夕 間 暮 れ (1)


 耕太郎がこの家にやってきたのは、花梨が小学2年生のとき。
 まだ生後3ヶ月の茶色の柴犬は、濡れた真っ黒な鼻とつぶらな瞳、そして、ピンクの肉球がかわいい男の子だった。抱き上げてその白いお腹に自分の鼻をくっつけると、仄かにミルクの匂いがしたのを覚えている。
 「―――まだ、赤ちゃんだからね」
花梨の目線まで膝を落とし、
 「たくさん眠らなきゃならないの。だから、花梨は、この子が眠っているのを邪魔しちゃ駄目なのよ」
花梨の頬に手を沿えて、分かった?と聞く優しい声。
 「花梨の弟だよ。それから、大事なお友達だな」
 「そのうち毎日お散歩に行って、他のお友達に会ったらきちんとご挨拶したり、そういうのを、花梨が教えてあげるのよ」
 深まる秋の頃だった。
 庭木の紅葉が色づき始め、よく晴れた日とは裏腹に涼しい風が吹き込んできた。まだ幼かった頃の記憶。
 両親の優しい笑顔と新しくやってきた仔犬の温かさ。風が運んできた秋色の光と木の葉の匂い。そして、風に揺れたワンピースの裾と、祖母が着せてくれたカーディガンの袖、自分の小さな手。それは、幸福な時間の記憶の断片。
 程なくしてこの世を去ってしまったから、この記憶の断片の中にあるのが、両親の最後の笑顔だと思う。あれから10年―――否、この夏が過ぎれば11年だ。
 父方の祖母と、耕太郎と、花梨。ずっと3人(2人と1匹)で暮らしてきた。

◇ ◇

 文庫本を手にとり、花梨は大きな溜息を吐く。
 夏休みの読書課題であるその本を読んで、花梨はすっかり淋しくなってしまった。
 淋しくなるようなそんな内容の本ではないのだ、本当は。
 生きとし生けるものすべての種には生命の時間軸が決まっていて、短命に思えるネズミも長命に思えるゾウも、それぞれの時間軸の中で暮らしている。鼓動の早さもその一生の長さに応じたものであって、彼らが短命であるとか長命であるとかは一概には言えない。
 それで耕太郎のことを思った。
 きゅうきゅう鳴きながら花梨の後ろをついて回っていた耕太郎は、いつのまにかその一生の大半を過ぎてしまい、その終わりが見えそうなところに来ている。ゾウとネズミの時間が違うのは、別にいいと思った。ゾウはゾウの群れの中で暮らし、ネズミはネズミの群れの中で暮らしている。ゾウとネズミは一緒にいないから、お互いの時間の流れが違っても悲しくはない。
 (―――じゃあ、身近な人と流れる時間が違ったら………)
 庭を見遣ると、木陰で耕太郎が仰向けになって眠っていた。
 (もう………。すっかり油断してるよ)
 遠くない未来に、花梨は、きっと耕太郎を見送らなければならないのだろう。番犬らしからぬだらしない寝姿は笑いを誘うのに、急に淋しくなって花梨は庭に面した窓を開け縁台に進み出た。
 「耕太郎?」
 呼べば、耳をピクリと立てて身を起こし、耕太郎がこちらへ寄ってきた。尾を振りながら嬉しそうにして、ピスピスと鼻を鳴らしている。
 時の進み方が違うから、耕太郎は花梨を追い越して成犬となり、いまや老犬といってもよい年になっている。真っ黒だった鼻も少し赤みがかり、睫毛や髭に白髪が混じるようになってきた。
 「公園に行こうか、耕太郎」
 夏の陽が傾き、もうすぐ夕間暮れの時刻。緩やかな風には涼が混ざり、蜩(ひぐらし)の声が辺りを満たしていた。
 「耕太郎…大好きだからね、私を一人にしないでね……」
 きゅっと小さな体を抱き締めると、耳元に耕太郎の鼻息がかかった。

