偶然なのか、必然なのか―――ただ、多くの選択の場面で、その結果に至る道筋から逸れてゆくほうが、ずっと容易いことだったろう。 「泰明さんは、それでいいの?」 「神子、なぜ怒る」 「怒っていません」 「―――…」 明らかに怒っているではないか。 泰明は眉をしかめる。 神子が云わんとしている事が何なのか、皆目見当がつかなかった。 庭園に引かれた小川のせせらぎを耳にとめる。日が高い分、屋内に日差しは届かない。緩やかな風に、御簾が揺れる―――夏が終わろうとしていた。 龍神の許から戻された神子は、実に、あれから二月近くも寝付いていたことになる。 桜が咲く頃に出会って、その花が終わる頃には……もうこの娘に自分は惹かれていたのだろう。泰明は、つと手を伸べて、神子の頬に触れる。雨の日、神子がこうして頬に触れてくれたことを思いながら。 「私は、神子との約定を果たす。それが役目だ」 「―――」 やはり怒ったまま何も応えない人に、泰明は溜息を吐く。藤姫が整えた庭では、もう桔梗が花をつけていた。その紫と白とを眺めながら、泰明は途方に暮れる。最愛の女(ひと)は、兎角、よく怒りよく泣きよく笑う娘なのだ。 「何度も言わせるな。神子を元の世界へ帰す。その神子と、共にいたい。だから私を連れてゆけ。至極簡単なことだ。どこに不満がある」 「嬉しいです……嬉しいに決まってます! でも………」 怒っていたはずの神子は、ひどく悲しそうにその表情をゆがませた。 頬に触れた手に自らの手を重ね、呟くのは 「でも……そんな簡単に捨ててしまおうとしないで…」 同時に、泰明にも、その悲しみが押し寄せた。 何故、も、何のために、も―――そのどちらも判らないというのに、それが悲しみであることだけはしっかりと知れるのだ。人の思いとは、厄介なものだ。今更ながらに泰明はそう思う。 それでも、深い意味のあることなのだろう。 最愛の女(ひと)は、兎角、よく怒りよく泣きよく笑い―――神に愛されるほどに優しい娘なのだから。 「神子、わたしを連れてゆけ」 「―――…ほんとうに?」 袖の端を急いで捉えて握り締めた小さな手に、泰継は、微かに胸が痛くなった。 「ここに私は長く留まり過ぎた。もう、十分だ。だから、神子の世界で神子の傍に…」 それは、或いは、神が許してくれた時間なのかもしれないと、そんな風にも思えた。たった一度“欲しい”と思ったものを、抱き締める―――その束の間を与えられたのだ。 「もう、手を離さないで下さい……ね?」 「―――…わるかった…」 「………泰継さ…」 細い肩を、この日は柔らかく抱き寄せた。 粉雪の降る日に、一度彼女の手を振りほどいてしまった。望まれたのに、恐ろしくて。けれども彼女の言霊に導かれるように、淡い光を求めるように、飛び込んできた小さな身体を抱き締めた。ただ惹かれるまま、強くかき抱いた。 二度と手放せないだろう―――そんな確信めいたものに手を伸ばす。それは禁忌である。理から外れた存在である自分にとって、その選択は禁忌以外の何ものでもない。 けれど――― 「私には―――…神子がすべてだ」 それは言い訳なのかもしれなかった。長い時をかけて求め続けたもの、焦がれたものへの、“強い依存”なのかもしれなかった。彼女が望むとおりのものを返してやることができるのか、そんなことも判らなかった。 けれど――― 「ただ、傍に…」 神子が望んでくれる限り、傍に。 神子が望む形で、 神子が望む距離で、 そこから、神子を思い、神子を護れればよい。 二度と手放せなくなる? 否、それでも―――彼女の幸いのためならば、自分は甘んじて手を離すのだろう。傍に居る罪深さを知っている、そのために払うべき代償は弁えている。彼女の理を決して疵付けないように、望まれて必要なときに護ることができれば、それで十分だ。 ただ、手を離さなければならない時が来るまでは、傍に。 咎を受けるならば、それを自分がすべて被ればよい。 痛みを伴うことならば、それは自分がすべて被ればよい。 ―――己が身は、ただの憑代(よりしろ)として造られたものなのだから。 「今は、ただ―――神子の傍に」 その、泡沫(うたかた)の幸福に。 何故、と問われて、それに答えを示したとしても、彼はきっと理解できない。 