碧 ( あ お ) に 還 る (2)




 幸福はいつだって儚くて、この手をすり抜けていってしまうから、掴まえたとしても一瞬の後には、それを失う不幸に見舞われる。幸福も不幸もその名を知らず、悲しいとか淋しいとか、そんな感情の名も知らず。けれど、胸が痛み苦しくなることは、たくさんあった。
 三月の目覚めと三月の眠り―――記憶は鮮明なのに細切れで、知らないうちに大切な人が居なくなっている。太陽も月も星も、様々に表情を変えながら真新しく繰り返し、目覚めれば必ず出会えるものなのに、大切な人々はそうではなくて。ただ一閃の目映い光のように強くこの記憶に刻まれながら、瞬きのうちに過ぎ去ってしまう。
 本当は、連れて行ってくれと叫んで手を伸べたかったのだけれど、叫び方を知らなかった。欲しいものに手を伸ばすことを知らなかった。何かを願うことすら―――知らなかった。

 遠い昔―――これが最後になるだろうからと、泰明に似せた器とよく似た名をくれた人は、病みついた床(とこ)から力なく笑った。病み衰えて、その腕はもう骨と皮ばかりであったけれど、温かい眼差しを向けてくれた。
 泰継が覚えている、師の最後の姿。
 結局、死に目には会っていない。かの人に死が訪れたのは、泰継の眠りの時期の間の出来事だったから。
 あの日の師の言葉は、温かく、今なら愛情に満ちていたことが分かる。当時はそれと分からなかった。それでも、師の言葉は温かな棘―――泰継の身の奥深くに居座って融けることのない棘として長い時を共に過ごすこととなった。

 「―――泰継、一条の光を逃してはならん。躊躇ってはならん」

◇ ◇

 長患いの者の目を楽しませるようにと、房から見渡せる庭には、季節の花が植えられていた。秋から冬に向かう季節で、柊の白い花が控えめに咲いていたのを覚えている。葉は魔除になるとされる柊だが、その花は金木犀に似た仄甘い香りを撒く。考えてみれば紅の楓の葉があったはずだが、それよりも、小さなその白い花のほうが強く瞼に残ったのは、その香りのせいであったろうか。
 間もなく明瞭に意思を伝えることが難しくなると、自らの死期を予言した師は、この日一族の者達を呼び寄せていた。
 柊の咲く庭で、泰継は師に呼ばれるのを、身じろぎもせずに待つ。もとより、泰継は人ではない。師の父と気を分けた出自ではあるが、この世でもっとも大事とされる血の縁(えにし)はないのだ。嘗てこの屋敷に起居していたと聞く片割れとも言うべき泰明は、師の父安倍晴明とともに半ば伝説の存在となっていた。
 その泰明や晴明には及ばぬまでも、当主を凌ぐほどの力―――陰陽の力だけは並外れてある泰継を、一族の中には快く思わぬものもいた。泰継の、人ではない出自と人とは相容れぬその身上は、安倍一族の間では公然のこと。泰継に対してあからさまに不愉快を面に出すものもいれば、泰継を庇い慈しむものもいる。いずれにせよ、一族が集まった折にその末席にでも泰継が入れば、双方の間に緊張が走りいらぬ諍いが起こる。気に聡い泰継は、そんな空間に身を置くことをなんとはなしに避ける形となり、こういうとき、いつも一族の末席にもつかず、庭の片隅、植物の静に溶け込むように端座する。
 日が傾きかけた頃、師は一族の者たちを人払いし、「泰継のみ枕辺へ」と言った。
 その嗄れた声に、一族のある者たちからの怒気が庭に座す泰継へと向かう。それを咎める「気」もまた、別の者から、その怒気を発したものへと向かう。さして広くもない空間での出来事を、泰継は黙って眺めた。
 夕日の紅い光の中、柊の花の傍で泰継は表情もなく立ち上がる。いつものように裸足であった。
 人ではないものを毛嫌いする心の動きは理解できなかったけれど、人という生き物が異種・外来種へ抱く警戒心は、当たり前に存在する。それを咎めることも止めることも、無意味なことだ。けれど、そう述べると酷く悲しむものもいる。泰継は、どのような表情をつくればよいのか分からなくて、結局何も表情をつくれない。
 ―――奇しくも逢魔が刻。
 其処にいた幾人かが、その立ち姿に魔を重ねた。
 時を刻まぬ身体、あどけなさの残る整った美しい容貌、けれど動かない冷たい表情―――それは、人を惑わす魔に通ずる。先に発せられた怒気は間もなく怯えに変り、その気を纏った者が、一人、また一人と、師のもとを辞していく。
 誰かが「柊も役には立たぬ」と、聞こえよがしに言った。それを咎めるように、また別の者が叫ぶ。
 「あの者は魔ではない。柊は拒むどころかあの者を受け入れているではないか!」

