夕 間 暮 れ (2)




 20分ぐらい歩くといつもの公園に辿り着く。
 ここで耕太郎の休憩時間をとるのが常だった。本当は、今日この公園で泰継と待ち合わせをしていたのだけれど、思いがけず、泰継が花梨の家までやってきた。
 「早く花梨の顔を見たかったので」
 彼はそう言って、急な来訪の理由を述べた。そうして彼は、庭先でうずくまって耕太郎を抱き締めて泣いている花梨を見つけたのだという。
 「お前に会いたいと気が急いたのは、お前が泣いていたからかもしれないな」
 花梨の髪を優しく撫でて、それ以上泰継は何も訊かなかった。花梨も曖昧に笑うだけで、二人、黙って足元の影法師を眺めた。

 木陰のベンチに耕太郎と泰継を残し、花梨は一人で耕太郎に飲ませる水を汲みにいく。
 夕間暮れの時刻は、涼しい風が吹いて気持ちがいい。陽が沈み、やがて辺りは濃紺の粒子に包まれるように暮れてゆくだろう。この季節は真昼の散歩は避けているのだけど、耕太郎は、泰継の足元ですっかりへばっていた。
 (もう、おじいちゃんだから、しようがないのかな………)
 公園の中央、水飲み場の蛇口を捻ると少し温い水が出てきた。水が冷たくなるのを待ってから、花梨は、耕太郎の水飲みプレートを蛇口の下に置く。遠目に、泰継が耕太郎に何か話しかけているのが見えた。へばっていた耕太郎も首をもたげて、泰継のほうに鼻を近づけている。泰継が、ふっと笑って首を傾げてから、おもむろに耕太郎の頭を撫でた。すると、耕太郎が目をつぶって耳をクシャッとさせる。
 (すっごく仲良し)
 キュッと蛇口を閉める音で、耕太郎が耳をピンと立ててこちらを見た。
 「耕太郎?」
 名を呼んで近づいていくと、すちゃっと立ち上がってリードいっぱいに花梨のほうに寄ってくる。
 「耕太郎、ここで大人しく待て。首が苦しいだろう…」
 その仲良しの忠告も聞かず、耕太郎は後ろ足で立ち、精一杯の場所で花梨を待つ。
 「はい、お水だよ。いっぱい飲んでね」
 花梨が差し出した水飲みプレートに、身を捩るようにして顔を寄せる。パタパタと尾を振りながら水を飲んで、耕太郎は回りに水を弾いた。プレートの周りで、零れた水があっという間に砂に吸い込まれていった。
 「今日も、暑かったねー、耕太郎」
 花梨は、泰継の隣に腰をかけて、耕太郎の様子を眺める。
 「………泰継さん」
 「なんだ?」
 「さっき、耕太郎とどんな話をしていたんですか?」
 「………秘密だ」
 「あ、ずるい。私だけの耕太郎だったのに! 最近、二人とも仲が良すぎです」
 「そうだろうか?」
 夏になってからというもの、どうも泰継は意地悪だと、花梨は思う。急に激しい口吻けをしてきたかと思うと、にやっと笑って花梨の反応を楽しんだり、今も耕太郎との会話を秘密にして教えてくれなかったり。眉間に皺を寄せて黙り込んだ花梨を見て、泰継が笑った。
 口元に手を充てて、笑いをかみ締めるから、肩が震えている。
 「もう!」
 「………怒るな花梨。少しお前の話をしていただけだ」
 「えぇ? 余計に気になります。耕太郎はなんて?」
 「………だから秘密だ」
 「ひどい」

 ぷっと膨れた花梨を、心配そうに耕太郎が見上げた。

◇ ◇

 帰り道、泰継は花梨に手を繋いでもらえなかった。
 花梨は、ぷんぷん怒って、耕太郎を連れて先へ歩いていってしまう。華奢なくせに肩を怒らせて歩く花梨の後姿は、可笑しかった。その足元から、耕太郎が花梨を見上げて同じ歩調で歩いていく。
 夕日に照らされて長い影ができた。彼らの影を踏まないように、一定の距離を保って、泰継は後ろを歩く。

 ―――愛しいもの。
 耕太郎にとっても泰継にとっても、花梨は唯一の愛しいものなのだ。
 あの木陰で、耕太郎は泰継に教えてくれた。
 ―――花梨が、お前のことを心配して泣いた、と。
 庭先で耕太郎を抱き締めていた花梨は、確かに「ずっと一緒に居てね」と耕太郎に言っていたけれど、それは泰継に向けて紡がれた言葉だったと―――そう、耕太郎は泰継に告げた。もちろん、その気持ちのうちの一部は耕太郎に向けられたものであったかもしれない。でも、泰継への想いがたくさん載せられていたと。
 「花梨を守って。自分は、花梨の傍にいてあげることしかできない。でも・・・お前は花梨を安心させる言葉を紡ぎ、彼女を抱き締めてあげられる。だから、花梨を守って」
 「無論。私にとっても花梨は守るべきもの。お前の願いとともに花梨を守ろう」
 頭を撫でると、耕太郎は耳をくしゃっとして了解の合図をした。

 「仲が良い」と花梨は言うけれど、むしろ恋敵の関係に近い。
 そのくせ、お互いにお互いの存在意義を認め合っていて、花梨の幸せを強く願うという点で彼らは確かに「仲間」だった。

