山の春は里のそれよりも遅くやってくる。
 それでもひと雨ごとに山の気配は緩み、まもなく庵の周辺にも彩りが戻ってくることだろう。

 「ね、泰継さん、みてみて・・・?」

 あたたかく陽の射す場所で書見をしていた泰継は、声のするほう、濡縁の向こう、庭の裏戸に目を向ける。
 声の主はわかっている。
 山間(あやまい)の雪が少し融けたころ、春を待たずにここに嫁いできた妻だ。

 龍神に見染められた異界の娘は、なぜだか、人ならぬ泰継を見染めてこの世界に留まってくれた。
 八葉として彼女を守りながら、人ならぬ身だからと一線を引いて、それでも彼女のことを想ってきた泰継としては、複雑だった。嬉しい、と思うけれど、どこかで後ろめたいのだ。
 彼女の幸(さいわい)を考えれば、自分ではあまりに不釣り合いで、この幸福があまりに分不相応に思えるから。
 そう思いながらも、日々つもってゆく面映ゆい幸福につい流されてしまう、自戒と自省をいつもひきずったまま。

 「里はもう、蕾か」

 そう声をかけると、妻は笑って大きくうなずいた。
 妻は、花が咲くように笑う。
 だから、つい錯覚してしまうのだ。
 この冬枯れの山に色彩を連れてきたのは、妻なのだ、と。
 薄墨で描いたような枯れた風景は、山裾から順に淡く色づいてゆく。
 それは長く繰り返されてきた自然の理であるのに、妻がこうして笑うたびに、山が色を取り戻していくように思えるのだ。

 「さっき里のおばさんが寄ってくれて。それで、この枝をくれたんです・・・もうすぐ咲くから、ふたりで花見においでって誘われました」
 
 妻が手にしているのは、桜の一枝。
 いまにも開きそうな蕾がいくつもついている。
 一輪挿しにでも活けておけば、ここでも花をつけるだろう。

 「こっちの桜、初めてだから楽しみです」

 そう言って瞳を輝かせる妻に、泰継も口の端をゆるめる。
 妻は、その春の花に祝福されてしかるべきだ。
 彼女こそ、季節が止まっていたこの京(みやこ)に冬を呼び、こうして春を巡らせたひとなのだから。

 「泰継さんのお仕事あいたときに一緒に行きましょうね?」

 庭先からこちらを見上げるようにして、控え目にそう強請る妻に、否と言う泰継ではない。
 そもそも妻の願いなら、何をおいても叶えてやりたいのだ。
 “お仕事”があかなくても無理やりあけるくらい造作もないことだ。だいたい、仕事というのも安倍の本家が厄介事を押しつけてくるようなものなのだから。
 もちろんだ、と応えるとまた妻が笑ってくれた。

 花が咲くように。他のだれでもなく、泰継に向けて。
 


◇ ◇


 イサトから起居する寺の僧坊でつくっているという諸白をわけてもらったので、それを手土産にして、泰継が妻と里へおりたのは花も盛りの頃である。
 集落を見わたす高台に、それは見事な一本桜。
 その下に老若男女が集い、明るいうちからあちこちで酒盛りがはじまっていた。

 桜は、里の農閑期に満開を迎える花だ。
 種もみから苗を育て、田起こしをし、やがてもうすぐ田植えという頃合い。
 忙しない毎日がはじまる前の束の間、人々に、真白に近い薄紅の夢を見せる。
 宮中の貴族らも風流な花として花見の宴をしばしば催すけれど、里の民らもまた、思い思いにこの短い花を楽しむ・・・ものらしい。

 “らしい”というのは、実は、泰継は里の桜を見たことがなかったのだ。
 貴族らの花見の宴も知識として知っているだけ。
 毎年、泰継が三月の眠りから覚めると、里の桜は葉桜になっていて、下界の人々が賑やかに花を楽しむさまをあまり目にしたことがなかった。
 里よりも遅くに咲く山の桜は盛りの頃で、その花の中、安倍の本家へ眠りから目覚めたことを報せる式神を飛ばした。
 泰継にとって桜というと、見る人のいない山間(やまあい)で静かに咲いて散るものだったから、こういう賑やかな桜は初めてだった。

 「いつのまにあそこに庵ができたんだろうね? 山へは小柴刈りに行ったりよく入っていたけど気付かなかったよ。こんな男前のにいさんとかわいいお嫁さんが住んでたのにねぇ、、、」

 そう言いながら、先日妻に桜の枝をくれたらしい恰幅のよい女が、ばんっと景気よく泰継の背を叩いた。自家製の濁り酒を口にしていたようで、もうすっかりできあがっている。

 「おばさん、毎年こんなふうにお花見をしているの?」
 「そうさね、諸白みたいな上等な酒(ささ)はそうそうないけど、毎年、おとこもおんなもこうやって花を楽しむんだよ。よかったら来年もおいで―――・・・あんたたちはあの庵にはいつまでいるんだい? えらい陰陽師の家からなんか仕事でもおおせつかってるんかい? それとも陰陽師の修行のためかい? あれ、修行なら女づれはいかんさね・・・」