 一族の者たちの議題には、どうやら、泰継の今後の処遇についても含まれていたようだ。泰継自身は、何も決断しないしその会議の進行には興味もない。
 一族の総意に従う―――そのことだけが、自分の中で決まっていることだった。

◇ ◇

 全ての者が立ち去ると、泰継は庭から房室へ上がりこんだ。傍に寄ると、師は僅かに目尻を下げる。
 「これが最後であろうな、お前と言葉を交わすのも」
 「―――師匠も黄泉へ渡るのだな」
 「病人相手に言ってくれるな。お前は正直すぎていかん」
 「師匠ほどの者ならば、既に見知った未来(さき)。隠し立てする理由がない」
 病床で師は力なく笑った。酷く疲れている。昼から一族の者と会話を続けてきたのだから、当然のことだった。
 「手短に要件を。そして疾く休まれよ」
 ピシャリとしたその物言いは傍目には冷たく映るのだが、かの人は慣れている―――だけでなく、泰継なりの気遣いでもあることを理解していた。
 「そう急かすもんではないよ、泰継。これで眠りについたら、わたしは漸(ようよ)う現(うつつ)に戻っては来られぬのでな………」
 大人しく枕辺に端座した泰継に、温かな眼差しを向け、師は語りだした。
 「よいか泰継。人は死ぬとその魂魄は環に還る。魂(コン)は天をとおり魄(ハク)は地をとおり、人に定められた環に帰り着く」
 それは、この世の理。
 師に言われるまでもなく、泰継も知識として知っている事項。
 そう言って頷いた泰継に、師は、また笑った。
 今思うと、悲しみか落胆の色を、その面に漂わせていた。
 師の疲労の色が濃いので、泰継は、自らその理を述べる。
 「肉体が滅び、一つの生命の軌跡が終わる」
 それと同時に魂魄はそれぞれの道で裁かれ清められ、新たな肉体を与えられ、また新しい生命の軌跡を綴り始める。そうやって、「たましい」は永劫巡る。肉体は現世(うつしよ)の時を刻むもの。生きようとするものならば、新たな肉体が与えられ、いくつもの生命の軌跡を辿ることができる。
 この世の全ては、真新しく繰り返される。
 天の日も、月も、星も。大地も、そこに根付く木も、それを潤す水も。生きとし生けるもの、全てが、この理に守られている。そこまで泰継が言ったとき、師の表情が動いた。
 「―――泰継よ。お前に、何一つ……与えてはやれなんだ」
 「――――――」
 「人のように巡る魂(たましい)も。人のように時を刻み滅びることができる肉体も」
 師は僅かに身じろぎして手を伸べた。もう骨と皮ばかりの、枯れ枝のような腕。戸惑いながらそれを泰継は見詰め、空を掴もうとする力ないその手を、咄嗟に握る。
 「お前の魂は―――未だ眠ったままで、魂と呼ぶには半端者だ。故に、お前の肉体もまた、時を拒んでいるのであろう、おそらく」
 そのときの、師の纏う気は悲しみに満ちていた。静かに、ただ、静かに。
 「時を拒むそなたの肉体は、それでも、いずれ………人の世からすれば遠い遠い先のことやも知れぬが………必ず滅びる」
 人ならば、そのあと魂は還るべき場所に還って行く。決められた理に則って。人ではない自分は―――どうなるのであろうか。泰継は、ただ、師の言葉を待つ。
 悲しいのか苦しいのか、師は、その表情を歪め、嗄れた声でとつとつと言葉を紡いだ。
 「―――けれど、調和を持たぬ今の状態では、お前の魂は還るべき環を見失い、肉体が滅びたときに共に消滅するのであろう………」
 「――――――」