◇ ◇

 ―――ずっと花梨の傍に。死によって別たれようとも。
 それが耕太郎の願い。
 花梨が修学旅行で留守をしている間、泰継は毎日、耕太郎を連れて散歩に出た。そんな中で、耕太郎はポツポツと花梨とのことを話してくれた。
 仔犬だったから自分の母親とか兄弟のことは覚えていないけれど、なぜだか花梨の瞳の色と幼い笑顔を覚えているのだと耕太郎は言った。
 白い腹に鼻をくっつけて、ミルクの匂いがする!といって笑った幼い花梨。
 両親を亡くして、その葬儀が終わった夜、たった一人庭先で泣いていた小さな花梨。
 毎夜、耕太郎はその傍に座り、花梨の涙のあとに頬を寄せて眠った。
 やがて笑顔が戻った幼い花梨は、毎日一人で耕太郎を散歩に連れ出すようになる。
 時折訪れた街はずれの川原には、秘密基地だってあった。花梨は其処に気に入ったビーズのアクセサリーを隠し、耕太郎は道端で見つけたサンダルを丁寧に三枚に下ろして隠した。
 いくつもの季節を共に過ごして綺麗になってゆく彼女を見守りながら、反対に老いてゆく自分を自覚したころ………そこに、泰継が現われたのだ。幼い花梨に出会ったのと同じ、深まる秋の季節。16歳になった花梨が、耕太郎に泰継を引き合わせた。

 「ヤスツグ」という名の「人」に似たその生き物の隣で、今までにないくらい華やいで花梨が笑った。
 耕太郎の目に眩しい綺麗な笑顔。幸福な幼い頃の笑顔に似て、懐かしい思いさえした。その笑顔を見て、耕太郎は悟ったのだ。自分や花梨の祖母の代わりに花梨を守ってゆくモノが現われたということを。そして、自分の役目の終わりが近いということも。

 「―――四足(よつあし)の生き物は、人よりも生命の理(ことわり)に従順だ」
 少し悲しげな眼差しをして耕太郎は、言う。
 生命は、生きようとするものに与えられ、その役目が終われば惜しげもなく天に還される。花梨の両親が居なくなる少し前に、自分は彼女の許に遣わされたのだから…。
 「花梨との別れは、そう遠くはない。だから、お前が来たのだろう?」
ここのところ白くなってきた瞳を泰継に向けて、耕太郎は鼻を鳴らした。
 「お前………ヤスツグが何者でもかまわない。花梨を慈しみ、花梨を守るモノであることに変わりはないのだから」
 花梨の家に来ると泰継がいつも庭先に出ているのは、大抵、耕太郎と話をするためだ。泰継が唯人ではないことが分かっているようだったけれど、耕太郎はそれを意に介していなかった。そもそも耕太郎とて人外の者であることに変わりなかったから。
 そして、耕太郎は、泰継に願ったのだ。
 ―――必ず、花梨を守ってほしい、と。

 こちらに来て間もなく、泰継は髪を切った。
 この夏が終われば、泰継は一年をこの地で過ごした事になる。あれから、人と同じように髪は伸び、何度か、はさみを入れた。時間の流れが花梨と同じになったとも思えたが確証などなく、やはりまだ分からないのだ。あとどれほどの時間が残されているのか、彼女とずっと同じ歩調で歩いていけるのか。
 雪の降る日に花梨に告げた不安のうち、どれが本当になるのかは、まだ判然としなかった。
 もし、彼女を見送るのであれば、彼女が逝くのと時を同じくして塵に還りたい。
 泰継は、そう願う。
 大切な彼女を見送れば、きっと自分は壊れることができるだろう。そんな終わり方がいいと、思うのだ。
 けれど、花梨のほうの気持ちは分からない。いつか、耕太郎に聞いてみたことがある。
 「もしも………自分の時間が進まず、彼女の時間が早く流れてしまったら花梨は、どう思うだろうか」
 その場合は、ちょうど耕太郎と花梨の時間軸の関係が、花梨と泰継のそれに置き換わる。だから、耕太郎に尋ねた。
 ―――お前は、花梨を追い越してゆくことに耐えられたのか、と。
 耕太郎は、少し考えてから
 「どう生まれようとも、この時間軸の中でしか生き物は生きられない。その中で、魂の環に還り、やがてまた、この世に送られる。それを繰り返す間、いくつも、何度も、彼女の生きる軌跡と出会うことができる。それを知っているから辛くはない」

(なるほど。こちらの世界でも、四足は生命の理に従順だ)
 そこで初めて、泰継は、耕太郎を羨ましく思った。
 理に反する存在とは―――やはり、酷く寄る辺の無いものなのだ。この身が朽ちた後で魂が人のそれと同じ環に還るかどうかは判然としない。そもそも魂という高尚なものが、自分にあるという確証もない。
 耕太郎の願いと、自分の願いとの違いは、其処にあった。
 『死によって別たれようとも、傍に居たい』と願う耕太郎。
 『死によって別たれるまで、傍に居たい』と願う自分。
 理の内にあるものと、理の外にあるものとの、明らかな違いだった。

 例えば、耕太郎に尋ねたのとは逆のパターン―――そう。明日、急にこの身が崩れるとして。耕太郎が来世を願うように、心静かに終わりを受け入れることが果たしてできようか?
 突然の別れを埋めるような希望も約束も、自分は花梨に何一つしてやることはできないのだから。還る場所を持たぬ身―――理に反する存在とは、こういうことなのだ。
 彼女が、自分を愛しいと想ってくれるほど、自分が彼女の枷となる。
 そう理解して尚、彼女の傍に居たいとそれを願ってしまう。

 この地へ渡るときに、否、花梨の手を取ったときに覚悟したつもりだった。けれど、それは自分の痛みであって、彼女が負う痛みまで正しく理解していたのかどうか。
 耕太郎の頭をくしゃくしゃと撫でながら、泰継は呟いた。耕太郎の願いとは、程遠い約束なのかもしれない。

 「この身が現(うつつ)に在る限り………傍に居て花梨を守る。それ以上でもそれ以下でもなく。私には、それしか出来ないのだから………」