長い孤独の果てに得たのは、幸福も不幸もなくただ一切は過ぎてゆくという真理だった。 その『一切』とは、人であり世の中であり、自分とは違う時間軸の中で過ごしている全てのものたちのこと。安倍家に属する禁忌の存在として、過ぎてゆく一切のものを見送りながら、生きてきた。 『偽り』、或いは、『仮初めの』―――生命というものに、そのような種類があること自体忌々(ゆゆ)しき事であり、自らがその忌々しき事の具現化した姿。だからこそ、過ぎ去ってゆく一切のものたち―――本物の生命には触れてはならないのだと、いつのころからかそう理解していた。 陰陽道を司る特殊な一族は、権力闘争の中で良きにつけ悪しきにつけ第三の勢力として大きな影響力を持つ。 その一族の中にあって人並み外れた陰陽の力を持ちながら、隠すように北山に庵を与えられて必要なときだけ下界に降りる。請われれば意見も述べるが、只、正統な血を引き継ぐ一族の長が一度決断を下せば、それに従い、その決断の下に陰陽の力を振るう。 決定事項に好悪を述べることの無意味をよく知っていたから。強大な陰陽の力を与えられた禁忌の存在は、一族が闇の内に請け負う仕事をいわば一手に担ってきた。 そうやって、漠と日々を送り、長い時を過ごしてきてしまっていた。 花梨を守るために差し出すこの手が、どれほど汚れていることか。 この身にどれほどの業が、澱んでいることか。 長い長い『時』の回廊を歩くことで積み上げられた、人ではないモノとして生かされてきた記憶は、温かな感情を自覚した瞬間に、無防備になった心を傷つける茨となった。 雪が舞っていたのを覚えている。 一面の白い世界。 音の無い世界。 一度掴んだはずの光に、背を向けて逃げ出そうとした。 自らを支えきれずに、どうして彼女の傍に居ることなどできようか? この世界に何の未練もなかったけれど、このような業を背負った身が彼女を慈しみ育んだ世界を汚すことが恐ろしかった。 その時、自分がどんな表情をしていたのかなど知る由もない。 彼女に一人で帰れと告げて屋敷を立ち去り、尚も追いすがる彼女の手を振り解いて、もう一度、同じ言葉を告げて背を向けた。 「………待って下さいっ!」 足早に立ち去ろうとする泰継に、花梨が叫んだ。 泣き声ではなかった。 きっと泣くのを堪えながら、凛とした声で。 「私は、諦めるなんて出来ません。みっともないけど―――こんなふうに追いかけて みっともないけど……絶対、諦めるなんてっ……。望むことを諦めたら、全部、そこで終わってしまいます。泰継さんが辛いなら、私にも……私にもそれを背負わせて下さい! 貴方を望むことで何か咎を受けるなら―――私は、喜んでそれを負いますっ!」 「―――」 「守られるばっかりじゃ嫌です……! 私も泰継さんを守ります!」 舞い落ちる雪片が二人を白い世界に閉じ込め、けれど、二人の間は白く淡い壁に隔たれ。天地の境も朧な身を切るように冷たい世界。その中で、花梨の言霊に撃たれたように泰継は動けなくなった。 止まない雪。 あとからあとから舞い落ちる雪片が、肩に髪に、淡く降り積もり、泰継は白い闇にのまれてゆく。闇にのまれながら、生き物としての本能か、柔らかな光を求めるように視線をさまよわせ、漸く、泰継は彼女の方へ身体を向けた。 隔たれた距離はそのままに。 雪の中に立ち尽くしている泰継の許に、花梨が走り寄る。 「今度は、私が泰継さんを守ります………傍に居て貴方を守ります。だから、泰継さんも望むことを諦めたりしないで下さい……お願いです!」 ただ呆然と。 それでも、飛び込んできた小さな身体を抱きとめ、泰継は何かを言おうとするが喉がカラカラで上手く声を出すことが出来ない。言うべき言の葉も何も浮かばずに、自分の腕の中にいる神気を帯びた魂に目を落とす。 何故なのかは、解らなかった。 何に対してなのかも、解らなかった。 自らが抱く感情の種類など、全く、見当もつかない。 怒りとも悔しさとも哀しみともつかないものが胸元から込上げてきて、震える手をその背に回して、小さな花梨を抱きしめた。 