「千尋は、帰りたいですか?」 黄金色の優しい瞳にそう問われたとき、ふと過ぎったのは、夕日に照らされて蜜色になった煉瓦道だった。 従兄だと思っていた2人と過ごしていた穏やかな時間。 那岐は長い影の先で面倒くさそうに歩いていて、風早は歩調も目線もこちらに合わせてくれながら隣で穏やかに微笑っていた。 高校からの帰り道。 夕日に向かって歩いた古い石畳の小道。 ああ―――。 ただ苦しいだけのあの燃えるような赤い色だけではなく、自分にはこんなに穏やかな夕日の思い出があった。 「―――帰りたい、よ・・・」 俺は千尋の願いなら叶えてあげられるから、とどこか呪文のようにそう唱えたひとに、千尋は小さく呟く。 「帰りたいけど、、、でもね、風早。ダメなの」 「なぜ、そう思うんですか?」 「風早と那岐と家族として暮らしたことは、ここに、」 と千尋は自分の胸を掌でとんとんと叩き、 「ここの綺麗な綺麗な思い出っていうラベルの箱に、大切に仕舞ってあるの」 「―――・・・」 「仕舞ってあるだけじゃないわ。箱を開けて取り出すたびに、それは優しくて優しくて泣きたくなるほどで。わたしはとても幸せな気分になる」 闇に蝕まれつつあるこのうつくしい祖国に戻ってきて、初めて知った。 ほんとうにいい思い出は、胸の中でこうやってせつなく生き続けるものなのだ、と。 たとえば、放課後、那岐が待っていてくれた階段の踊り場。 窓から見えた、校庭に1つ転がったままのサッカーボール。 風早と一緒に一生懸命磨いたキッチンのフローリング。 いつも冷蔵庫に貼ってあった3人の当番表。 中学生のとき風早につくってあげたエプロン。 夏、那岐が独り占めしていた扇風機の音。 思い返すたびに、そのささやかな一つ一つが幸せな蜜色の海になって胸に迫り、千尋の心を揺さぶった。 けれど―――瞼に残る穏やかな光景は、とうに“うつくしい思い出”になってしまったものだから。 それは、“思い出”であって、追いかけるべき“現実”ではない。 「今だってわたしは幸せよ。大切なことをたくさん思い出せたもの。みんなに会えたもの。それに―――こんなふうに、風早と2人で綺麗な砂浜に立っていたりするし・・・ね?」 今ここにいる自分は、あの穏やかな日常を過ごしてきた自分が確かに選び取った道の先に立っているものだ。 一生懸命悩んで選んできた自分や、その自分の決断のもとに血を流し生命を削ったひとびとをないがしろにして、あのうつくしい思い出の中にひとり逃げ込むみたいなこと、、、できやしない。 「―――だから、帰らないわ。もしも帰れたとしても、わたしは帰らないわ」 「千尋―――」 ざっと音をたてて海風がわたった。 太陽がゆっくりと沈む頃、海と陸との間で風向きが変わる。 ああ、風が出てきましたねと言いながら、風早が手を伸ばし、千尋の髪をさらりと梳いた。 優しく、いとおしそうに。 「千尋が選んだ答えならそれでいいんです。俺は、千尋が願うことならそれで・・・」 そう言って優しく抱き寄せられる。 年の離れた従兄は、小さい千尋や那岐のことをよくぎゅっと抱き締めてくれた。 那岐はとても嫌そうにしていたけれど、小さい自分はなんだか安心して、それからとても嬉しかった。 でも、今は少し違うのだ。 風早の腕の中は以前と同じように温かいのに、今はただせつない。 すべては、この夕日のせいなのかもしれないけれど。 「風早―――わたしたちは前に進まなくちゃ」 鼻の奥でつん、と泣きそうになりながら。 せつない温もりを齎した“おとこのひと”である風早の腕の中で、千尋はそう小さく呟いた。 Fin. ( 神様たちの掟は知らないけれど。今は、さよなら、あの蜜色の煉瓦道 ) * 風早との砂浜デートのイベントがけっこう好きです。狭井君の配下の采女にラブラブっぷりを目撃されてチクられてしまう、あれです。 しかし、狭井君による風早イビリはすごかった! はしだすがこドラマ的な(失敬)! お題SS(2009/07/13 up)より。再掲にあたって一部加筆修正いたしました。 |