斎 姫 の 告 白 (2)


 「泰継さん、あのね」
 「なんだ?」
 「こうやって雪が積もったときはね。私、夜の雪道では誰もいないのを見計らって、道路の真ん中で大の字で寝転ぶの」
 「………轢かれるぞ。車に」
 雪道を二人、花梨の家に向かって歩く。
 「こんなに積もると誰も外に出ないですよ。ここらへんの人は雪道が苦手だから。それにね、大きい道路じゃなくて住宅街の道路でやるの………道の真ん中で寝転んで自分の人型を雪道に何個もつくって―――」
 「あかねも喜びそうな遊びだ」
 「あ。そうですね。誘ったらきっと一緒にやるって変なポーズ考えて………それを見た泰明さんがしぶ〜い顔するの」
 可笑しそうに笑う花梨の髪に、粉雪が次々と舞い降りてくる。
 さきほど傘を差すかと訊くと、花梨はいらないと応えた。さらさらの細かい雪はこの町では珍しいから、と嬉しそうに笑って。午前中いっぱい花梨はあかねと雪塗れになって遊んでいた。今またこうして傘も差さずに雪の中を歩いて。
 「寒くはないのか?」
 「寒いけど、大丈夫ですよ……泰継さんは心配性なんだから。」
 そうだろうか、と、泰継は少し疑問に思いながらも、花梨が言うのならそうかもしれないと結論づける。自分自身がどう思われようと、生来あまり関心がない。花梨がそのように見ているのならば、自分は“心配性”でいいし、きっとそれが事実なのだろう。
 そんなことを思っていると、花梨が、また転びそうになって泰継の手を引っ張った。
 先程から、花梨は誰にも踏まれていない深い場所を選んで歩いているらしい。時折こうやって手を引っ張られるのは、彼女が雪に足を取られて体勢を崩すからだ。繋いだ手を離すわけにもいかず、泰継は、もう一方の腕を伸ばして花梨の髪にかかった粉雪を掃ってやる。
 「え?」
 予期せず髪に触れられて驚いたらしく、花梨が泰継のことを見上げる。けれど、すぐに首を竦めて大人しく粉雪を掃ってもらい、嬉しそうにしてまた微笑った。
 「………………」
 彼女が纏う気を確かめるように泰継は少し目を細める。
 花梨がそうやって微笑う理由を、泰継は知ることが出来ない。正確に言えば、“理解すること”が出来ない。長い経験から表情と感情との大雑把な対応は取れるものの、実際のところ人の抱く感情は種類が多く複雑で、正確に整合を取るのが難しい。人外のものである自分が知る由もない人の感情の機微であり、もしかしたら、踏み込んではいけない領域なのだろうとも思う。
 兎も角も、彼女の笑顔が心からのものであると、そう読み取ることができれば十分であった。
 「―――お前は、笑うと暖かい…な。殊更に」
 「?」
 暖かい雪などない。ただ、花梨が泰継に向けて微笑う度に、その笑顔が、まるで跡隠しの雪のように―――泰継の身の内に淡く降り積もっていく。明け方から降り続けた雪が町をこうして蓋い尽くしたように。
 彼女は、知らないはずだ。何も伝えてはいないのだから。それなのに茨のような記憶に、この心に茨のように絡みついた悪しき業(ごう)に、花梨の笑顔が齎す暖かな神気が淡く優しく密やかに降り積もった。
 身に澱んだそれらを浄化するでもなく、ただ彼女の神気が傷に寄り添うように淡く降り積もる。
 何も、花梨に伝えたことはないのに。

