どうせ帰る道は同じで、帰りつくところも同じだけれど、生憎傘は1本しかなかった。 だから当然のこととして、那岐はそれを千尋に押し付けた。 「ほら、さっさと帰んなよ」 「・・・・・・・・」 ◇ 雨は小ぶりとは言えない。 そんな中を走って帰るなんて、那岐にはとんでもないことだ。 だけど、雨が止むのをただぼんやり待つなんてそれもまたばかばかしい。 だったら教室にもどって一眠りするのが利口だ―――というのが、那岐の当然の思考だった。 それに―――那岐にとっては、雨が止まなくても別にかまわないことなのだ。 先に帰った千尋か、もう一人の同居人か、それとも二人一緒にか。二人ともとんでもなくおせっかいだから、後で迎えに来てくれるのだろう―――短いような長いような、不自然なのに当たり前にしてきたこの暮らしの中で、那岐にとってはこれもまた当然にいきつく思考である。 学校の昇降口で雨空を見上げながらそこまで考えて、那岐がまた下駄箱のほうへくるりと踵を返したときだった。 「えっ―――・・・なぎっ?」 制服の肘のところをひっぱって引きとめにかかってきた千尋に、那岐は溜息をつく。 千尋は、ほんとうになんにもわかってない。そう思う。 「まってよどこいくの? 一緒にかえろ?」 「傘一本しかないだろ、無理がある」 「でも」 「でも、なに?」 「―――」 本当に、千尋はなんにもわかってない。 なんにもわかっていないくせに少し怒ったような、そんな色をした瞳に見上げられて那岐はかなしくなる。 沈む悲しみとは違う。 腹が立つというのとも少し違う。 何にも通じていない、この現実が情けないやら哀しいやら。 そして、この現実にどこかで安どしている自分自身に苛立つやら。 目の前に立つお姫様には、まったくもって想像できない複雑さだろう、これは。 そうして、那岐本人がその複雑さに折り合いをつけられぬまま、千尋の「思い」を叶えようとしてしまうのだ。 こんなふうに。 「―――知らないよ?」 「なにが?」 どうなっても、とは那岐は口にしない。ただ、ため息を一つついて 「傘、かして」 先程押しつけたそれを千尋から取り戻し、雨が降る昇降口の軒先へ。 ◇ 鈍色の空。 さわさわと続いてゆく雨の音。 ここを通ってゆく生徒の数はもう疎らで、那岐は、傘を開いて千尋を振り返る。 千尋は一瞬不思議そうに青の目を瞠り、でもすぐに、柔らかく笑った。 なんのてらいもなく。 そうやって千尋が笑うたび、那岐の心にはさざ波がたつ。 いつのころからかわからない。 さざ波が立つことを自覚し、やがて、それがなんであるかを認めてしまってからというもの、那岐にとって世界の中心は「千尋」になった。 嘘とも本当ともつかない、ただただ穏やかで箱庭みたいな―――この世界の中心は、いつも「千尋」だった。 「じゃ、千尋はこれ持って」 「・・?」 「カバン持ち。僕の傘に入れてやるんだから、そのぐらいして。そうじゃなきゃ割に合わない」 「なっ・・・! 那岐ってどうしてそう・・・・」 唇を尖らせつつ。 だけど千尋は素直に那岐のカバンを受け取ってくれるものだから―――那岐としても、真顔で考え込んでしまのだ。 ほんとうにどうしてくれよう。 この、空いた手を。 好きになったら不幸にする――遠い日の葦船の呪(まじな)いは、まだ那岐に中で重くとどまっているけれど。 それがどこまで歯止めになるのか、近頃自信がない。 「ちゃんと傘ん中入りなよ。肩が濡れて風邪でもひかれたら僕のほうが困る」 「ふふふ」 「なにそれ」 「那岐ってやっぱり優しい」 「違う。僕に家事分担がくるのが面倒なだけ」 「・・・・・うん。そう言うと思った。でもね―――・・・ありがとう」 「―――・・・」 “ありがとう”の言葉と一緒に、千尋は、やっぱりやわらかく笑った。 肩が触れ合う近さで。 2人きり。傘と雨とに閉じ込められた此処で。 それらすべてが、那岐の心にまたさざ波をもたらした。 「―――まったく・・・」 小さな呟きではとても隠せない。 途切れぬ雨音に耳をふさがれて、だけど、だから、千尋しか見えなくなってしまうこの状況で。 だからもう、そっと抱き寄せるだけ。 それにも千尋はあらがわず―――だけでなく、まるくこぼれそうな青い瞳でまっすぐ見あげてくるものだから―――那岐は吐息で囁くしかなくなる。 「―――ちひろのばか・・・」 「なぎ・・・?」 「千尋は知ってたの? それともまだわかってないの?」 「わかんない、でも―――」 「いいや、どっちでも」 「え、」 「・・・ちひろの、ばか」 ほとんど触れあう近さだったから、何が起こるかなんてきっと千尋にだってわかってただろう。 千尋の瞼がゆるく閉じられる。 それを合図に、どちらからともなくやわらかに重ねて。 「―――…っ」 ◇ (今更―――だけどちゃんと言うべきなんだろうか) 身を寄せ合って、だけどたがいに何も話せないままに、雨音だけを聞きながら歩く道すがら。 家までそう遠くない道のりなのが、今は少し恨めしい。 だけど、この雨の匂いより。 2人を閉じ込める雨音より。 その向こうにかすむ、遠い葦船の呪いよりも。 今確かなものは、不意に重ねた唇のやわらかな甘さと抱き寄せた温もりで。 それが、那岐にとってすべてだったから。 「ね、千尋」 前を向いたまま、だけど、気配でわかった。 隣の千尋がふっと目をあげたのが。 「千尋、わかってると思うけど…」 「?」 「僕は、千尋のこと―――馬鹿みたいに好きなんだ」 Fin. (だけど、雨があがったら、どんな顔をすればいいんだろう) * 豊葦原へゆく前にちょっとデキてる那岐と千尋だと余計にもゆるんですけど・・・っていう壮大でしょうもない妄想のしょっぱな。 那岐にしてみれば油断で。そんなこんなふわふわっとしているときに豊葦原に強制送還という。そしていよいよあの呪いから逃れらなくなっちゃう那岐で、前より急にそっけなくなる那岐に千尋ちゃん困惑!みたいな! お題SS(2011/06/8 up)より。再掲にあたって一部加筆修正いたしました。 お題「雨上がり」は【お題バトン】より頂きました。 |