ねぇ泰明さん、と。 そう言ってあかねは泣き顔のまま微笑ったりする。 ちょっと怖い夢を見ちゃっただけ。 龍の神様のところで、わんわん泣く夢を見てしまっただけ。 泰明さんも、そんな場面が見えた? 龍の神様の涙が海みたいになって、私、その海の中にいたのよ。 楽しい夢じゃなくってゴメンネ。 でも、いいな。 他人の夢を見るのって、映画みたいに観えるのかしら。 ―――なんだか不思議ね。 一頻りそんなふうに話して、あかねはこの話題にピリオドを打った。 ―――心配しないで、大丈夫よ。 と、言葉でも笑顔でも拒絶の意を表して。 泰明は、その笑顔が好きではない。 彼女が向けてくれる心からの笑顔は、愛おしく優しい。けれど、こういうときの彼女の笑顔は、優しくて苦い。この4年、思えばあかねはその悲しみに触れさせてもくれないのだ。それは、あかねの優しさであると理解している。その一方で、その優しさは泰明にとってとても苦いものなのだ。 京に居た頃も、今も。守っているつもりで、いつも彼女に守られてしまう。幼いからか、至らないからか、自分が守りたいと思う意味合いにおいて彼女には必要とされていないのか。 「―――そんなに悲しんでいるのに、何故堪えようとする」 彼女は、悔恨の海の中に居た。龍神の涙などではない。あれは紛れもなくあかねの涙だった。 「悔いているのだろう。龍を召喚したことを」 「ちがう…よ…泰明さん………」 「違わない。あかねはあかねの涙の海にいた」 「――――」 あかねが目を見張る。それから、表情を歪ませて泣き顔になる。彼女が纏う気の色が少し変じる。あかねは泣き顔のまま―――怒ったようだった。 「なんで…泰明さんは私の傍にいてくれる…の…?」 「今更何を言っている。私はあかねのものだ」 「なんか…自信ないよ―――私、泰明さんを傷つけてばかりいるのに……」 「お前がそんなこと気にする必要は無い」 「気にするよ―――私は泰明さんを傷つけたもの。泰明さんを守ろうとして、信じなくて、貴方の手を取らなかった。結果貴方を酷く傷つけたの。それだけじゃない―――」 ポロポロと涙を零しながら、悲の色を強めながら、彼女は静かに怒っている。ポツリポツリと静かに語りながら、彼女自身に対して静かに怒っている。 「こんな身体になって、優しい貴方に深い贖罪の意識を与えたの。あの神様への深い憎しみも」 「あかね…」 「大好きな貴方に、わたしはそんな感情しかあげられていないもの」 「もう止めろ」 そう云いながらあかねの細い肩を抱く。彼女が発する言霊は、彼女自身に向けられた刃になるから。 「神様のところから帰ってきて目が醒めて………また貴方の傍に居られるって思ってとても嬉しかったの。なのに―――」 「あかね、もういい。止めろ…」 「全然身体は良くならないし、泰明さんには嫌な思いをさせてばかりだし―――」 彼女が臥せるたびに、龍神を憎いと思った。彼女が臥せるたびに、彼女を守れなかったことを悔い、自分の未熟さを憎いと思った。 そうやって重たい負の感情を抱いていることをあかねは知っていて無言のうちに抱く負の感情をあかねは敏感に感じ取り―――あかねの中で刃になったのだろうか。こうして彼女自身を傷つける言葉に。 「―――傍に居て、もっとたくさんの嬉しいことや楽しいことを…そういう気持ちをあげたいのに」 「――――」 「わたしじゃ、全然ダメみたい…」 こんなふうに弱いあかねを知らない。 身体が弱っているとそれに呼応して気も弱くなる。その逆も然り。4年の間、一進一退を繰り返すだけで一向に良くならない身体。龍神を召喚した代償は、あのとき削った命だけではないのかもしれない。こうして少しずつ、彼女の心も弱くなっていくのかもしれない。 「だから。泰明さんがしんどかったら、私のことをいらないって言っていいんだよ。 泰明さんは何にも悪くないんだよ。あの神様だって………悪くないの…」 そんな言葉を投げかけてくるくらい、彼女は、弱っている。あかねの涙を見ると今でも苦しくなる。こういうときは、確かに『しんどい』。けれど、彼女を要らないと思うことなどありはしないのに。