ペ ル セ ウ ス 流 星 群 (2)




 パタパタと遠ざかるあかねの足音を聞きながら、泰明は溜息を漏らす。
 午前中から買い物に出たら、どうもあかねがボーっとしているので額を合わせると、微熱があった。急いで買い物を切り上げて、この部屋に連れ帰って横にならせたのだ。珍しく眠りに落ちることなく、それでも大人しくリビングのソファベッドで、ごろごろしていてくれたのは、やはり、調子が悪かったせいだろう。
 泰明が自室に行くのを寂しがるので、居間にいることにして、ノートPCのほうで論文の資料整理をしたり本を読んだりして午後を過ごした。
 先ほど熱を測ったら平熱に落ち着いていたから、大した風邪ではないようだ。
 夏でも風邪をこじらせれば、肺炎になる。身体が弱いのにお転婆で自分のことに無頓着なあかねと一緒に居ると、気苦労が絶えなかった。無表情なので誰もそうとは気づかないのだろうが、あかねに出会ってからというもの次に何をしでかすか分からずに、ある意味気の休まることがない。
 とは言え、このぐらい苦労させられなければ、戸籍上の年齢にはいつまでたっても追いつけないということなのだろう。惚れた弱みというか、自らの出自に関するどうしようもないハンデのこともあり、泰明は兎角真摯にこの状況を受け止めている。

 ―――足りないものが多すぎる。
 自分に。
 泰明は、いつもそのことを考える。

 あかねが高校を卒業した時と、二十歳になった時。既に二回も、一緒に暮らそう、妻になってくれと持ちかけたけれど、二度ともあかねは首を縦に振らなかった。少し考え込むように首を傾げて、まだちょっと早いかなぁと言ってはぐらかされる。理由も聞かせてはくれなかった。
 泰明が属していた世界からすれば完全なる“年増女”の年齢で、「まだちょっと早い」である。その都度、泰明は3日ほど不貞寝して、大好きなプリンしか食べなかった。
 あかねに嫌われているわけではない、というのも解る。だからこそ、余計に理由が判然とせずに困惑した。
 法律上は別段問題のない年齢であるし、そもそもあかねは、世間体など気にするようなタマではない。
 ―――何が足りないのだろう―――否、足りないものであかねが欲するのは、一体何なのだろうか。
 不貞寝しながら、プリンを食べながら、考えた。今でも考えている。
 そもそも自分は、あまりにも不完全で何もかもが足りない。生きてきた年数、それに伴って得られる経験。自覚して間もない感情を御する術も、彼女に想いを伝える言葉も。全てにおいて幼く、不完全だ。
 こんな風だから、あかねは、共に生きる約束をしてくれないというのだろうか。

◇ ◇

 「――――――」
 学会の抄録を検索していて、じっくり目を通すべき論文をいくつかピックアップし終えると、泰明はパタンとノートPCを閉じる。
 時計を見ると午後9時。あかねが、眠ってから三時間ぐらいだろうか。寝相も豪快なので、きっと、掛け布団を蹴り落としているだろう。それでせっかく収まった微熱がぶり返して、寝込まれても困る。
 あかねの体調は、未だに思わしくなかった。
 龍神をその身に降ろしてからこちら、あかねは体調が優れない。あれからもう4年も経っているというのに、ちょっとしたことで熱を出して寝込んだり貧血を起こして倒れたりする。
 彼女に神を喚ばせたことは、泰明にとって一生背負うべき罪となった。
 元来、身体が弱かったあかねに、龍を喚ばせてはいけなかったのだ。それなのに、あの日最も近くに居ながら泰明はそれを止めることができなかった。
 よく生きて還ってきたと、未だに、恐ろしくなる。
 あかねが、龍の神気に憑り殺されてもおかしくはなかったし、現に神の手を振り払って戻ってきたあかねは、心身ともに疲労して磨耗して瀕死の状態だったのだから。

 「………………あかね?」

 自室のドアを開けて、小さく声をかける。
 返事はなく、穏やかな寝息と時計の秒針の音が僅かに聞こえるだけ。目を遣ると、案の定だった。タオルケットを蹴り落として、ベッドの隅っこで丸くなって眠っている。
 「―――しようがない奴だ…」
 つくづく、あかねは手がかかると思う。
 タオルケットをかけてやろうと拾い上げて、あかねの額に手を伸ばしたときだった。
 「―――」
 目元から頬に、涙の跡があった。
 一瞬止まってしまった腕を伸ばし、そっと額に手を当てる。泣いて熱が上がったのではないかという心配は杞憂に終わり、ただ、広いベッドの隅で丸く身を縮めて眠る姿に胸が痛んだ。
 一人が心細かったのだろうか?
 それとも―――此処で一人で泣きたかったんだろうか?
 あかねのことだから、理由を問うたとしても『泣きたかったからよ』で、済まされてしまいそうだった。
 抱き上げて、寝床の真中に下ろしてやる。
 タオルケットを広げてふわりとかけてやり、起きてしまわないかと、もう一度顔を覗き込むと、伏せられた長い睫毛が涙に濡れていた。

 泣くのは、いつも独りだった。
 京にいたころも、今も。
 あかねは、一人ぼっちで泣きたがる。
 龍の宝珠が消えた今、あかねがそうやって泣いたことを知るのは、涙が止まった後のこと。彼女が泣いたことを悟る度に、身の内が軋むように痛んだ。今も昔も変わらずに、自分は、あかねの涙の前で只々無力なのだ。
 こうやって無為無策を重ねて、結果、彼女に神を喚ばせてしまったようにも思う。

 「あかね…?」

 起こさぬように、そっと名を呟く。
 何故そうしたのか、よく解らなかった。
 額にかかる前髪を払ってやる。

 「――――――」

 問いたかったのかもしれない。
 何故、お前が泣くのか。
 何故、独りで泣くのか。

 ―――私では駄目なのか、と。





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 実はあかねさんに振られつづけている泰明さん…。ゴメンよ!