本物の人であれば、こんなときどうするのだろうか。 「………か…りん」 漸く喉から出た言葉は、彼女の真名だった。 「―――か…りん………花梨!」 ただ、愛しい者の名を呼んで、強く抱きしめた。 ―――欲しいのは彼女だけだった。 『何も望まないこと』と『諦めること』を繰り返してきた月日。 唯一囚われた彼の人の存在も、『諦め』の向こうに見ていた像。 全ては泰継を置いて過ぎ去ってゆく。 時の流れに取り残されていく『偽りの生命』には、過去も現在も未来も、ただの檻でしかない。その漠とした日々を断ち切ってくれたのは、あの日、鮮やかな色彩を持って泰継の前に現われた少女。 彼女に出会い、泰継は初めて―――「未来」を望んだ。彼女と共にある未来を。 ―――欲しいのは彼女だけだった。 傍に居て守るのだと言って、腕の中に飛び込んできてくれた小さな花梨。 泣きながら傷つきながら、それでも、望むことを諦めるなと、路を照らす。 彼女だけは、過ぎ去ってゆく一切のものたちとは違って時の回廊に佇む自分に手を伸べた。自分自身でさえ省みることの終ぞなかった、この身の内にあるものに目を向けて。 本当なら、いつでも出来た筈だった。 彼女の記憶を呪いで歪め、一人、元の世界へ帰すことなど造作もないことだった。 けれど、決してそれを選ばなかったのは、自分が望むことを諦めていなかったからだ。存在自体が偽りであるこの身にとって、唯一真実と言えるものは、彼女の存在。彼女の記憶の中にある自らを消し去ることに、それこそ、本当に自らを消し去るような錯覚を覚え、そうすることは選べなかったのだ。 「―――か…りん」 泣いているかのように名を呼び抱きしめる泰継の背をそっと撫でながら、花梨が涙混じりの声で訴えた。 「あんなに辛そうな顔して、一人で帰れなんて―――そんなの信じられる訳ないじゃないですか…」 止まない雪。 あの時と同じように、舞い落ちる雪片が二人を白い世界に閉じ込める。 「花梨」 名を呼んで、彼女の小さな手を自分の手でそっと包み込む。 マフラーに埋もれて花梨が笑った。 あの時の痛みは消えることなく今も此処にあり、時折耐えがたいほどの苦痛に襲われる。けれど、その苦痛には向き合わねばならないのだと悟った。 花梨と共に在るために。 長い間諦めることに慣れてしまっていたのだから、些か無理をする必要があるようだ。この身に過ぎた望みを持ったのだ。人ではない自分が、この世で最も尊い存在の傍らに在りたいなどと、大それた願いを抱いたのだから。 手を繋いで。 二人並んで、舞い落ちる雪をただ眺める。 足元も、目の前も、頭上も、真っ白な世界。 二人の髪に肩に淡く降り積もる雪は、いつのまにか天地の堺をかき消してしまい、天に向かっているのか、地に降りてゆくのか、それさえも分からなくなる。 只。 天とも地ともつかない白い闇の中、自分の手には唯一の光があることを確かめる。 光は全ての源なのだ。 悔恨も苦痛も焦燥も―――負の感情さえ、その光から生まれるもの。 「―――泰継さん」 「?」 「なんか、ふわふわ浮いているみたいだね」 花梨が、舞い落ちる雪片を目で追いながら笑った。 「長いエレベーターに乗って、外を見ているときみたい」 けれど、そう言って泰継を見上げる瞳は真剣なもので 「ずっと、傍にいてね」 「――――――」 「――――もう…一人で諦めたりしないでね………」 「ああ」 光を掴めば、そこは混沌としたカオスの世界。 「もう―――逃げたりはしない」 光を望むことで、その光を手に入れることで―――向き合わねばならぬ闇がある。その当たり前のことを、長い間気づかずにいた。 手を繋いで。 二人、只、舞い落ちる雪片を眺める。 あの時に似た白い闇の中、互いの存在を確認するために。 ** ** ** 『いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一切は過ぎて行きます。』(太宰治)より。継さんの過去を、阿鼻叫喚なものに完全捏造。よい子は信じちゃいけません。 |