彼 岸 花 (2)




 彼の目に映る世界の色を知ったとき、彼のことをとても好きになって…それと同じくらい哀しくなった。

◇ ◇

 彼岸花の別の名を教えてくれたのは彼だった。
 少しずつ八葉の仲間に認められつつあり、異界での生活にも慣れてきた頃のこと。彼はまだ恋人ではなくて、花梨にとっては片思いの相手で。彼にとっての花梨は、ただ、役目上守るべき神子で。巡ることを止めてしまった不自然な異界の秋を、二人、ただ黙々と歩き回っていた。歩調を緩めることのない彼のあとを、小柄な花梨が一生懸命くっついて歩く形で。
 あの日も、秋晴れの空がどこまでも続いていた。
 京洛の外れの川。
 痩せた土地に広がる野原。
 そこまできたとき彼がふと歩みを止めて
 「あれは唐渡りの花で『曼珠沙華』という呼び名だ」
と花梨を振り返った。
 寺院の片隅や畦道の端でもよく目にする緋色の華。その緋色で目の前の野は溢れ返っていた。
 「こちらでは『曼珠沙華』と呼ぶのが普通なのですか?」
 確かに大地に根付いているのにその緋色は地の風景に馴染まぬほどの鮮やかさ。花梨の世界でも異界の地でもその花の浮いた感じは同じで、ぼんやりと自分の世界のことを思う花梨に、淡々と彼は告げる。
 「曼珠沙華という呼び名は“天上の花”の意味を持っている」
 花を話題にするなんて、彼らしくないなと思った。気の巡りがどうのこうのと言いながら清浄な場所へ花梨を連れ出すことはあっても花が咲いている場所へ態々いざなわれたことなどなく。後から思えば、彼が“柄でもない気遣い”を示してくれた最初だったのかもしれない。鸚鵡返しに「天上の花?」と問うた花梨に、怜悧な面持ちのまま彼は頷いた。
 「仏法によれば、吉兆を報せるために天は赤い花弁を降らせるのだという。だから人々はこの花を植える。天からの祝福を期待して」
 「私の家の近くにもあの花がたくさん咲くところがあるんですよ」
 「―――そうか。神子の世界にもあれらは存在するのか」
 「はい。透明な…陽炎みたいな火の色。たくさん…ずっと遠くまであの花が咲く場所があって。お祖母ちゃんと、あと、耕太郎っていう弟みたいなお兄ちゃんみたいな犬と…わたしはよく遊びに…いって…」
 そこまで言った時、不意に―――本当に予期せず、ぼろっと涙が零れた。咄嗟に事態が飲み込めず、花梨は二三度瞬きをした。けれど一筋零れた涙は堰を切ったように止まらなくなり、呆然としながらも花梨は悟った。
 急に耕太郎の毛並みの手触りを思い出したのだ。
 急に自分の家の仏間のい草の香りとか、時計の針の音とか、祖母が淹れてくれるお茶の香りとか…あの花を見て大切な家族のいるそのままの生活を、その感触を、ありありと思い出したのだ、まるですぐにでも触れられる近さで。洪水のように押し寄せるその感覚に、自分は全身でもとの生活を懐かしみ欲しているのだと理屈ではなく思い知らされた。
 コントロールのできない涙。
 慌てて彼の視線から顔を背けると、秋空の青と曼珠沙華の緋色がすっかり滲んで可笑しな視界を作り出していた。
 「すみません…急に、こんな…」
 「―――かまわぬ。私は神子の心情を解する術を持たぬが………人は泣くことで折り合いをつけることがあると知っている」
 夢や願いと、現実との折り合いを。
 帰りたい場所と今居る場所との距離を正しく見詰めるために。
 それでも進むのか、或いは、諦めるのか。
 それを決めるために、人は涙を流して折り合いをつけることがある。
 「故郷を懐かしむ心情は人として当然のことだ。龍神の神子の役目はお前がそうやって涙する心情まで妨げるようなものではない。お前は神子としてよくやっている。だからこそ、涙するほど重大なことに思いを巡らせる暇(いとま)が出来たのだろう」
 それは、彼が示してくれた労わりの言葉だった。
 張り詰めているときには気付けずにいたことを、彼が教えてくれた。今は、立ち止まって泣いてもいいのだと。喜びも不安も願いも焦燥も、様々な思いが混沌として飽和した心を抱えて、そのままではきっと身動きが取れなくなる。彼が言うように、自分自身で整理して、それらに折り合いをつけることが必要な時で。
 「誰でもない、神子自身が必要としている涙だ。そして人ならぬモノには決して持ち得ぬ涙だ」
 無口で笑うこともない怜悧な陰陽師は、そうやて―――離れたところから染み透るような優しさを与えてくれるひとなのだ。曼珠沙華の野の真ん中でボロボロと泣いている花梨の傍に彼はただ黙って佇んでいた。抱き締めてくれたわけでも、手を繋いでくれたわけでもない。ただ、黙って傍に居てくれた。
 そうやって―――とても彼らしい方法で、彼は花梨に泣く場所を提供しさりげなく守ってくれた。
 「神子に見えるかは分らぬが、あの華の緋色は、人の纏う悲しみと同じ色をしているのだ」
 「―――かなしみ?」
 「あの華が緋色をしているのは天からの祝福の使者として。そして、地上の悲しみを天へ伝えるために―――人が抱く悲しみと希望は表裏一体なのだろう。わたしはどちらも持ち合わせぬ故、断言するは憚られるが」
 「――――――」
 「神子の涙は緋色を纏っているから曼珠沙華がきっと天へ伝え昇華する。神子は全てに愛される存在だ。あの花々も神子の悲しみを前にして、何かせずにはおられぬはずだ」

 (―――ああ、だから此処に…)

 曼珠沙華が咲く場所に連れて来てくれたのは、そういう理由だったのか―――……もう何度目か分らない。このひとを好きだと思ったのは、もう何度目か分らない。
 飾る言葉も偽る言葉も持たない彼がくれるのは、染み透るような優しさが載せられた言葉。こんなに混乱して迷子になりそうなときにでも、確かに心に届き標(しるべ)となる言葉。
 ぼろぼろと泣きながらも、花梨は、彼のことをとても好きなのだと自覚し、それと同時に酷く哀しくなったのを覚えている。
 彼のほうこそ森羅万象から愛されているように見えるのに……彼はどこにも属さない孤独な生命を与えられたひとだったから。そしてその仮初めの生命と共に彼に与えられた陰陽の力は、こんなに優しい彼に過酷なことを強いている。
 彼の目に映る世界は、きっと、この悲しい緋色に満ちているのだろう。陽炎みたいに透明な純粋に“悲しみ”でしかない、緋の色に。力の弱い神子である花梨にも、そのぐらいのことは理解できた。それは、京洛の町を歩くたびに突きつけられてきた事実。

―――花梨が託されたこの京は、人々の嘆きと悲しみに濃く深く覆われていたのだから。






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 理解はできないことでも経験則で得たものがある泰継さん、こういう形で、理解できないなんていいながらも優しいことを言ってくれそうです。それに、とても公平な立場と距離から神子を労わってあげられるひと。
 亀の甲より年の功ですよ〜♪(←ものすごく誉めているつもり)