あかねの優しさは、時折、ネズミ花火みたいだと泰明は思う。 彼女が直球で投げたつもりの優しさは、思わぬ方向から投げ込まれたネズミ花火みたいに、驚きと困惑と苦笑を齎すから。たまに、そのネズミ花火を素手で掴んでしまって怪我をさせられるようなこともある。それは大抵、自分の役回りなのだけれど。 だから今、冷蔵庫の扉の張り紙を見ても―――無論、暗澹たる思いはしているけれど―――ああまたあかねがやってくれたな…と、すっかり慣れてしまったことに半ば呆れながら。それでも、矢張り気が重くなりながら。泰明は、冷蔵庫の前にペタリと座り込んだ。 その日も自宅に戻りその扉を開けて、あかねが云うところの“小さな幸せ”というものを確認するはずだったのだ、僅かに浮き立つ心持で。 が、トンネルを抜けるとそこは雪国だったという彼の一文の如く、そこは予期していたものとは別世界で、泰明は咄嗟に凄い勢いで扉を閉めた。何しろ、扉の向こうは忌まわしくもつややかな緑色の物体でいっぱいだったのだから。苦いばかりで中身もなく、泰明にとってはその存在意義すら疑わしい彼の野菜で。 それに追い討ちをかけるように目に飛び込んできたのは冷蔵庫の扉に張り付いた文字。 『ピーマン強化週間』というその字面は、最愛のひと―――あかねの気まぐれで且つ絶対的拘束力のある教育的指導の発動を意味していた。 花梨の飼い犬の散歩を終えて自宅に戻った泰継は、玄関のドアの前で訝しんだ。 泰明の気配はするのに、家の灯りが点いていない。玄関からリビングへと入り、ギョッとした。真っ暗な中、冷蔵庫の前で座り込んでいる泰明の姿を見つけたから。 「泰明?」 「………」 部屋の灯りを点けると、泰明が我に返った様子で泰継を見上げる。 「継、あかねが来たのか?」 「ああ」 「―――」 やけに年相応にしょんぼりとする泰明の姿に、泰継は苦笑う。泰明の日課の一つは、外出先からの帰宅とともに冷蔵庫の中に並んだプリンを眺めること。この日課の一時を泰明は小さな幸せと呼んでいた。ところが、冷蔵庫の中は例のものでいっぱいだったから、泰明の小さな幸せは吹き飛ばされてしまったのだろう。 「言っておくが、ほぼ一週間分の献立も指定されている」 「?」 「私に、毎日ピーマン料理を作れと言い置いていったぞ。あかねは」 「どういうことだ」 「あかねは今週多忙につき、此処へはあまり顔を出さないそうだ」 「あかねのそのような予定―――私は聞いていない」 ぶっと、泰明がむくれた。泰継から目を逸らし、何もかもが気に食わん、と言ってさらにむくれた。 「何もかも………とは?」 仕方無に、泰継は幼い兄の言を促す。 「あかねに逆らえぬ継のことも、矢鱈と継のことを気遣うあかねのことも。継に言われればあの厭わしい緑の物体を食すであろう自分のことも」 「………」 「それに」 「?」 「―――よくは解せぬものの…悔しい―――と思っている」 「くやしい?」 「第一に、継に対して悔しい。私が知らないあかねの予定を継が知っているのが悔しい」 そう言った後、これは継のせいではなく急な思いつきで行動するあかねのせいで、きっと八つ当たりというものであろうと、幼い兄はそんなふうに自らの感情を説明する。 「第二に、あかねに対して悔しい。継のことを大切に扱うのは、私の役目であるのに。あかねに先を越されたような気がする」 花梨に先を越されるのは当然のことながら、あかねに先を越されるのは気に食わんと眉間に皺を寄せて言い、さらに、継の一番の家族は、私であってあかねではないのだから―――と、今度は気恥ずかしそうにして勿論泰継とは目を合わさずに言う。 「………」 “第一の悔しい”は概ね理解できるものの、“第二の悔しい”が、泰継には腑に落ちない。どのあたりで、あかねが自分のことを大切に扱っているのかが、まず判らない。 今朝も踵落しを二発も食らったのだから。その腑に落ちないところを訊ねてよいものかどうか考え込みながら、冷蔵庫にもたれかかって座り込んだ泰明の傍に泰継もなんとなく座り込んでみる。 いつもは怜悧で大人びている泰明であるが、時折、幼子のようにあからさまに不機嫌を表情に出すことがある。大抵はあかねがらみのことなので、泰継にはお手上げである。