彼 岸 花 (4)




 その願いを、口にしてはならない―――それは理(ことわり)を乱す願いだから。
 陰陽師になるべくしてつくられた者なら尚更のこと、言の葉に宿るその力を安易に揮ってはならない。言の葉に載せず、呪に織り込まず、胸の内に仕舞っておくだけの“叶ってはいけない”願い。
 なんと無意味な行為だろう ?
 けれど、灼けつく程に―――…その声を、その眼差しを、いま触れている温もりを。
 惰性に過ぎていった長い時の中で繰り返し再生した記憶の断片などではなく、二度と戻らぬ一瞬だったとしても、それが次の煌めくような一瞬に繋がって。
 そうやって永劫続いてゆく「今」を、やがて訪れる別れの先で再び出会える「絆」を、巡るために還ることができる「場所」を。
 ――…灼けつく程に、強く。
 愛おしさを知ってこうして触れてしまった幸福は、同時に、叶ってはならぬ願いを抱かせた。
 人ではなく、ましてや、理から外れたもの。だからこそ、やがて時が来たときただ消え失せて「無」に。それが理に適ったことであり、理に従うことができる唯一の方法であるのに。
 ――…灼けつく程に、強く。
 愛おしいのは、それをやがて失うと知っているから。
 慈しむのは、それが壊れやすくかけがえのないものと知っているから。
 ならば、灼けつく程に強く願うのは…――やはり、知っているからだ。

 それが、決して手に入らないものなのだ、と…。

◇ ◇

 長い間、眺め続けた人の世で、幾たび目にしたことだろう。
 捨ててきたあちらの世界でも、今、彼女と在るこの世界でも「人」は何故、虚空に祈るのか。
 畏れるものに何故祈り、叶わぬ願いを託すのか。

 「まったくお前は、何にでも懐かれる……」
 彼女の髪に止まった緋色の花弁を空へ戻し、つい、溜息を吐く。今ここで見た光景は、まるで逆再生の映像。一年と少し前異界で見たのは、透明な陽炎のように揺れていた緋色の野。花は労わるように優しく揺れながら彼女が纏う「悲」に触れて数多の花弁が、野を吹き渡る風と共に天へと消えた。
 彼女自身の纏う気が「悲」に満ちていれば、役に立つあの華も、彼女自身が「悲」を纏っていなければ厄介な存在。
 今この地で起きたことは、その証明。
 彼女の許から花弁が飛び立つのではなく、悲を載せた花弁のほうが彼女の許へ吸い寄せられて。
 (―――厄介なことだ)
 「天への遣いもお前の神気には惑わされるようだからな…」
 そのまま華奢な身体を抱き寄せて、未だ空を追う彼女の瞳を見詰める。
 (本当に、厄介なことだ――…)
 彼女が纏う「神気」も、人々の変わらぬ営みも、異界の地も此処も…同じなのだ。何処の世界でも、いつも地上は悲しみに満ちている。そして、それらを惹き付けてしまう神の加護は、世界を違えても尚彼女を…。
 「ちょっ…泰継さん、ここ道の真ん中だし…見晴らし良すぎるし……!」
 「案ずるな。余計なものが憑かないようにお前の身に結界を施すだけだ」
 無理矢理重ねた唇。
 「やす………っ」
 声にならない声は、彼女の抗議。もがこうと身をよじる彼女を抱きこむのは、片腕で容易く。
 (……厄介なことだ)
 こんなに細く頼りない身体なのに、彼女は“神子”のままなのだ。今までも、きっと…これからも。何者にも穢されぬその魂は、永遠に神子であり続け――…

 どれほどのものを余計に背負わされることになるのだろう。

◇ ◇

 「………………」
 「……かりん?」
 「………………」
 「…わるかった、つい…」
 「“つい”!?」
 「―――いや。必要なことだがつい…すまない」
 「謝るくらいなら最初っからへんなことしないでください!」
 「………すまん」
 「半径3メートル以内に立ち入り禁止ですからっ!」
 「!?」
 ぷいっと向けられた花梨の背が、明らかに怒っているとか。
 花梨に引きずられながらこちらを振りかえった柴犬の耕太郎が、 生意気にも目許に“憐憫の情”を湛えていたとか。
 甚だ不本意なことばかり。だが、
 (―――…仕方ない…か)
 祓いや結界を張る手法などいくらでもあるのに、役得というか、彼女の許しも得ずに、自らの希望に忠実な方法を選んだのだから。
 「――――」
 肩を落とし溜息をつきつつもきっちり3メートルの距離を目測し、 泰継は、カラリと自転車をころがして歩き始める。
 ―――結局。
 怒っていようが笑っていようが悲しい思いなど何もせず、花梨がああやって健やかにいればそれでよく、そうやって彼女が過ごせる時間がずっと先まで―――それを見届けることはきっと叶わないのだろうけれど ―――ずっと先まで続いてくれることが一番望ましい。
 いつか、この手を離さねばならないときがきても、それが彼女の幸いのためならば、どれほどの痛みを伴うことになろうとも、自分は甘んじて手を離すだろう。いや、そうしなければならない。
 ただそのためには、矢張り、託す者・護る者が必要だ。唯一無二のものと花梨のことを大切に思う誰かに。龍の神とは一線を画し、必ず彼女を守れるものに。
 彼女の周りに張り巡らされた縁、魂の環。それら出来うる限りの護りが、ずっと未来(さき)まで届くように。

 「―――花梨、悪かった。そう怒らずにこちらへ戻ってくれないか?」
 前にもこんなことがあったな、と少し可笑しくなる。
 夏の夕間暮れ。長い影の先に花梨と耕太郎の後姿を眺めながら歩いた。
 「そこに馬頭観音(ばとうかんのん)があるだろう」
 あのときと同じように、耕太郎をダシにして。我ながら成長の跡が見られないことではあるが。
 「実は、耕太郎に頼まれたことがある」
 「??」
 「耕太郎の願いを叶えてやりたいのだが、だめだろうか」

 ほんの少し警戒をといた花梨の瞳に驚きと隠し切れない好奇心が覗いているのを認め、泰継は、そっと目許を和ませて口の端を緩めた。





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 相変わらず…何かにつけて諦め癖の抜けない泰継さんです。そして、耕太郎のためにお願い事をしてあげる優しいんだかすっ呆けているんだか乙女心を解っていない泰継さん。
 なかなか簡潔にお話を運べずすみませぬっ…!(この、へたっぴメ!!←自分への罵り)