辛い決断を強いることよりも、深い悲しみを伴う決断を強いることよりも、捨てることを厭わないことのほうが、ずっと重い事。いくら賢く思慮深いひとであったとしても、ぬぐいきれないのは、幼さと、そのための無知と―――そこで、あかねは大きく溜息を吐いた。 「……知ってたのに…」 幼さも、無知も、そのために、時になされる性急で残酷な決断のことも。知っていたのに、その幼さの前で不意に立ち竦んでしまった自分とて、やはり“幼い”のだ。 そして、この幼い二人が下すであろう決断の残酷さを最もよく知っているのが――― 「さて、神子殿―――ご足労頂きまして」 ゆったりとして、どこか笑いを含んだような声。 「……晴明…様」 「いかにも。不出来な弟子が貴女をまた困らせておるようですな」 「―――いえ」 「ま、そう畏まらんで、貴女らしくもない」 「―――…」 蝙蝠扇を器用に閉じて、その希代の陰陽師殿は緩やかに微笑い――― 「賭けにのってくださらんか、神子殿」 「?」 「なあに、たいしたことではありません。けれど一度きりしか出来ない賭けですぞ」 ―――貴女は貴女自身を賭けてくだされ。わたしはあの……不出来な弟子を賭けましょう。 「…泰継さん?」 約束の刻限。 約束の場所。 「あ、あの―――お荷物は、何もないんですか?」 至極当然の質問であったはずなのに、彼は、困ったような顔をして何も。と、簡潔な答え。 けれども―――彼は僅かに恥じているようだった。長くいたこの場所に、何の未練もないという、尋常ではない自分自身を。 「読んだ書物はすべて記憶している。神子の世界では、術をふるうことはそうそうないのであろう。だから書物も呪具の類も、安倍のものにすべて託した。いくらか持っている衣も…神子の世界では用を成さないであろう。着の身着のままでよい。今まで面倒を見ていた森の獣たちのことも、山の主や精霊どもによく頼んできた―――…だから…この身一つで十分だ」 「あ、あの。泰継さんがお師匠様から頂いた、、、何か、、、大事なものとかっ!」 例えば、思い出の品。大切な人のぬくもりが、ふと伝わってくるような他愛のない日常品。 彼には、それが一つもないということ。 「そういうの、なにか―――…」 人の手によって、長く愛された「物」が、やがて付喪神になる。そんなことを話してくれたこともあったけれど 「花梨、もしもそういうものがあったとしても、私のようなものが持っているよりも安倍の血をひく者に…手許に置いてもらうのが筋であろう…そのほうが有意義だ」 彼自身、物言わぬ品物に誰かの影を化体(かたい)すること…その気持ちまでは理解できないでいるのかもしれない。 「―――…そ…うですか…」 どうしようもなく、寂しい人。 寂しい気持ちは、知覚できるというのにそれを紛らわせるための方法を何にも知らない人。 「わたしはお会いしたことはありませんが、泰継さん、お師匠様のことを…ちゃんと覚えていますか?」 「―――当然だ、わたしは忘却することはない」 「そうじゃなくって!」 「?」 「掌の温度とか、言葉の抑揚とか、その人の目とか、考え込むときの仕種とか、口癖とか、それから―――っ」 「花梨―――…何故、お前が泣く?」 ―――貴方の事が大好きだから。 あなた自身が気付いてもいない、その寂しさも哀しさも。 あなたが無意識に隠そうとしている瑕も。 わたしは、全部愛せるから。 「…っ……」 「―――…」 「わたしは、これからずっと一緒に…泰継さんとたくさんの時間を…」 貴方の長い孤独を凌駕するほどの時間を。 孤独の中で貴方が掴んで刷り込まれてしまった真実を、塗る変えてゆく時間を。 「わたしは、ずっと一緒にいていいんですよね?」 「―――そうだ」 「じゃぁ……嬉しいときだって、人は泣いたりするんですっ!」 「……??」 「今日のところは、そういうことにしておいてください!」 背伸びして、きっと、ただの強がりでしかなくて。 それでも、見上げた彼の目は優しいから、余計に泣きたくなって。 「―――ぅ…」 だけど、すぐに視界は遮られてしまった。 彼の懐に、深く抱きこまれてしまったから。 ** ** ** ヤスたちの決断と、やっぱり何かを感じ取っていた神子たち。 エンディング後のほうが、ヤスたちにはドラマがあるのさ! |