 「すまない…泰継。お前を―――この世の孤児にした」
 永劫巡ることの叶わぬ…酷く儚い仮初めの生命よ。お前の行く末を見守ることも………もう…。
 「人の世は醜く前途は暗い。けれど、それでもお前は生きていかなければならない」
 醜い人の世を生き抜くには無垢で優しすぎる魂は、どんなに傷ついても癒されることもなく彷徨うのだろう。その器が朽ちるまでの気の遠くなる時間を。そうして、器が朽ちたとき―――その魂が負った苦難は裁かれることも清められることもなく消滅する。
 残酷な仕打ちだ。
 人は、いつも身勝手で欲にまみれている。人の醜さ浅ましさに傷つけられるのを知っていながら、来世を迎えるための「力ある魂」も与えてやれず。それなのに、課したのは、来る大事にこの京と人々を救う人柱となる役目。理から外れた存在であるのに、その理を見定める力。いつ訪れるとも知れぬ、本当に訪れるかどうかも不確かな、“その時”のために、京を守護する稀代の陰陽師が遺した、もう一つの憑代(よりしろ)。
 「人の世は醜く前途は暗い。それでもお前は生きていかなければならない。寄る辺ないお前を置いていくのは気がかりで心残りだが、泰継。お前の幸いを―――私は、諦めてはいないよ」
 どうか役目を全うした先に、お前の幸いがあるように。泰明が幸福を掴み取ったように、お前も、その光を逃さずに掴み取れ。そのためにも、いまだ未熟なお前は、全てを覚えておかねばならない。理解できずとも、全てを覚えておけ。
 悲しみも、哀しみも、愛しみも。
 私がここにお前を呼んだ思いも。
 今はそれらを理解できずとも、これから出会う全てのことを覚えておけ。
 目を背けるな。
 やがてくる大事のために、その先にあるお前の幸いのために、今は全てを受け止めよ。降り積もった記憶は、いずれ経験と符合して、きっとお前の血や肉となるのだから。そうしていつか―――お前の魂が、人のそれと同じ場所を見つけられる力をつけ、肉体が、人と同じ時を受け入れることができるように………。
 だから、せめて。
 「泰継、わたしの遺言を受け取ってくれ」
 「無論」
 「よいか泰継、一条の光を逃してはならん。躊躇ってはならん。そのとき、何を措いても手を伸ばし掴み取れ。そのための強さを身に宿せ―――他ならぬお前自身の幸いのために」
 「――――――覚えておく」
 「よい。今は十分な返答だ。理解できずとも、とくと覚えておけ」
 まったくお前は正直すぎていかん・・・・・・そう言って師は笑い、では眠るとするか、と暢気な口調で泰継に告げた。
 その日を境に、師の容態は悪くなっていった。
 その直前に長く言葉を交わした人外の者が「生命を食らった」とまことしやかに囁かれ、泰継は、一族総意の下、安倍の屋敷から遠ざけられた。その総意の中には、心無い誹謗中傷から泰継を守る意図もあったし、一方で、本当に泰継を屋敷から追い出したいとする意図も混ざっていた。
 庵へ移り住めと告げられて、泰継は、ただ頷いた。受け入れ従うことしか知らなかったし、抗うことや自ら手を伸ばすことを泰継は知らなかった。けれど、もう二度と師に触れることもその温かな気に包まれることもないと分かって、胸が苦しかった。
 屋敷を発つ日、既に師は昏睡の中にあり、言葉を交わすことは叶わなかった。房に近づかず、泰継は庭先から床(とこ)に向けて目礼をする。柊の花はもう終わっていて、濃く深い死の気配が房の中を満たしていた。