ただ、どうするというでもなく、泰継は泰明の傍に座って同じように部屋を見上げた。 静かな部屋に、冷蔵庫のモーター音が低く響く。 二人並んで、いつもよりぐっと低い目線で、部屋の天井や調度品を眺めた。引き出しの取っ手をこんなふうに下から眺めるのは初めてだったし、照明の影が天井に淡い模様をつけていることにも、そういえば目に留めたことはなかった。 偽物の灯りがやけに遠く高い位置に見えて、存外この空間は広いのだと知る。例えば幼い子供であれば―――世界はこのように見えるのだろうか、と泰継はぼんやりと考える。 「―――私たちは…家族というものの在り方を知らない。」 尚も不機嫌そうに泰明は呟き、泰継は、そうだな、と短く応える。子供の目線で世界を眺めながら記憶を手繰るものの、やはり実感の伴う“家族”は見当たらない。花梨に対して恋情や愛情らしきものを抱いている自覚はあるのだが、それが人が抱くものと同じであると断言することはできない。むしろ、違うものであろうと断言するほうが易い。ましてや真に家族というものを持たなかったものにとって、肉親への親愛の情となると、雲を掴むような話である。それに似た温もりを、易く想像することができないのだから。また、知っている温もりが正しくそれと同じであると、とても断言する勇気はなかった。人ではないものとしていかされた時間が、あまりにも長く当り前であったから。 思えば、ごく身近に家族というものを眺めたことはあったけれど、ガラス一枚を隔てた向こうにそれを見ていたようなものだった。泰継は常に傍観者であり、目に映る人の営みはすべて他人事であり、触れる必要のないもの、触れてはいけないもの。ただ、ガラスケースの中の動く絵巻物を目で追うようにそれを眺め、時に分析し、知識として蓄積する。それだけのことだった。真逆、自分がガラスケースの中の登場人物になる日がこようとは………夢にも思わずに生きてきた。 泰明にとってもそれは同じことだろう。異界の地で、僅か三年に満たない時間を彼の創造主と共に過ごしてきただけで、その生活は普通の親子とも些か異なる関係の上に成り立っていたようだ。 「継」 「なんだ?」 「………以前、師に言われたのだ」 「?」 「いずれ継に出会うことがあったら、私は兄として継の幸いを願ってやるようにと」 「―――我々の創造主が?」 「そうだ」 出会ったとき、“先代”ではなくて真名で呼べと、泰明は言った。そうして、付け足すようにポツリと―――家族だから、と伏し目がちにそう言ったのだ。もしかしたら、それは泰継にではなく自身に言い聞かせたものだったのかもしれない。 「まさか、年上どころか年老いた弟であるとは思わなかっただろう」 「まったくだ。継のほうが兄どころか親のようではないか。私にとっては師の言葉は難題になった」 「面妖しなものだ。兄や弟の在り方どころか、私たちは家族を知らないのだから…そも我々はひとではない…どこまでいっても“人に似たもの”でしかないのに」 ついぞ出会うことのなかった創造主は、自分たちに何を求めたのだろうか。人のようにつくり人の情愛に似た感情を持つ余地を与え―――その先に何を求めたのだろう。今、自分たちはその先が解らずに、こうして台所の一隅で座り込んでいるのかもしれない。 「あかねは、家族というものはさり気無く優しく空気のようなものなのだ、という」 「………」 「わたしには難しく、解らない―――“優しい”も“空気”も解かるのだ。しかし“さり気無く優しい”と“空気のようなもの”が解らない」 「――――――同感だ」 二人して、可笑しくなって笑った。 創造主と、龍神のお陰でやたらややこしい関係になってしまった、この現状も。家族を知らないくせに、互いに家族のようなものでありたいと、どうやら、そう思っているらしい自分たちのことも。あかねが個性的であるために、その言が上手く伝わらないもどかしさも。今現在、大の男が二人、台所の片隅の床に座り込んでいる図も。 全部が可笑しかった。 泰継も泰明も、能動的に誰かに優しさを与えることに慣れていない。 或いは、まっさらな優しさを受け取ることに慣れていない。