碧 ( あ お ) に 還 る (3)


 ―――慰むる者は偽(いつはり)と知りつゝ慰め  聴く者も偽(いつはり)と知りつゝ満足(たら)ふ。
 (西條八十 「三七日」より)


 たとえ偽りであったとしても、救いとなる言葉があることを、小さい頃に知った。
 たとえ真実でなかったとしても、そのとき、その人には必要な言葉があるのだと。
 それが嘘か真かは重要なことではなく、また、誰に咎められるものでもなく。偽りと知りながらその言葉をくれた人の優しさに救われ、偽りと知りながらその言葉を受け取った人の強さに希望を見る。
 幸福と不幸との境界が曖昧なように、嘘と真実の間も、また曖昧なものだから、鏤められた言葉の欠片から、人は自分にとっての真実を掬い取り、前を向く力にする。
 そして、誰かに心から愛された記憶さえあれば、人は、必ず前を向いて歩き出せる。

◇ ◇

 「貴女は決して不幸なんかではないわ。神に召されたお父様とお母様の娘であることは、貴女の、貴女だけの幸福な事実なの―――――貴女は決して不幸なんかではないわ」
 母によく似た面差しの綺麗な女(ひと)。
 黒い服を着て真っ白い花を持っていた。
 幾重にも悲しみを織り込んだような花弁。
 その真っ白い花は、両親の写真に副えられた他の花とは違った雰囲気をしていて、その綺麗なお姉さんも服装やお祈りの仕方が皆と違っていた。泣いている小さい花梨の傍に来ると、お姉さんは膝を折り、同じ目線で花梨を抱き締めてくれた。
 花の匂い。
 お姉さんの匂い―――お母さんに似た優しい匂い。
 そして、温かい涙。
 お姉さんも、声を殺して泣いていた。
 「貴女のお父様もお母様も、とても美しく聡く優しく、だから神の許に召されたの。貴女のお父様とお母様に安らかな眠りを。そして、貴女に神のご加護を。ご両親が召されたのはきっと神のご意志。貴女は・・・神様の娘になったのよ」
 お姉さんが泣きながらくれた言葉は、真綿のように柔らかく花梨を包んで、ほんの一瞬だったけれど、涙を吸い取ってくれた。
 悲しみを分け合う儀式のように、遠い日、二人を繋いだのは、精一杯の優しい嘘だった。


◇ ◇

 朝は、生きているものに等しく訪れる。希求するものよりも、夢見るものよりも、ずっと確かな輝きで。
 その光でこの部屋が満たされたとき、彼が、泣きそうな表情(かお)をして花梨を抱き寄せた。
 「―――泰継さん」
 「―――――」
 何も言わず、花梨を必死に抱き締めるひとにとって、朝の光は強すぎたのかもしれない。身のうちの隅々まで行き渡るような圧倒的な輝きの前で、誰もが平気でいられるわけではないのだと・・・花梨はそう思い至る。
 「あのね・・・心臓の音を聴くと、安心します・・・よ?」
 遠い記憶の中を彷徨っていたのか、彼の閉ざされた世界に彷徨っていたのか。いずれにせよ、この朝の光を強すぎると感じるほど、真っ暗な場所に彼は居た。
 「わたし小さいとき、毎晩耕太郎をだっこして眠ったんです。心臓の音がして温かいから」
 彼に謝るかわりに、昔話を―――今はもう、躊躇いなく話せる「昔話」の端っこだけを、口にする。両親を亡くした折、祖母に強がりを言って添い寝を断り、一人仔犬を抱き締めて眠った。遺された花梨も祖母もまだ、自分の分の悲しみを抱えるのに精一杯で、けれど互いに思い遣らずにはいられぬほど近くに居て。子供心に、気丈に振舞う祖母にこそ一人で泣く自由をあげたくて、強がりを言った。もう、一人で寝られるもん―――と、多分変な笑顔と一緒に。
 「耕太郎もちっちゃくって、ミルクの匂いがして・・・まだ鳴き声もね、ちゃんとワンって言えない子だったんです」
 「・・・・・・・・・・」
 「えっと・・・・・・・・・泰継さんに前に話しましたっけ?」
 「――――否。しかし耕太郎から少し聞いている」
 「そっか。泰継さん、耕太郎とお話できるもの・・・ね」
 そこで、ふつりと会話は途切れた。続く言葉は、見つからない。花梨は行き止まりの壁の前で息を潜めるように彼の鼓動を聴き、彼もまた花梨の鼓動を聴いている。
 それは互いに違うリズムを刻む生命の音。
 二人は同じ生き物なのだと知らしめる温かい音であると同時に、二人は別々の生き物なのだと知らしめる音でもある。ゆっくりと水が染み込むように彼の罅割れた世界に染み込んで潤して、そうやって、彼のものになれたらいいと―――いくら花梨がそう願っても、二人には、別々の心と別々の身体。触れ合って共有できるものは、もどかしいくらい、少ない。

