あかねはキッチンが好きだ。 幼い頃、熱を出して寝込むあかねに、母親や歳の離れた姉がいつもお粥を作ってくれた。あかねが飽きないようにと、卵お粥の時もあればさっぱりした梅味のときもあったし、おかかと味噌で味付けしたものもあった。優しい労わりと愛情とが、お粥の湯気に載って幼いあかねに届いた。 寝込むことが多く、病院で点滴を受ける事態になることもしばしばだったけれど、不思議と苦しい思い出は少ない。きっとあのお粥のおかげなのだ。ほわりとあがる湯気とか、卵の匂いとか、熱いけれどとろりと舌に馴染む塩加減とか。一つ一つのそんな感触が、例えば苦い薬のことや夜の病院の冷たい廊下のこと、それから点滴を打つときの痛い思いとか、そんな楽しくない思い出を柔らかく覆ってしまうから。 だから、大切な人に料理を作ってあげるということは、愛情表現の一つなのだと幼心に知っていた。 キッチンは、愛情が形を持つための大切な場所。あの優しいお粥が生まれてくる場所。 あかねは殊の外、キッチンという場所が好きだった。 夕方の6時。 あかねは、その大好きなキッチンに立っていた。尤も、そのキッチンは彼の家のものだけれど。 冷蔵庫の中をチェックして、なんとなく献立を頭の中に描く。好き嫌いの多い彼と、好き嫌いの全く無い彼の弟。安倍家の兄弟(らしきもの)が、同居を始めてそろそろ一年になる。 妙に悟りきったようなところがあり侘び寂びを体現する「弟」は、目下、高校生の彼女を溺愛している。ほんわりと優しい雰囲気をもつその花梨という女の子を、目に入れても痛くないと言わんばかりに、全力投球で大事にしている―――いや、『全力投球』というと少々語弊があるかもしれない。「弟」の泰継は、『全力投球』という言葉から生じるスピード感や熱をあまり感じさせない涼しげな目元で、いつも優しく彼女を見守るように傍に居るのだから。 「――――――っと」 携帯の着信音がして、慌ててあかねはリビングに走る。 発信元を見ると、「継さん」―――件の「弟」のこと―――とあり、ああ、今日はご飯要らないんだな、と予感する。 「―――――あかねか?」 「うん。ご飯要らないの?」 「ああ。まだ、作っていないだろう? 今は買い物中か?」 「はずれ。泰明さんのところだよ。これからご飯作ろうかと思って冷蔵庫をのぞいてたの」 「そうか―――今日は、花梨のところで頂いてくる。私の分は要らない」 「了解〜。そのまま高倉さんちの子になっちゃえば? 継さん」 近頃、すっかりその彼女の家族に受け入れられてしまって、ご厄介になってくることも多い。時には一緒にキッチンに立つ仲間として、寂しいと思うこともあるあかねである。 「あかねは、今日其処に泊まっていけばいい。夜中に花梨と流星群を観る約束をしている故、私は明日まで戻らない。なんなら昼過ぎに戻るようにするが…」 こうやって変な気を回すところが、彼らしい。人を気遣うことに相当不慣れな、泰明(兄)から見たら、多分高等テクに入るだろう。 「―――継ぐさんのオヤジ」 じゃれ付くように、そんな悪態をついてみる。通話の相手は、やや沈黙したあとでふっと笑い 「オヤジどころか、ジジイだ」 等と、威張った。彼が実際に生きてきた年数を知っているから、あかねも、ぷっと吹き出す。比較するなんて彼ら兄弟に対して失礼なのだろうれど、ちょっと冗談を言ったり遠まわしに厭味を言ったりと、若干世慣れているのは弟のほう。外見のそっくりな二人は、よくよく付き合えば似ているところよりも違うところのほうが目に付いて、あかねは、彼らを見ているのが楽しかった。 兎も角も、泰明にも伝えておいてくれ、と言って通話は途切れ、あかねは、背中に視線があることに気づく。楽しそうに話すあかねを、自室から出てきた「兄」の方が見つめていた。 「あ。泰継さんご飯要らないって」 「そうか」 「それでね、今日はこのまま家に戻らないからって…」 「―――」 「………私、ここにお泊りしちゃおっかな」 「―――」 「でも風邪っぽいから、今日はおとなしく帰るべきだよね。うん、そうしよう。泰明さんに心配ばっかりさせてるから、今日は帰るね」 「―――!」 ぐっと、腕を掴まれた。 案の定泰明は涙目で固まっていて、あかねはついつい笑ってしまう。 「ごめん…うそ」 彼に寄りかかるようにして、胸に頬を寄せる。 「泰明さんと一緒に居たいから、ここに泊まってもいい?」 返事はなく、彼の腕が腰にまわって、ゆったりとその腕に閉じ込められた。 そっと見上げると、額に優しく口吻けされる。 「もう…」 この人は無口だ。 必要なことですら言葉にせず、こうやって想いを伝えようとする。本業は言葉を操る陰陽師だったくせに、出会った頃、彼は「呪文」しか知らなかった。事実を述べることはできても、人を思い、人を慰める、人を優しくする言葉を何一つ知らなかった。 今でも肝心なときに、日本語が不自由なトンチンカンな人。 「今夜は、流星群が観られるんだって。継さんが言ってたよ」 「ああ―――もう、そんな季節か」 「知ってるの…?」 「ペルセウス流星群のことだろう。毎年この時期に彗星の軌道と交差する。北天から中天にかけて星が降る」 「継さん流れ星デートだね。ふふふ、花梨ちゃん喜ぶよきっと。乙女心をガッチリ掴んでるね」 「――――――あかねも………観たいのか?」 「え?」 「今から眠っておいて、外に出ても無理をしないと約束すれば、私はかまわない」 「ほんとう!?」 「夕飯のことは気にせず仮眠をとっておくといい。腹が減ったら自分でなんとかする故」 「!! そうする!! ありがとう泰明さん」 「居間のソファで眠るか? それとも私の部屋の寝床がいいか?」 「泰明さんのところ」 「では、そちらを使え。お前の眠りの妨げにならぬよう私は少し此処で調べ物をする。時間になったら起こしてやる」 「うん。ありがとう…!」 流星を観てもいいと言われたうれしさで、あかねは、ぎゅぎゅっと彼の腰に抱きついた。 「―――あ、かね…痛い」 「や、うれしいから、くっつきたいっ!」 「…………」 「泰明さん、大好き!!」 「!」 京にいた頃とは比べ物にならない程、彼は物腰が柔らかくなった。 ごく身近な人間に対してならば、思い遣ることにぎこちなさも少なくなった。相変わらず、言葉が足りないところはあるけれど。 あかねは、少し胸が痛い。 彼が、いつも背伸びしている様子を知っている。一生懸命、あかねのことを考えて、あかねの気持ちを汲み取ろうとしているのを知っている。 そうやって、彼は、大人になっていくのだ。 何にも変わらない自分とは対照的に―――彼は、どんどん大人になってゆくから。 あかねは、少し、胸が痛い。 ** ** ** いつもよりは、少しカッコイイ泰明さんをお送りいたします。でも、あくまでも当社比で「いつもよりカッコイイ」なので、すいません(先に謝罪)。 |