最も正しく家族というものを知っているはずのあかねは、あのとおりであるし。それぞれを思い遣りながら、少しずつ的から外れたことをして互いに振り回されている。そんな関係が滑稽で温かく、けれど少し疲れるもので、可笑しかった。 もしかしたら、花梨もどこかずれているのかもしれない、と泰継は思う。彼女もまた肉親と縁の薄い娘であるから、家族というものへの憧憬から背伸びをしたり勘違いをして―――その優しさの表し方が他人とは違うのかもしれない。幸いにも、自分にはきちんと優しさとして届くものだけれど。 まるでままごとのような関係なのだ、自分たちは。 「それにしても…」 一体どの辺りが、あかねの気遣いなのかと泰明に問うてみる。先ほど、泰継を気遣うあかねに対して悔しいと、泰明は言ったのだ。そのあかねに踵落しを二発もくらった泰継は、泰明の言が腑に落ちない。 「あかねは好ましく思うものに対してだけ………容赦しないから………」 実に面白くなさそうな表情をして、泰明は言う。 「昨日から継が不貞寝していると言ったから、あかねが起こしにきたのだろう」 「―――何も手荒に起こすことはないだろう」 「手荒にしても、お前は怒らない」 「――――」 「継には、暖かで清浄な気が見えるから…。あかねが手荒なマネをしてもそれが悪意からのものではないと、正しく見分けられる。だから、あかねは継のことを好ましく思い、大切にする」 「―――あれで、か?」 「あれが、あかねのやり方だ。あかねがあかねらしくあるのは、気を許しているからだ」 「勘弁してくれ」 「それは私の言い分だ。継の気落ちが甚だしいので、私まで巻き込まれたではないか」 「?」 「このピーマン強化週間は、継の気を紛らわせるためのもの」 「―――」 「あかねが此処に来れないと言い出したのも、花梨が来ないことに合わせたものだ、恐らく」 「それが…」 「ああ。あかねはやたらと継を気遣っている。私が継の兄として継を気遣う余地を妨げるほどに」 「あかねの思考は……分かり難いな」 「そうか? 分かり易いと、わたしは思うが」 泰継は嘆息する。 やはり、泰明には敵わない。 「あかねは、到底、私の手には負えん。私は、花梨でさえ手を焼いたのだから」 「だろう? あかねは私にしか守れない」 おかしそうに笑う泰明を見て、どうやら機嫌が直ったようだと判断し泰継は切り出してみる。 「で。言い難い事なのだが。しっかりお前には食べてもらわなければならないようだ」 「―――」 はぁぁっと。大きな溜息を吐いて泰明は頷く。観念した、という表情で。 「そんなにあの野菜が嫌なら、何ぞ呪でもかけてやろうか?」 「―――継の呪にかかるのも、また癪だ」 眉を寄せてそんなふうに呟く幼い兄に泰継も笑う。こういうところがまだ子供だ、と。 「それに………あかねに言われると意地でもあの野菜を口にしたくなくなるのだが、継に言われれば、さほどのことでもない」 「何故?」 「あかねの気を惹こうと―――意地になってしまうだけだ」 憮然としながら目を伏せて呟く泰明に、再び泰継は笑う。やはり、まだ子供だ、と。 「いろいろと複雑なことだな」 「継、お前今―――私のことを幼子のようだと、そう思ったな」 優秀な陰陽師相手に嘘を吐くのも馬鹿馬鹿しいのだが、なんとなく悪戯心が芽生えて、泰継はしれっとして応える。 ―――兄上をそのように思うはずが無い、と。 そう言えば泰明のことを兄上と呼んだことがなかったと思い、ほんの冗談のつもりでそう呼んだのだ。しかし、 がたんっ! と、音を立てながら泰明が立ち上がる。酷く慌てていて、気も大きく乱れ、耳まで紅い。 「泰明、お前………」 どうやら兄上と呼ばれてストレートに照れてしまった様子で、泰継は、彼の素直さに改めて驚かされる。すっかり顔を紅くしている泰明を見ながら、なんとなくこいつのために無理をしてやってもよいかもしれないという心持になり、後で大いに後悔することになるのだけれど―――このとき泰継は、例のBigプッ○ンプリンを食す一大決心をした。 ** ** ** 泰泰でホームドラマ。 花梨と一緒も継の幸せだけれど、できれば、泰明のことも大事に思い、泰明にも大事にされてほしい、私のそんな妄想です〜。 |