゆくこの世界で、それは同じであって違う。
 神様にとってもひとにとっても―――これは刹那の邂逅だったのだ。
 「・・・なんだか影踏みしているみたいな恋じゃないか」
 「でも…もう少し、影踏みをしていたいんです」
 「―――」
 静かな答えが、今は、妹の精一杯の我儘だ。
 我儘を言いながら向けられた目線の先には―――浮き立つように白く光る小さな花房。妹が大切にしている髪飾りと同じ。黒い龍の神様が好きだった花。
 洗濯日和の陽光の下で。
 薄紅とも白ともつかない馬酔木の花が、淡い幻のように輝いて視えた。


Fin.


(幸せと不幸せはとてもよく似ているから困るんだ)


*



 景時さんは、この「お兄ちゃん」のポジションがとても輝いているひとです。    お題SS(2007/10/08 up)より。再掲にあたって一部加筆修正いたしました。