夏 が 来 た (1)




 この季節の暗緑(あんりょく)を、貴方は美しいと言って目を細めた。

◇ ◇

 梅雨が終わり、今年初めて本州に上陸した台風が過ぎた翌日のこと。急激に気温が上がって、この町に夏が来た。それは唐突に訪れた季節。台風がつれてきた亜熱帯の空気は湿気を含んで、重く纏わりつくようだ。それでいて、雨雲は綺麗に取り払われてしまい、金色の太陽から強い日差しが照りつける。
 溶けるように暑い、夏の午後。
 湿気と、緩やかな風と、蝉の声があたりを満たしていた。
 (暑いなぁ………)
 花梨は、縁台に座って眩しそうに陽を見上げている泰継の後姿を見遣る。ちょっと憎たらしいくらいに涼やかな様子で、彼は其処にいた。
 父方の祖母と、花梨、それから飼い犬の耕太郎とが暮らすこの家には広めの庭があり、庭に面した仏間にしつらえた縁台が泰継の指定席だった。これといった立派な木も花もない生垣に囲われたこの庭を泰継はとても気に入っていて、花梨を訪ねてくれば、必ずこの縁台に腰を下ろして庭を眺める。そんなときは、泰継の足元に耕太郎が寄ってきて鼻をピスピスと鳴らして嬉しそうにした。
 今も、日陰になった縁台の下、泰継の足元で耕太郎が仰向けになって寝ている。寡黙でぶっきら棒だけれど、その穏やかで優しい気質はすぐに理解されて、花梨の祖母にも耕太郎にも彼はひどく好かれていた。
 「泰継さん、スイカだよ〜」
 「ん………。」
 余程、夏の日差しが珍しいのか、泰継からは生返事が返ってきた。彼が座る縁台のほうから風が吹き、涼やかな風鈴の音と共に家の中を過ぎていく。

◇ ◇

 昨晩の台風のことを心配して、朝早くに泰継から電話がかかった。むやみに式神を使ったりしてはいけないと約束させられてから、ようやく携帯電話を使い慣れてきたようだった。
 花梨の通う高校は期末試験が終わればそのまま休みに入り、一日だけ通知表を受け取りに登校する。今は、その通知表待ちの「プレ夏休み」とも言える期間。塾の夏期講習も始まっていないので、例によって泰継のところにでも遊びに行こうかと思っていたのだけど、昨晩の台風で庭が随分荒れてしまった。掛かってきた電話でそのことを告げ、今日は庭の掃除をすると言ったら、午前中から泰継のほうがこの家を訪ねてきた。
 両親が亡くなってからかというもの花梨の家には、男手がない。だから、こんな風に泰継が訪ねてきてくれたことを花梨の祖母はたいそう喜んだ。
 彼は見かけによらず力があるから、折れた枝の片付けやごみ出し、さらに雨樋の修理まで淡々とこなして、先ほど漸く彼の指定席に腰を落ち着けたのだ。
 「泰継さん、お日様が珍しい?」
 呼んでも部屋に戻ってこないので、花梨は縁台に進み、泰継の隣に腰を下ろす。庭木と軒で影ができて、その縁台の一端は思いのほか涼しい場所だった。
 「私は、毎年眠りの時期だったからこの季節を知らない」
 琥珀と翡翠の瞳が、夏の陽を受けてキラキラとしていた。前髪が、さらさらと風に靡いている。

◇ ◇

 長い時を生きてきたのに彼の心は無垢なままで、それを奇跡のようだと花梨は思う。 彼を守り育むべきだった安倍家の人々にとって、90年の間姿の変わらぬこの美しい異形の人は、禁忌の存在だったという。
 人並はずれた陰陽の力と共に与えられたのは、酷く不安定な身体。三月毎に繰り返す眠りと目覚めのサイクルは、必然的に彼に二つの季節を行ったり来たりさせることとなる。そして、精緻な理性とはアンバランスなほど、あまりにも柔らかく優しい感情。
 飾る言葉も偽る言葉も一切持たない彼は、自らの心を守る術を知らず。いつの間にか、周囲の人々が言う蔑みの言葉を受け入れ、すべてから遠ざかって生きることを覚えてしまっていた。
 ―――人外の者。
 ―――出来損ないのヒトガタ。
 ―――安倍家の道具。
 ―――偽物。
そんな日常を、長い間彼はたった独りで生きてきた。

 「このように強く照りつける陽も、それを受けてなお涼やかな暗緑(あんりょく)も………私は初めて目にするものだ」
 いつになく饒舌な彼を見て、花梨も思わず笑顔になる。無垢な心は、自然に触れて素直に感動を覚えたのだろう。照りつける太陽を見て、生命力に溢れる緑を見て、吹き抜けてゆく風を感じて、すべてが真新しく彼の目にはキラキラと眩しく映っているに違いない。
 無心に木々の葉を見遣る彼の隣で、花梨も、照りつける太陽の光を受け止める葉の暗緑を見上げる。
 (―――この緑色を、泰継さんは知らなかった………)
 他の人が見れば相変わらず無表情なのだろうけれど、花梨には分かるのだ。

 (泰継さんが、すごーく、はしゃいでる!)