◇ ◇

 祖母も、いつまで元気で居てくれるか分からない。
 耕太郎も。
 それに………大好きな人は………どうだろう?
 多分、彼を見送るのは途轍もなく辛いと思う。
 こちらに来て間もない冬の日、彼―――泰継が不安を口にした。ずっと心に秘めて耐えてきた不安を、彼が、躊躇いながらも伝えてくれたのだ。
 「―――私に、あとどれほどの時が残されているのだろう」
 人の一生に相当する時間を過ごしてきた彼が口にした言葉。あれは、花梨を遺してゆくことへの不安だった。
 「それとも時の進み方が違って………お前を見送らねばならないのだろうか」
 時間の流れに取り残されて、多くの人を見送ってきた彼が口にしたもう一つの不安。あれは、花梨に遺されてゆくことへの不安だった。けれど、そう口にしたあとで、
 「―――そのどちらになっても花梨の傍に居たいのだ………」
 そう告白して彼は笑った。
 雪明りの中、透き通るような切ない笑顔だった。

 耕太郎をぎゅっと抱き締めたまま、花梨は溜息を吐く。今はまだ現実ではないけれど、いつかやってくる悲しい別れ。 両親が亡くなったときの大きすぎる喪失感を、花梨はまだ生々しく思い出せるのだ。
 (あれを、もう一度? あと何回? ううん、あれ以上かもしれない)
 泰継が口にした不安は、どちらも覚悟しておくべきだろうと思う。
 (わかっているけど、考えるだけでも辛いなぁ…)
 先生が変な本を課題にするからいけないんだ。こんなこと考えたくなかったのに。うっかり涙が滲んでしまい、ぐずぐずしていると、耕太郎が心配そうに花梨の頬に鼻をくっつけてきた。
 「…耕太郎?」
 耕太郎からは、もうミルクの匂いはしない。かわりにお日様の匂いがした。
 「ずぅっと傍に居てね」
 夏毛に生え変わった耕太郎は、少し、スマートだった。

◇ ◇

 (あ………)

 急に目の前に影ができて、ふわりと菊花の香が漂った。
 「や…す……つぐ…さん?」
 花梨は、耕太郎ごと彼に抱き締められていた。長い両腕に閉じ込められて、背中に彼の鼓動が伝わる。耳元で、落ち着いた低い声がした。
 「何を泣いている…?」
 「泣いてないもん………」
 ずずっと鼻をすすって言うと、彼の長い指が目元をかすめた。
 「これは何だ?」
 「………知らない」
 弱気になっていた自分が嫌で、どうしても素直な言葉が出てこない。いつになく強情な花梨の態度に、呆れたのかもしれない。彼が、一つ溜め息を吐いた。
 「耕太郎が、散歩に出たいと言っている。行ってやるのだろう?」
 「………うん」
 「花梨が悲しそうにしているので心配だと、耕太郎が言っている」
 「………?」
 「それに、花梨が寂しがるので、散歩には私も一緒についてきて欲しいと………耕太郎が言っている」
 「………」
 この人の冗談は分かり難いから困る、と花梨は思う。
 「もう、泰継さん………なんでも耕太郎のせいにしないで下さい」
 なんだか可笑しくなって振り返ると、彼が笑った。
 「泣き止んだか?」
 「う”………うん」
 「やはり、泣いていたのだろう」
 そのまま、彼の手が頬に触れてきた。
 「私の前で我慢することはない。花梨はもっと私に寄りかかってもよいのだ。私はそのためにお前の傍にいる」
 「………ありがとう。ちょっと両親のこととか思い出して。ちょうど耕太郎が家に来た頃に亡くなったから…。もう大丈夫です」

 嘘。
 本当は、貴方のことを考えていました。
 違う時間軸に沿って生きているかもしれない貴方のことを。
 耕太郎にも、お祖母ちゃんにも置いていかれるのは分かっていること。だから、覚悟はとうに出来ています。けれど、貴方に置いていかれることも。貴方を置いていくことも。それを考えただけで、私は涙が出ます。

 「花梨?」
 上手く笑えないから、彼が不審な表情で首を傾げた。
 「………散歩、行きましょう?」
 「ああ」
 彼が、耕太郎のリードを取り、もう片方の手を差し出した。花梨は、そこに自分の手を重ねる。
 「こんなふうにいつも手を繋いているのは暑苦しいと天真が言っていた」
 「そうなんですか?」
 あかねの親友で、泰継の兄の恋敵であった天真―――先代の地の青龍は、ずけずけとした物言いをする。そのくせ親分肌だから面倒見がよくて、異界からやってきた泰継の兄のことも泰継のことも何かと気にかけてくれる温かい人だ。
 「花梨は嫌か?」
 いいえ。と首を横に振ると、そうか、と彼が目を細めた。
 嬉しいときに、彼はすっと目を細めてほんのりと笑う。彼らしい控えめな笑顔は、優しくて柔らかで。ほんの少し、寂しげだった。