 女の言葉に、妻がぷっと吹き出した。そうそう、修行におんなづれはいかんさね、などと口真似をしながら。
 どうも、里のものらは、あの庵を陰陽寮の修行場か出張所と思っているらしい。

 「おかみの命令かなんかしらんが、にいさんも災難だったね、あんなところ住みにくかろ。困ったことがあったらいつでも里においでよ?」

 泰継のことは、さしずめ、宮中の立ち回りに不備でもあった下級陰陽師とでも思っているのだろう。妻は、その“ついていない陰陽師”には出来すぎた“よく気の付くかわいい嫁”といったところか。里の女は、しきりに妻に同情をよせつつ、なにくれとやさしい言葉をかけている。

 「・・・それにしても、いつからあんなところに庵があったんだろね」

 酔っ払いの話はとりとめもない。
 妻が里の花を楽しんだのであれば、そろそろ山へ帰ろう、泰継がそう思った時だった。十かそこらの女童が、女に言葉を投げかけてきたのは。

 「でも、おばぁは小さい頃、あのへんに庵があったの覚えているってさ」
 「じゃあむかしっからあったんだろか。おばぁが呆けていなさるんじゃないだろね」
 「わしゃ、呆けてなどおらんぞ!」
 「「!?」」

 矍鑠(かくしゃく)とした老婆もこの輪に近づいてきた。
 そうして―――

 「あれ、あれ、まぁ・・・!」

 タヌキにばかされているんかね、それとも、桜の木の神様の気まぐれかね、と。杖を取り落とすほどに驚きながら、泰継の顔をしげしげと覗き込んで言ったのだ

 「あんた、昔あの庵にいた隠者の倅(せがれ)かい、いやいや、孫なんだろうね・・・驚いたよ、瓜二つじゃないか」
 「??」
 「このおばぁの初恋の君にさっ!」
 「「「「―――!?」」」」

 一瞬の後、あちこちからどっと笑い声が挙がった。
 桜の下、陽気な宴に、ひとびとの笑いが瞬く間にひろがってゆく。
 当惑する泰継と、大真面目に語る老婆とを置き去りにして。

◇ ◇


 (―――まったくとんだことになってしまった)

 星明りの下で山道を歩きながら泰継はため息を吐く。
 馴れない酒ですっかり寝入ってしまった妻を背に負って、ついでに、なんやかやと持たされた里の恵みの品々を片手に抱え。

 (里のものらと深く付き合うことを止めるべきだろうか)

 妻のやすらかな寝息を耳にしながら、逡巡する。
 実は、庵のまわりには、ずっと結界を施してきた。
 妻が嫁いでくるつい最近まで。
 安倍の本家のものらならいざしらず、山裾の里のものらは、長い間姿の変わらぬ人外のものの存在を快く思わぬだろう。
 いたずらに不安をあおるのもよくない。
 無用の衝突を避けるために、泰継は、常に結界の中で暮らしてきた。
 獣はとおしても、人は決して通さぬよう気を配りながら。

 まだ女童だったころのあの老婆のことも、はっきりと覚えている。
 とおい昔、庵の近く、けもの道に迷い込んだ幼子を助けてやったことがある。
 暗闇でおびえ、あちこち擦り傷だらけで、ぼろぼろと泣きながら里の父母を呼んでいた。
 そこは山深く、幼子の声などもう里に届かぬ。
 やっかいだな、と思いながらも、泰継は結界を解きその子に手を差し伸べた。いつも怪我を負った森の獣たちを助けてやっていたから、泰継にとっては、それとさしてかわらぬ行為であった。
 いっこうに泣きやまぬ幼子を抱きあげて庵に連れ帰り、土間で傷を洗ってやり化膿止めになる薬を塗ってやり、くじいた足首には腫れを抑える薬草をまいてやった。
 やがて少し安堵したのかその子は泣きやみ、それと同時に、急激にひもじさを覚えたのだろう。気付くと、泰継が首からさげている陽の玉をものほしそうに指をくわえて見つめていて・・・きっと橙や橘の実にでも見えたに違いない。
 すぐに式神をとばし食べられるもの、アケビや山ブドウをとってこさせて与えると、女童はまたたくまに平らげ、あとはもう、こてんと寝入ってしまった。
 最初から最後まで、山の獣とたいしてかわらぬ様子だったのに・・・まったく。幼くとも女とはあなどれない生き物だ。
 あれを狐か狸のせいにせず、しっかり、“初恋の君”などと記憶しているらしいのだから。
 “初恋の君”とやらは、当の泰継のこと。倅でも孫でもなく、瓜二つなのは当然だった。

 「―――はつこいのきみ」
 「!」

 不意に、耳元でそう囁かれる。
 さきほどまで眠っていた妻が、泰継の背でおかしそうに笑っていた。

 「なんだ、覚めたのか?」
 「・・・まだちょっとふわふわします、だけど、目は覚めました・・・はつこいのきみの背中あったかーい」

 残る酔いにまかせて、じゃれつくようにそんな事を言いながら、妻は、泰継の背にその身をひたりとくっつけてきた。
 肩から細い両腕をまわして、泰継のことを、背から抱きしめるように。

