螺 旋 交 差 (4)




 この世界の星は頼りない。夜にも闇が存在しないから。
 空の蒼も、幾分濁っている。
 様々な物音が混ざりこんでいるから、耳に届く風の唄もか細い。

 初めてこの世界に降り立ったとき、耳を塞がれて目隠しをされているような感覚に陥った。樹や花に宿るものたちの声も神々の声も、どれもが弱く小さく、上手く聞き取れなかった。
 これが“異界”ということなのだろう。
 違和感の前に呆然と立ち尽くしていると、神子が心配そうに此方を覗き込んできた。
 この世界にはこの世界の理(ことわり)があり、生きていく上で必要な能力もまた異なるのだろう。
 けれど、神子さえ傍に居て笑っていてくれるなら大丈夫だ。ずっと神子のもので在れればいい。それ以上望むべくもない―――ただそう思って、神子を抱き寄せた。
 問題ない、と小さく呟いたとき神子の細い腕に抱き返された。

 「始まりはいつも桜。ね、なんだか桜が時間を繋いでいるみたい…」

 丸みのある柔らかな風。
 頬に触れた薄紅色の一片。
 同じでいて違う異界の花。

 ―――春、桜の季節だった。

◇ ◇

 それから・・・移り行く季節は緩やかに穏やかに。
 “神子”という呼び方は根気良く改めさせられて、“あかね”と呼ぶほうが当たり前になった。
 あかねも、天真も黒龍の娘も―――“コウコウセイ”という肩書ではなくなった。
 詩紋は急に上背が伸び、天真とさして変わらない目線になった。

 そうやって、あかねとわたしと彼らの身の上に降り積もったのは、3年という年月。
 賑やかで時折忙しなくて、けれど、穏やかで―――あかねの傍で巡ってゆく季節は、あの異界とは、やはりどこか違う流れの中にある。

 師匠の屋敷の庭に咲いていた桔梗の花も。
 与えられていた庵のことも。
 あかねとの仲を冷やかしてきた連理の賢木の話し声も。
 北山の天狗のしわがれた笑い声も。
 どれも思い返すことは少なくなり、いつかしか遠のいていった異界での日々は―――…けれど。
 あかねの世界で過ごす4度目の桜の季節もとうに過ぎ、その年の夏が終ろうとしていたときのこと。

 「―――……」
 フローリングをバタバタと走ってくる。あれから丸3年は過ぎたというのに、相変わらずあかねは粗忽者なので目が離せない。そのままの勢いでバン!っとドアが開き―――

 「っちょぉっと、泰明さんっっっ」
 「なんだ」
 「そんなにプリン食べたらご飯食べられなくなっちゃうでしょ、ダメ!」

 今まさに蓋を開けようとしていたものを、あかねにひったくられる。相変わらずやることが乱暴だ。片手に持っていた匙は行き場を失い泳いだ。

 「あかね、それを乱暴に扱うな。だいたい、わたしはあかねが作ったものは残したことはない………………あの厭わしい緑色の野菜以外なら…
 「そういう問題じゃありません。いいですか、プリンは毎食後1個って約束してください。御飯前は禁止です」
 「!!!!」
 「な、泣きそうな顔してもだめ。これは譲歩しません。泰明さんのお師匠様にもちゃんと言われてるんだから。“あの者が困ったことをしでかしたら、遠慮なく厳しくしてやってください。神子殿の鉄拳制裁ならばあの者にもよく効くでしょう、ふぁはははははっ”って」

 “ふぁはははははっ”のところで、あかねがふんぞり返った。
 どうやら師匠の口真似をしているらしいのだが―――しかし、

 「……あかね、まったく欠片も似ていな…………っっ〜〜!」

 真実を言ったのに、いきなり額を張られた……少し痛い…かもしれない。

 「だからっっそういう問題じゃないのーーー! プリン食べ過ぎはだめってことです! 甘いものばっかりだと虫歯になるし栄養も偏っちゃいます。ちゃんと約束してください。好きなものだけ食べていられるほど世の中あまくないんですよ」
 「師匠の奴、いつの間にあかねと結託したんだ」
 「文句言わないの。またもうすぐお誕生日でしょ。そのときにいっぱい食べればいいじゃない。それで………今日はもう何個食べちゃったんですか」
 「…朝から……………………6個
 「ろ、ろっこ!?」
 「―――…」
 「それ、もしかして全部…」
 「―――…全部、Big○ッチンプリン。だ…」
 「のぉぉぉーーーーーん!」
 そのまま両頬をひっぱられた。
 「あひゃね・・・いらい」
 痛い、と抗議する。しかし、気の抜けた音が出ただけであかねには巧く伝わらない。
 それから―――なんということだろう。

 「二日間プリン禁止!」
 「!!!!?」

 まだ残暑の続く9月の昼下がり。
 まったく、これは悪い卦だと思った。
 あちらの世界に居た頃から続く習慣の1つ、星見。昨晩、その星見によって顕れていた卦。
 (―――忍耐。静かに待ち続けること。それと共に齎されるもう1つの陽。動―――変革?)
 一見、何の脈絡もないように思え読み解けなかったもの。

 「忍耐とは……このことだったの…か……?」

 小さな呟きは、きっと、あかねには聴こえていない。またもバタバタと足音をたてながら、彼女は小さなつむじ風のように去っていってしまったから。
 今はすっかり存在意義を失ってしまった小さな匙と、暗澹とする思いと―――その2つだけが此処に残された。



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 すっかりプリンホリックな泰明殿。