 「―――目を閉じる度に・・・」
 不意に、彼が口を開いた。
 腕を緩めて身を離し、抱き込んでいた花梨の頬に手をそえて目を合わせる。
 「長く繰り返した時間の中で、目を閉じている間に―――・・・失うことが多かった」
 「―――?」
 「京でお前を守るうちに・・・少しずつ気付いた。気付いた・・・とも言えるし、思い出したとも言える。或いは、思い知ったと言うべきか。遠い昔、自らも守られ深く慈しまれていたことに」
 その想いの大きさに、深さに、気付かなかった。幸福であると呼んでも差し支えない時間が、自分にも確かにあったのだ・・・と、彼は悲しげに口の端を僅かに歪ませる。
 今まで、彼はその過去について多くを語ってはいない。
 ただ、語り尽くせぬものを抱えているということはぼんやりと覗え、花梨は何も訊けずに今まできた。
 「とうに亡くしてしまった人々だ。気付いても遅い。気付かぬまま、皆、二度と会うことのないものになった」
 「眠っている間に・・・」
 「ああ・・・眠りの時期であることが多かった」
 もう一度、花梨を抱き込んでその肩に顔を埋め、彼は小さな声で謝った。
 すまない、と一言。
 「だから・・・今になって。時折、眠りに落ちることが恐ろしく、また、眠りから目覚めた瞬間が・・・・・・酷く恐ろしい。大切なものを手にとったから、嘗て失ったことを・・・繰り返し夢に見る」
 「何も。泰継さんが謝るようなこと・・・」
 「否―――私は、矢張り人ではない出自故、怖れているのだ。その怖れのために目覚める瞬間を恐怖する」
 「――――――?」
 「理に則って、やがてお前に二度と会えなくなることを、私は滑稽なほど怖れている」
 「コトワリ・・・ですか?」
 「ああ。お前や耕太郎には還る場所が定められているが、私には還る場所がない・・・変えようも無い事実だ」
 「還る場所―――」
 「受け入れるしかない事実を怖れるなど・・・実に馬鹿げている」
 「――――・・・・・。」
 「花梨の傍に居ると―――怖れても詮無いことを、怖れるようになる」
 皮肉なことだ、と口の端でまた彼は少し笑う。
 「理の外にあるものが、分不相応な幸福を得るとそれに耐え切れず壊れるかのように―――私は弱くなってゆく」

 (ああ、いつも―――)
 いつも、彼を遠くへ連れ去るのは、コトワリという言葉。
 彼の言うコトワリとは、彼が見据える世界の全て―――けれど、彼を除け者にするのも、その世界の全て。
 存在することで生ずる自己矛盾を、彼はずっと背負わされている。コトワリから外れている彼自身の存在と、彼に与えられた“陰陽の理を見据える力”とは、いつも鬩ぎ合い並び立たず、それは大きな自己矛盾となって彼の中に横たわっている。
 「でも…怖れているのなら、それは裏返せば泰継さんの望むものがあるということです」
 「―――望むもの?」
 「ええ」
 弱いから諦められずに、怖れる、と彼は言うけれど。
 「泰継さんは、弱くなんかありません」
 彼は、大切な人が居なくなる絶望を知ってる。
 長い孤独を知っている。
 その暗さを知っている。
 その深さを知っている。
 ―――それでも、花梨の手をとった。やがてまた喪失するかもしれないものに、それでも手を伸ばし精一杯の愛情をもって抱き締めてくれて―――・・・
 「泰継さんは、わたしを守ってくれるもの。わたしの手を取ってくれたもの。わたしは―――泰継さんに、ちゃんと愛されていると分かるもの…」
 そんなひとを、除け者にするコトワリなんて要らない。神様だか何だか、このひとを除け者にするものが決めた場所なんて、そんなもの要らない。
 「―――それなのになんで・・・泰継さんは、神様が勝手に決めたものにずっとずっと従順なんですか…!」
 「――――」
 「わたしに約束を下さい。神様との約束ではなく。私と泰継さんの約束を下さい」
 「花梨?」
 「その約束さえあれば、わたしは―――・・・」
 きっと、一人ぼっちになっても生きていけるから。
 貴方がくれる約束ならば、わたしは、その一事のために生きる事だって出来てしまうと思う。貴方がくれる言葉は、わたしにとっての真実で、それは、どんなに辛いことがあっても前を向く力をくれるはずだから。

「―――お願いです。泰継さんの還る場所を、わたしにして下さい」


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続いてます(ヒー)