螺 旋 交 差 (2)




 これを逃したらもう二度と彼とわたしが互いに向き合うことはなく、二人の生きる軌跡は永遠に離れていってしまう。神様のイタズラで出会うことになって、それが恋かどうかも判らないまま惹かれて、いつしかわたしにとっては、それが―――“一生にたった一度で十分だ”と思うくらいの恋になっていて。

 だから私は…私自身を賭けました。
◇ ◇

 「―――貴女は貴女自身を賭けてくだされ。わたしはあの……不出来な弟子を賭けましょう」
 「賭け…ですか?」
 その問いに目の前のひとはただ微笑っただけだった。解るでしょう、とそんな意を含んだ微笑と沈黙。それからふと庭先に目を留めて
 「ああ―――丁度こんな季節でした。桔梗の花のころに、あの者は生まれました」
 「―――…」
 「神子殿、あれを連れて帰るということがあの者のなにを引き受けることになるのか…………いや、あなたは賢い。わたしが申すまでもなく解っておいででしょう…」
 「はい………泰明さんは…まだ」

 “好き”という感情を一つしか知らない。
   私が彼を必要とすることと彼が私を必要とすることが、今もこの先も同じものかどうかは分からない。彼にとってこれが“恋”なのか、それは誰にもわからない。

 「あのように幼く未熟なままあれが八葉の任に就くことになったのは宿星の定めによるもの………と陰陽師らしく申すことが出来れば気が楽なのですが、なかなか……わたしの指導が至らぬゆえこういうことになりました。しかも、わたしは貴女に期待し頼りました」
 「―――…」
 「期待通りでした。貴女は、心を…あれに心を吹き込んでくださった」
 「でも…」
 「―――そう、貴女も懼れていらっしゃるとおり。わたしにもこの先は見当がつきません。あの者に思い入れがちと強すぎるようで、先見がかなわんのですよ」
 「―――…」

 突きつけられているのは、この不確かな関係、そして、あまりにも曖昧な未来。
 問われているのは、それでもなお彼のことを想うのか、そして、想うだけでなくその深さと必要な覚悟。
 痛いほど伝わるのは、この人もまた彼のことを深く慈しみ愛しているのだということ。
 大切に思うからきっと迷っている。ここで引き止め諦めさせるのか、それとも信じて送り出すべきか。

 「―――…わかりました」
 「話が早い、神子殿は実に賢くあらせられる」
 「賢くなんか…ありません」

 賢かったらここで彼を諦める―――いいえ、もっと前に彼のことを…彼を好きになることを諦めている。

 「その賭けに乗らせて下さい。わたしは私自身を賭けます」

 彼にとってもわたしにとってもこれが恋だったのだと……そうなることに―――そのくらい大事な恋なのだから、自分を賭けてしまうのなんて当り前のことだと思った。

 「代償は、おおきいですよ―――賭けに負けたらどうなさる」
 「負けたら―――仕方ありません、好きになったのがそういうひとだったのだから。この先泰明さんにとってわたしがいったい何なのかがわかって、それがわたしの望むものでなかったとしても、わたしは彼を大切にします。彼が友であることを望むのなら友として。家族としての情愛を彼が望むのなら家族として。これが彼にとって恋でなかったとしても、、、ついに恋にならずに終ったとしても………わたしは泰明さんを大切にします」
 「―――…それは恐らく大変辛いことですよ。今の貴女には想像もつかないほどに」
 「はい。酷く痛みをともなうものになるだろうと理解しているだけで、その痛みは想像もつきません。でも…今、現に今、わたしには彼が必要です。そして、彼もまたわたしのことを必要としているのだと……知っているんです」
 「いかにも」
 「だから、“今確かなこと”にわたしは私自身を賭けます。これ以上の我儘なんてありません……でも、この刹那のために………彼の未来を、いいえ、晴明様が泰明さんに関わる未来を…全部わたしに下さい」

 これを逃したらもう二度と彼とわたしが互いに向き合うことはなく、二人の生きる軌跡は永遠に離れていってしまう。神様のイタズラで出会うことになって、それが恋かどうかも判らないまま惹かれて、いつしかわたしにとっては、それが―――“一生にたった一度で十分だ”と思うくらいの恋になっていて。

 「泰明さんを、わたしにください」
 「―――……」

 目の前の人は瞑目し―――…やがて静かに言った。

 「よろしい………賭けは成立です」

◇ ◇

 「―――あ、りがと…う、ございます」
 「なに、わたしは賭け事が好きでね。わたしもあの不出来な弟子を賭けると申し上げたでしょう? あの者に賭けたくなりました。我ながら酔狂なことです。決して結果を見届けることはできないのに…」
 「酔狂なんかじゃありません。それに、これはきっと…賭けになっていません…」
 だって、究極的に望むものが互いに一緒なのだから。奪い奪われるようでいて、、、望んでいるのはたった一つのこと。
 「ははは、やはり神子殿は賢くあらせられる」
 「…そんな…きっと、だれにでも解ることだと思います」
 「―――…」
 「だって、晴明様はただ信じて送り出そうとして………」
 「神子殿、よく聞いてください」
 「?」
 「神子殿にはあってわたしにはないものがあります、解りますか?」
 「…………わかりません」
 「至極当然のものです。私が欲しても決して手に入れることの出来ないもの」
 「そんなものってあるんでしょうか…」
 「あります。貴女には、無限と思えるほどの未来があるのですよ…勿論、あの者にも。わたしにはそれがありません」

 「―――!!」

 「ですから―――どうかあの者に、幸せとは何かをわからせてやってください。人が生まれながらに希求するそれを、あの者にも示し与えてやってください。あの者自身がそれを掴み、また、誰かに与えることができるほどに……しかとわからせてやってください」

 ―――どうして人は、何にも捨てず失わず全部を選び取ることを許されていないんだろう?
 ―――どうして神様は、こんな身を切るような選択を突きつけるんだろう?

 「……すみませ…ん」

 託された思いの大きさと深さの前で、立ち竦む。
 酷いことをしているのに、温かくて優しい想いで返されるから余計に。
 ああ、この人の傍に居ることで彼が得られるたくさんのものも、わたしは彼から奪うことになるんだ。
 それでもこの人から彼を奪うのだから…わたしは―――その人の前で、ただ、ぼろぼろと涙がこぼれた。

 「神子殿、どうか泣かないで下さい………あの日、あの者のために貴女は命をはってくださった。あの者の親として…わたしは貴女に深く感謝しておりますよ…」
 「―――…晴明さ…ま」
 「ありがとうございます。あの者がめぐり会った神子が他の誰でもなく貴女でよかった……だから託すのです。貴女が育(はぐく)まれ、これからも生きていく世界で、あの者に―――どうか幸せを」


  ―――それが、彼を巡る約束。
  彼を手放す人と、彼を連れ去っていくわたしとの間の、シンプルでとても重大なたった一つの約束事。



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 こんなふうに託されたら、もう、頑張るしかない。