碧 ( あ お ) に 還 る (1)




 彼岸花と、輪郭が曖昧なほど古びた石の馬頭観音(ばとうかんのん)と、朽ちかけた小さな祠。
 彼には珍しい、冗談のような願掛け。
 路傍の馬頭観音の前で耕太郎(花梨の飼い犬)が迷子にならないようにと、急に彼がそう言い出した事。
 花梨と泰継と耕太郎の三人(二人と一匹)で散歩に出ることが当たり前になっていた二度目の秋。
 目に残るのは、華の緋色と茎の青のコントラスト。枯葉色の景色の中でそれは一際目を惹く鮮やかさで、そこに佇む彼の姿も綺麗だった。出会った頃のような陰陽師の表情(かお)をして小さく何かを唱えた後、手折った緋色の華の花弁を降らせる。流れるようなその一連所作と、はらはらと舞う緋色の欠片。
 その中でどこか寂しげな彼の横顔。
 やがて耕太郎の傍まで戻って来ると、お前の願いはきっと叶うだろうからと頭を撫でて、花梨には解らない耕太郎と二人だけの秘密の合図みたいに微笑って。
 (泰継さんの―――バカ)
 こんなとき、彼の背は遠く手の届かないところにある。優しいひとは、優しいが故に時折遠いところへ行ってしまうから。
 決して嘘を吐かない代わりに、彼は沈黙する。意図した沈黙ではなくて、それが当たり前のことみたいに沈黙する。そうやって何かに耐え、或いは、そっと目を伏せて何かを諦めてしまう。
 あのときも、緋色の花弁のなかで彼は何かを諦めた。きちんと問質したわけではないけれど、花梨にはそう察せられた。
 優しさと沈黙の向こうには、決して踏み込むことのできない彼だけの世界があることを、花梨は痛いほど知っている。長い孤独に閉ざされた荒涼とした世界は、彼だけが棲まう場所。
 これまで、その世界の淵に触れることならば、何度か、出来たのかもしれない。粉雪の降る日に。それから……流星群に願い事をしてみろと言って、繋いだ手を彼がぎゅっと握ってくれたとき。二人、肌を合わせて眠っていても、ふとした折に存在を確かめるように抱き寄せられ、彼のその瞳を見詰めたとき。その都度、彼の抱える荒涼たる風景の一端に触れたのだと思う。けれど、そこまでのこと。仄かに笑う彼の目に時折翳が射すのを認めながら、彼を閉ざす世界を壊すことも其処に踏み入ることも出来ないまま、時はただ穏やかに過ぎて。

 もうすぐ―――二人に三度目の秋が来る。

◇ ◇

 「……泰継さん? 大丈夫ですか?」
 「――――――」
 彼が薄っすらと瞼を開ける。深く溜息を吐き長めの前髪をかきあげてから、もう一方の腕で花梨は抱き寄せられる。
 「何か厭な夢を…?」
 「………」
 返事をする代わりに花梨の額に触れるようなキスをして、問題ない、と呟く。寝ぼけているみたいな舌の回らない口調。やがて花梨が此処にいることを確かめるように抱き込んで、彼はまたすぅーっと寝息をたててしまった。
 「………」
 どうして、という言葉は声にならず花梨は溜息を吐き、自分を閉じ込める彼の腕にそっと頭を預ける。
 今までも何度か繰り返されてきたこの遣り取りは睦言と呼ぶにはどうも色気が足りない。それが彼らしくもあり、自分らしくもあり、二人にはこの色気の無さが丁度よいとも思う。情けないような可笑しいような気もするのだが、彼の眠りを妨げるものを思うと、花梨は胸にさざ波がたつように落ち着かなくなる。
 なぜなら、自分はこの腕に守られて安心して眠ることができるのに、彼は、そうではないのだから。
 こうして抱き合って眠っても、彼が“安心”することはこれまで一度もなかった…のだと思う。眠っているというよりはうつらうつらと浅い夢を彷徨い、花梨が少しでもその身を離すと慌てて抱き寄せる。そんなふうに彼は神経が磨り減る眠り方をしている。


 秋の気配は、昼夜の気温差から肌で感じるものだ。
 朝日が昇る前の薄蒼い色の粒子が淡々(あわあわ)と漂い、手足をひんやりと覆う。 それを肌寒いとは思わず、心地よく感じるのは彼の躰がとても温かいから。彼の腕は、露わになったままの花梨の肩を抱き、もう一方の腕は花梨の腰に回ってしっかり引き寄せて離さない。こうして肌を合わせて彼の鼓動を聴き、広い胸に頬を寄せて。新しい日の光がカーテンの隙間から射すその瞬間を、何度、目にしてきただろう。
 今はまだ蒼褪めた空気の中、シーツと彼の体温に埋もれて。
 花梨は、その日最初の金色の光を、なんとなく待っている。
 (…くすぐったい)
 規則正しい彼の寝息がくすぐったい。
 さっき声をかける前は眉を顰めて何やらもごもごと呟いていたから、多分嫌な夢を見ていたのだろう。
 (今度は大丈夫そう)
 今は、軽く口を開けて…やや間抜けと言えば間抜けな…表情をしている。そんな表情さえ、愛しいと思うのだから相当重症かもしれない。
 まる二年も一人の人を好きでいると、些細な表情にこそ愛着が湧いてくるのだと、目が醒めるような思いで知った。うっかり苦手な甘いものを食べてしまって何とも言えない神妙な顔つきになったり、お兄さんの彼女(先代の神子様)に無理難題を言われて、迷惑そうに片方の眉をあげてそっと溜息を吐いたり、花梨と“いい雰囲気”のところをお兄さんに邪魔されてあからさまにガッカリしてくれたり。感情を現すことが酷く苦手な彼のそういったヘンテコリンな表情が、花梨にとっては宝物みたいに愛しいのだ。
 彼の鎖骨のあたりを見つめながら、くっと肩が揺れてしまったけれど、どうにか込み上げてきた笑いを噛み殺す。
 思い出し笑いなんてなぁ…と、そんな考えも巡るのだけれど、やっぱり可笑しくて仕方がない。
 恋に落ちるのは、一つの方向へ加速度をつけて進むことだから一瞬で終わってしまう。重力に逆らえないのと同じで、たいして無理をしなくても惹かれるまま突き進むことは簡単だ。目が眩むようなその瞬間も忘れようもないけれど、落っこちた先で手探りで宝物を見つけて歩くみたいに、好きな人をもっともっと好きになっていくのだって楽しい。
 すこし間抜けな表情をして眠る端正な顔立ちのひとも、彼のヘンテコリンな表情を一つ一つ思い出しては笑いそうになる自分も、確かに今、幸福と思える時間の中にいる。
 けれども、永劫続くかと思われる幸福ほど、あっけないことを花梨は知っている。
 彼もそのことを知っていて、より畏れているようにも思う。厄介なことに、幸福と不幸は似ているのだということも。花梨のことを想ってくれる彼の眼差しは暖かく、ずっと遠くまで見据えながら花梨をきちんと捉えているのに、彼が彼自身を見つめるときは、酷く刹那的だ。
 「泰継さん…」
 ぽつり、と。彼の名が零れた。吐息にまぎれてしまうように小さな呟き。彼の浅い眠りを妨げぬように。
 花梨よりもずっと大人で落ち着いているはずなのに何処か危なっかしいひとは、すぐにでも醒めてしまう淡い夢の中に居る。

 朝の光は未だ届かない。
 ただ、薄蒼い色の粒子がこの部屋を満たしている。