天 体 観 測 (2)




 花梨が修学旅行に出発した日の宵。泰継は、ルーフバルコニーに天体望遠鏡を持ち出し、独りで夜空を眺めていた。
 京に比べて、こちらは夜がひどく明るく星の数も少ない。それでもこの星観の道具があれば、京にいるころには見えなかった星まで観ることができた。この天体望遠鏡は、あかねと泰明が「引越し祝い」という名目で泰継に贈ってくれたものだ。身ひとつで異界に飛び込むことが「引越し」に当たるのか怪しいところだと思ったが、あかねには逆らわないほうがよいと………本能が警鐘を鳴らしたので黙っていた。
 ここに住まわせてもらっているだけでも十分だからと一度は断ったが、泰明は、
 「遠慮は無用だ」
と取り付く島もないし、あかねの方も、
 「泰継さんに会えたのが嬉しいから、贈らせてください」
と譲らなかった。
 「花梨ちゃんから、泰継さんは星を観るのが好きだって聞いたから。でも、遠慮してもらうほど高価なものじゃないの、ゴメンね」
あかねは、肩をすぼめて悪戯っぽく笑い、
 「泰明さんの家族は、私にとっても大切な人なんだよ」
温かい眼差しを向けてそう言った。

 (――――――!)

 それは遠い昔―――泰継に名を与えた人の眼差しとよく似た温かさで、泰継を動揺させた。
 京に於いて花梨への想いを自覚してから少しずつ、泰継の記憶には別の色合いが重ねられるようになっていた。単なる事実の積み重ねでしかなかった記憶を手繰ると、いつのまにか「悔恨」や「苦痛」、そして「寂寥」といった負の感情がつきまとっていて、時折、こんなふうに泰継を動揺させる。あの頃―――その人が生きていた頃は、その温かさに気づかなかった。泰継の眠りの時期に師は逝ってしまったから、その死に目には会っていない。ただ、泰継のことを最期まで気にかけていたと人づてに聞かされた。
 ―――あれを大事にしてやってくれ、そう言い遺されたと。
 忘却を持たない泰継は、師匠の眼差しを今でも鮮明に思い出すことができる。記憶の中の像だけれど、今の泰継にはその温かさを感じ取ることができた。温かさごと記憶していたのは、よかったことなのか悪かったことなのか………ただ、彼の人が生きているうちにその温かさに気づくことができなかった己と、とうに亡くしてしまった大切な人とを思い、胸が痛んだ。
 「私、天体望遠鏡の使い方、少しは知ってるんですよ。うろ覚えですけど」
 傍らにいた花梨がそっと手を握ってくれて、泰継に笑いかけてきた。
 陽だまりのような優しい笑顔。泰継は、眼を伏せてそっと息を吐く。
 そうだ、彼女がいるから自分は積み上げられた記憶を乗り越えられる。大丈夫だ。
 「―――あ…りがとう」
そう言うと、あかねが笑った。花梨によく似た柔らかい笑顔だと思った。

 あのときの自分の感情を的確に表せる言葉は、「ありがとう」のたった一言だったと思う。
 ―――優しくて温かい、新しい家族「泰明」と彼の神子「あかね」に。
 ―――人型を与え慈しんで下さった「お師匠」に。
 ―――心をくれた愛しい「花梨」に。

多分、すべての人たちに対して。

◇ ◇

 どのようにして手に入れたのかは知らないが、花梨によると、泰明の住まいは「高級」な部類に入るという。
 ルーフバルコニー付の3LDK。
 「北山のように静かな場所ではないが。好きに使え」
 そう言って、泰明は空いている一部屋を泰継に宛がってくれた。
 バルコニーは、東から南にかけてひらけている。周りに高い建物がないから遠くまで見渡せて、ここは天体観測には絶好の場所だ。
 南東の方角に青白い月が昇っていた。
 泰継は、天体望遠鏡を月の方向にあわせ接眼レンズを選ぶ。きっと花梨がいる旅先でも同じ月が観えるのだろうから、そう思えば、少しは寂しさがまぎれるというものだ。
 レンズいっぱいに観える月の光はずいぶんと強い。レンズに切り取られた月の断片。そこには、クレーターの一つ一つが見え、ウサギの姿など想像もできない荒々しさだ。
 眼を上げて天空を仰げば、浮かんでいるのは淡く儚い月。花梨が言うようにウサギの姿も見える。