 「花梨・・・」
 「はい」
 「わたしと共にあるというのは・・・こういうことだ」

 足元に目を落とし、泰継は低く、そうつぶやく。
 女童が老婆になるだけの時間、さして姿を変えぬまま泰継はこの山で過ごしてきた。
 人に流れる時間と泰継に流れる時間は、こんなにも違うのだ。
 少なくとも過去の事実はそうであり、これから先も、そうであるかもしれない。

 「・・・はい」

 少し間をおいて、ぽつりと妻がこたえた。
 夜風に消えそうな小さな声が、せつなかった。
 それから、妻は、「ごめんね、泰継さんが守ってきた静かな生活を、わたしがこわしてしまった・・・」と、ひどくかなしそうに謝った。詫びるべきは、泰継のほうであるというのに。
 やはり分不相応の幸福を得ると、それはたちまち別のものにかわってしまうのかもしれない。
 たったひとり大切にしたいと想う妻を、こんなふうに、ひとと相容れぬ時間軸に巻き込んでいるのだから。

 「花梨、龍神の声は・・・まだきこえるか?」

 泰継が、背中にそう問うた瞬間だった。
 がつん!と頭を殴られたのは。
 妻は時折この世界の姫君にあるまじき凶暴さを発揮する。やはり異界の娘だ。
 いまも、平手ではなくて拳で殴られたのだから。

 「っ花梨!?」
 「―――ねぇ、わたしのはつこいのきみ」
 「・・・!?」
 「どうか、わたしの願いをかなえてよ―――」

◇ ◇


 きっと同じ月をみているとか、同じ空の下にいるとか。
 そんなんじゃ、ぜんぜん足りないの。
 泰継さんの隣にいたい。
 泰継さんに触れたい。
 泰継さんに抱きしめられたい。
 あいしてるって言いたい、言われたい。

 「―――そうやってずっと傍に居て? わたしがおばあちゃんになってもずっとずっと好きでいて?」
 「か・・り・ん」
 「わたしのしあわせはここにあるの。ここにしかないってわたしが決めたの」
 「―――」

 背に負った妻のあたたかな重みに、泰継は、ほとんど泣きたいような気持で天を仰いだ。
 そこは、花も葉もつけていない冬枯れの枝ばかり。
 里に届いた爛漫の春も、山の奥にはまだ届かない。

 百年に近い歳月の中で、「人」との別れはいつも突然で、いとも簡単なもので。それはあまりにも当り前のことだったから、ずっと知らずに生きてきた。
 焦がれるとか、囚われるとか、いとおしい、とか―――たったひとりが、こんなにも大きな存在になることを。
 妻は、小さくて儚くて強くて、だれよりやさしい、たったひとつのひかり。
 百年に近い歳月、問い続け、求め続けたものが、このたったひとつのひかりだ。

 「ねぇ、わたしのはつこいのきみ?」
 「・・・」
 「どうか、わたしのしあわせをかなえて―――?」

 まるで百年の歳月が一時に押し寄せるよう。
 胸にこみあげるものの正体を、泰継は知らない。
 ただ、くるしくて、かなしくて、いとおしくて、何も言えなくなった。

 すべてを見送るばかりだったこの生のなかで、足掻いてみてもいいのだろうか。
 通り過ぎてゆくひとのなかで、たったひとり、このひとを愛する我儘を天はゆるしてくれるだろうか。
 妻がもたらす日々は、苦しいくらい幸福で、かなしくて、いとおしくて、面映ゆい。こうして立ち竦んでしまうほどに。

 妻の願いをかなえたい。
 何をおいても。
 自分はそのために生まれてきたのだと―――そう、信じたい。

 「―――・・・承知、した」

 掠れる声でやっと、そう応えるてやると、背で、妻がちいさく“うれしい”と呟くのが聞こえた。
 すこしくぐもった涙声で。
 けれどすぐに、妻が笑ったような気がした。
 きっといつもそうするように、他のだれでもなく、泰継に向けて笑ってくれたのだろう。

 うつくしく―――花が咲くように。


Fin.

(その幸福はいつかあなたの身に馴染むから、ねぇ、ずっとずっとそばにいて?)


*

北山夫妻のある日。
幸せに不馴れな泰継さんと、泰継さんをなにがなんでも幸せにしたい花梨さんの、まだぎこちない新婚北山ぐらし。

お誕生日にほぼまったく関係なく、しかも、かなり季節感無視なはなしで、すいません。
それでも精いっぱい、泰継さんを幸せにしたい気持ちを込めました(言い訳)

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました・・・・!

October 1, 2009 トンビ@Muddy Puddle

*

注)
「花発多風雨 人生足別離」:于武陵の「勧酒」という詩の一節
「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」:上記の一節の、井伏鱒二による和訳。