要らないと言ってよいなどと酷く悲しいことをあかねが口にしたことが、とても悲しい。 「―――だから、共に生きる約束をしてくれないのか?」 「……………」 その沈黙は、きっと肯定の意。 いつもはあんなに我儘で人を振り回して、でも楽しそうにきらきらしているのに。優しくて強いあかねは、今は、優しくて…弱い。 酷く傷つけたと、そう慮って身を引くようなことを言ってしまうくらい、あかねは、優しくて弱い。 「―――やすあきさん?」 すっかり泣いてしまったあかねをタオルケットでくるんで、そっと抱き上げる。どこへ?と怪訝な表情をした彼女に、星を。と告げる。 「そっか……約束…してくれたもんね」 あかねが、その額をこの胸に預けて仄かに微笑った。 「あかね―――」 巧く言葉を見つけられるだろうか。たった一人―――あかねに届く言葉でいい。どうにかして彼女に伝えたかった。 音もなくガラス戸を開けて裸足のままルーフバルコニーに出る。 今夜星が降るのは中天から北天にかけて。南東に開けているこのバルコニーからは、その南はしに寄れば見ることが出来るだろう。 天に月は無かった。 遠くで自動車の走る音がする。月の代わりに、近くの電灯の無機質な明かりが僅かに差してあかねの目元、濡れたままの睫毛が光った。 壊れてしまわぬように、腕からそっと降ろしてやる。 強くて優しいはずのあかねが、今日に限って殊のほか儚い気を纏っているから余計に不安になる。彼女の身体が腕から離れてしまうと心細くなって、結局また抱き寄せてしまう。自分は、こんなにあかねのことを必要としているのに。 「―――あかねは、分かっていない」 神の手を振り払ってまでこの腕に戻ってきたことの尊さを、彼女はきっと分かっていない。 「お前をあの時守れなかった悔恨は―――私のものだ」 「………?」 「あの時抱いた悔恨も憤りも悲しみも。お前が負うべき咎ではない」 こちらを見上げるあかねが、ぱしぱしと瞬きをして小さく、やすあきさん…?と呟く。 「お前が齎したものに、無駄なものなどある筈が無い。人の想いには様々な色がある。何も知らなかった私が一度に様々な色を受け入れたのだ。だから、傷を負って苦しんで当然だ―――そして、それが無くば、私はいつまでも未熟なまま………」 彼女を抱きこんで、その肩に顔を埋める。 かつて、大樹の死に触れて悲しんだあかねを抱き寄せてそうしたように。 「………お前を守ることすら適わぬではないか」 あのとき、死んだ大樹の枝が空に触れたがっているように見えた。そして、届かぬ空に手を伸ばす愚と同じで、自分と彼女との距離は遠く遥かなものだと思った。その距離は少しも変っていないのかもしれない。愛情を知った今でも―――愛情を知ったからこそ相手の幸いを願うあまり、自らの至らなさを思い知るから。 この言葉は、彼女に届くだろうか。 自らの言葉で自らを傷つけるような深い悲しみの中にいるあかねに、届くだろうか。 「私は、お前のためにしか傷つかぬ。お前のためにしか強くなろうとは思わぬ―――忘れるな。私は、お前のものだ。お前は、どんなに多くの手が伸べられても私の手しか取らないことを私は知っている。たった一度だけだ、お前がそうしなかったのは。もう二度とあんなことはさせぬ」 そのために、自分は彼女の傍にいる。 龍を喚びその意に背いて下界に戻りその咎を一身に受ける―――そんな突拍子も無いことを思いつくあかねを二度と生命の危険に晒さないために、自分は彼女の傍にいる。彼女のあるがままを愛しながら、危ないときには必ず守ってやれるように、傍にいる。 「お前は、お前の思うとおりに振舞えばいい。それで、私が傷つくことがあっても、きっとその傷は私に必要なものだ。今はまだ未熟でも―――必ず、お前に追いついて見せる」 だから、そうやって刃物のような言葉を。 「お前自身が傷つくような言葉を言ってはならん」 そして、どうか分かって欲しい。 「私にとってお前は間違いなく特別で必要な存在なのだから」 たった一人、『幸せになって欲しい』ではなくて『幸せにしたい』と―――そう願う、特別な存在なのだから。 ** ** ** |