 「………」
 ふいに、背後の窓が開いた。気配で誰が来たのか十分に分かるので、ゆっくりと振り返る。
 「戻ったのか」
 「ああ。………月か?」
 「そうだ」
 バルコニー用の外履きをつっかけて、泰明が近づいてきた。泰継の隣に並んで、泰明も月を見上げる。
 「………」
 「………」
 用があるからここまで来たはずなのに、泰明は無言だ。
 「………すぐに夕餉にするか?」
 「いや。もう少し後でかまわない。それより………」

 おずおずと、泰明がコンビニの袋を差し出した。

 「?」
 「………あかねが」
 「??」
 「気落ちしたときは、甘いものを食べると元気になると、以前言っていたので」

 照れているときの癖で、泰明はこちらを見ない。泰明のことを先代と呼ぶ泰継に向かって、真名で呼べと、そう言ったときと同じ表情だった。
 泰明は、ぐいっとその袋を泰継に押し付けると、スタスタとまた部屋に戻っていってしまう。

 「………」

 押し付けられた袋を手に、泰継は呆然と彼の背を見送った。

◇ ◇

 泰明はとても優しい。
 精一杯、というか、むしろ背伸びをして泰継のことを気遣ってくれる。
 袋の中を見て何だか可笑しくなった。泰明の不器用な優しさが、ひどく面映い。
 (自分が好きなものを他人にやっても、しようがないだろう………)
 泰継は甘いものが苦手であるにも拘らず、押し付けられたコンビニの袋には、「Bigプッ○ンプリン」が一つ。そうだ、可笑しがっている場合ではない。
 (これは………キツイ…かも知れない)
 しかし、そう口には出すことは憚られる。これを選んだのは、そのまま、泰明の気遣いの深さというか大きさを表しているのだろうから。泰明は、気落ちしている泰継を励ますために彼の神子の言葉を思い出し、そして、甘いものといったら自分の大好物のプリンのことしか思いつかなくて………。
 (―――ああ、本当に泰明には敵わない)
 彼が京に残した書付や、安倍家に残る伝承から伺えるのは、「優秀で冷徹な陰陽師」、「人となりえた完璧なモノ」といった血の通わない像。でもそれは、彼のごく一面を強調して表現した言葉に過ぎなかったのだろう。丁度、レンズごしに観る月の断片のように、京で知っていた彼は、彼の断片でしかない。こうして己の眼で見れば、彼には様々な表情があり、少し離れて全体像を見ればどこか幼さが漂っていて優しいのだ。
 (―――とは言え、どうしたものか)
 せっかくの泰明の心遣い。食べないでおけば、大いに拗ねられそうだ。だからと言って、あかねに言おうものなら―――だめだ、問題大有りだ。泰明は例のデコピンを食らって、引籠り決定だろう。
 だいたい泰明とあかねは実に下らないことで喧嘩を始める。経過を見ていると、一方的に泰明がやり込められて部屋に引篭もって不貞寝して終わるのがほとんどなのだ。
 (しかし、これは………無理だろう)
 花梨に関すること以外で無理だと判っているものに挑戦するほどの若さは、自分にはない。容量176gという文字を見ながら、それ以上にこの物体を重く感じ。そのように理に則さないことを感じるとは、自分も随分人らしくなったものだと。また何の解決にもならない感想しか浮かんでこない。

 (―――花梨。早く帰ってきてくれ…)

 結局は、今朝出発したばかりの花梨の帰りを月に強く願うことしかできず、あまりにも情けない自分に、泰継はさらに落ち込んだ。



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 うちの継は、本当に情けないです。
 あのスチルの天体望遠鏡。ガタイがよすぎです。あんなゴツイ天体望遠鏡いまどきない!