 やがて、泰継もまた三月の眠りに落ちる。
 春と冬が鬩ぎ合う時候、雪の降る日。
 安倍の屋敷から離れた場所で、一人、静寂の世界へ落ちていった。
 そして、次に泰継が目覚めたとき、かの人はもう、この世の何処にもいなかった。

◇ ◇

 本物の生命よりもこの仮初めの生命を、儚いものだと師は断言したのに、泰継の目の前から瞬きのうちに消えてしまうのは、本物の生命ばかり。
 泰継に、よく小さな白い花をくれた師の孫娘も、ある年、歩く神(流行病)に魅入られて連れ去られた。
 十になったばかりの幼い姫だった。
 その死を嘆く者。救えなかったことを只管悔いる者。泰継を役立たずと激しく罵る者もいた。
 安倍家だけではない。洛中にも常に死はあり、洛外―――西の化野(あだしの)、東の鳥辺野(とりべの)へゆけば、無数の名もなき死があった。
 この世界は、嘆きと死と絶望に満ちている。
 師が言ったとおり、人の世は醜く前途は暗く、その現(うつつ)は、あまりにも過酷で儚い。斯様な現世を過ごしても尚、その魂は、来世を望むのだろうか。生きることへの執着のない泰継だけが、現世に留まり続ける。
 そして、途切れた記憶の狭間―――三月の眠りに落ちている間に、一人二人と、やはり、大切な人は消えていくのだ。
 やがて安倍家の者でも、泰継が安倍の屋敷で暮らしていた頃を知るものは居なくなり、人のようで人ではない泰継を、奇異と畏怖と嫌悪の目で見るものばかりになった。
 仮初めの生命は、禁忌の存在。
 人外どころか、理からも外れた生命。
 還るべき環を持たぬ寄る辺のない―――ただ肉体が滅び、全てが消滅する時を待つだけの、生命。
 何のために生かされているか。
 時の流れに取り残されて、過ぎてゆく一切のものを見送ることを課せられ、自分は何処へ向かっているのか。
 答えのない問いに囚われて、ただ伝説の陰陽師が予言した“その時”を、半ば疑いながら待ち続ける。生きることにも問うことにも飽いて、漠とした日々を送っていた泰継の前に、ある日、それは唐突に現われた。

 一条の光。

 夜の濃紺が薄くなり山の端から強烈な光が射し、一斉に鳥たちが起きて鳴き始め、一日が静から動へと一瞬で導かれる。圧倒的な輝きで、けれど、その温かさは優しく全ての生き物に等しく降り注ぐ。そこに触れてはならないとする自戒の言葉さえ熔かされて、泰継は躊躇いながら、ついにその光に手を伸べた。



 「―――――み…こ」


 「お早うございます、泰継さん」
 「………………………」
 「ほら見て、綺麗な金色の光だよ!」

 神子の声。
 カーテンを開ける音。

 「―――――!!?」

 目が眩むような金色の光。
 金色の光。
 金色の光。
 金色の光が溢れる部屋で、彼女が嬉しそうに笑っている。

 一条の光を逃してはならん。躊躇ってはならん。そのとき、何を措いても手を伸ばし掴み取れ。

 「―――かりん…」
 「は――――ぃ !?」

 手を伸ばして、抱き寄せる。
 この腕の中に彼女を抱き締めなければ、確かめられない。

 ―――ああ、目覚めても彼女は此処に居る。
 消えたりはしない。

 まだ、幸福はこの手から零れ落ちてはいない。
 朝日を掴むことはできないけれど、この光ならば、掴まえられる。
 何よりも大切な彼女は、確かに此処に居る。


 今、自分は彼女の世界で彼女の傍に居て、たった一つの幸福を………抱き締めている。



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 泰継さんのお師匠様の詳細について、何にもつっこまんといて下さい(Do・Ge・Za)
 泰継さんのお引越しの時期も、お師匠様の亡くなる時期も、孫娘がいたとかも全部、妄想という名の未確認なUSO☆です。いろいろと勝手設定スミマセン・・・。