◇ ◇

 泰継の中に、一分の狂いなく積み上げられた記憶―――そのほとんどは、決して優しいものではない。
 死の臭いも、悪しきものに囚われた魂魄の叫びも、自分に向けられた幾千もの刃の如き憎悪も、全て覚えている。
 忘れることを赦されていないのか、覚えていることそのものが、この仮初の生命がこの世に存在する代償なのか、全てを覚えている。
 以前は、記憶は単なる事実の積み重ねでしかなかったのだ。けれど、花梨に出会ってから少しずつ、記憶には様々な感情が織り込まれていたことを知る。知る、というと語弊がある。そのことを認めた、と言った方がよいのだろう。
 記憶を単なる事実の積み重ねであると見做し長い時を耐えてきたのだという、自己防衛の結果を目の当たりにして、激しく動揺した。欠けることのない記憶と、期せずしてそこに織り込まれていた様々な感情は、「乾いた事実」とは程遠く重く湿度を伴うものだった。
 錆び付いた鉄のようにざらざらとした感触と、血の臭い。
 この手で黄泉へと屠ったものたちの魂魄が纏わりついてくる感触。
 触れてはいけなかった筈の本物の生命が、消えていく―――失われてゆくときの、悲しいほどの呆気なさ。
 温かかった師の眼差しに遂に向き合うことなく。それに何も応えることがなかったことへの大きな悔恨。
 生命の終わりを見送ったときの―――自分はまた置いていかれたのだと分ったときの、虚無。
 長い間感情を抱くことを放棄し、これらから目を背けてきた己の脆弱さ。
 それら一切の業に向き合ったとき、一度、激しく動揺した。京を去る少し前のこと。 こんなふうに粉雪が降る日だった。
 「―――花梨」
 「?」
 あの時手を離した自分は抱える咎について何一つ告げることなく、此処に居る。彼女が何も訊かないことに甘えて。
 「………いや。いい」
 それにしても、この言いようのない不安は何だろう。向き合うと、二度と逃げないと決めた筈なのに。そして、彼女の傍に居られれば、それで十分なのだと知っているのに。
 「泰継さんが何かを言いかけて止めちゃうなんて珍しい。どうしたんですか?」
 「………」
 うしろに手を引っ張られるようにして、立ち止まる。振り返ると花梨が困ったような表情をして泰継を見上げており、泰継は、思わずその視線からふぃっと目を逸らした。
 「もう。きちんと言ってくれなければ、分かりませんよ?」
 「………」
 伝えていないことが不安なのか。
 伝えきれないことが不安なのか。
 それとも―――伝えること、そのものが不安なのか。
 自分でもよく分からないから、説明の仕様がなかった。何も整理がつかないまま、混沌とした不安を言の葉に載せることが躊躇われた。ひとたび発せられた言霊は、もう、回収も訂正も叶わないのだ。負の言霊を打ち消すにはそれと同等の正の言霊を。負の量を測りがたい「思い」は軽々しく言の葉に載せるべきではない。
 逡巡しながら、泰継は腕を伸ばし花梨を抱き寄せる。
 「ただ―――お前に」
 告げる必要があるのかどうか判ぜぬ、と。呟くように言い花梨を抱き締める。
 「必要かどうか、ではなくて」
 泰継さんが思っていることを知りたいです、と花梨は言う。どこか遠慮がちに、泰継の背にその両腕を回して抱き返しながら。
 「傍に居られれば、お前が望む限り傍に居られれば―――それで十分なのだと」
それを知っているのに。
 「―――泰継さん?」
 戸惑いながら名を呼ぶ柔らかな声は、唯一、愛しいものの声。夜の雪道を歩いてきたその小さな体は冷え切っていて、抱き締めると彼女の存在の輪郭がより際立って腕に伝わった。
 夕刻の街に降る、密やかな雪の音だけが、泰継の耳に届く。
 この量りがたい負の感情を告げれば、きっと花梨を、自分にとって唯一確かな存在である彼女を―――悲しませてしまうのだろう。
 ただぼんやりと判るそのことが、酷く気がかりだった。



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 90年何もなかったとは言わせませんよ、継爺。拙宅仕様では泰継さん、過去になんかいろいろあったらしいひとです。
 詳しくは『ノスタルジア』で書く予定…なのですが、安倍家の大事な人の生死にかかわるようなことぐらいはあっただろうな、、、なんてことを妄想します。