彼 岸 花 (5)




 彼岸花と、輪郭が曖昧なほど古びた石の馬頭観音(ばとうかんのん)と朽ちかけた小さな祠。目に残るのは、華の緋色と茎の青のコントラスト。それは他愛ない冗談のような願掛け。耕太郎からの頼まれごとだと、そんなふうに言って始めた他愛ない祈り。
 それなのに、願い事の中身を問うと彼は少し困ったような表情(かお)をして、目を伏せた。それからゆっくりゆっくりコトバを選んで、緋色の華に目を落としたまま。
 ―――別れ別れになってもまた会えるように、と。

 彼は、息づくものたちの声を聴き、その願いを呪に織り込んで、そうやって祈ってきたひと。
 自分のためではなく、いつも他者のために。

◇ ◇

 「花梨、お前の持ち物でここに供えてよいものは何かないか?」
 押していた自転車を停めながら彼にそう問われて思案する。彼の意図がよく分からない。
 「ハンカチ…でもいいですか?」
 「ああ。それを出せ」
 彼はそれを受け取ると、次に耕太郎の首輪のところに手を掛ける。
 「…首輪を外しちゃうんですか?」
 「首輪ではなく、こちらだ」
 迷子になったときのための連絡先が書いてある耕太郎の迷子札。彼はそれを外し、これを使うぞ、と目で合図。呪符も呪具もいらない、彼にとっては気軽な……それはきっと他愛ない祈り。
 「耕太郎?」
 その場にしゃがみこんで耕太郎の身体をそっと抱き寄せ、彼の背を見送る。ハンカチと空になった迷子札を手に祠に近づいていく彼の背中。馬頭観音の前にそれらを置いてから、やがて近くに咲いている彼岸花をいくつか手折りその花びらだけを祠の上に降らせ、呪を唱え始める。
 出会った頃のような陰陽師の表情(かお)。
 目に焼きつくのは、華の緋色と茎の青のコントラスト。
 枯葉色の景色の中でそれは一際目を惹く鮮やかさで、そこに佇む彼の姿も綺麗だった。流れるような一連所作と、はらはらと舞う緋色の欠片。その中でどこか寂しげな彼の横顔。
 やがて呪を唱え終え、耕太郎の傍まで戻って来ると、お前の願いはきっと叶うだろうからと頭を撫でて、わたしには解らない、耕太郎と二人だけの秘密の合図みたいに微笑って。

 (泰継さんの―――バカ)

 こんなとき、彼の背は遠く手の届かないところにある。優しいひとは、優しいが故に時折遠いところへ行ってしまうから。決して嘘を吐かない代わりに、彼は沈黙する。意図した沈黙ではなくて、そうすることが当たり前のこととして。そうやって何かに耐え、或いは、そっと目を伏せて何かを諦めてしまう。

◇ ◇

 「お前のお願い事ってなあに? 泰継さんが教えてくれないんですよ〜」
 「……………」
 「気になるよね〜。今日眠れないよね〜」
 そういいながら、耕太郎の耳をびよーんと両手でひっぱって。これは八つ当たり。八つ当たりして、キツネ目の耕太郎の出来上がり!
 「花梨…………癇癪を起こすな」
 「だって。わたしだけ仲間はずれ」
 ピンとした耳を引っ張られて吊り目になった耕太郎。ずっとずっと一緒に暮らしてきた耕太郎。だけどわたしは、この子とお話なんてできないから。大事な家族だと思っていても、毎日一緒に散歩をしても、話しかけていっぱい抱き締めて嬉しそうに尻尾をふってくれて、だからわたしたちは仲良しなんだと思っていても、わたしはこの子の考えていることのきっと半分の半分も知らないんだもの。
 泰継さんだって、そう。いつも黙って勝手に…。寂しい表情(かお)を隠せない不器用さんで正直者のくせして、いつも黙って大事なことを教えてくれなかったりする。
 「泰継さん」
 「?」
 「耕太郎のお願いって…なんですか?」
 「…―――」
 ますます恨みがましい目をして背の高い彼をじぃぃっと見上げていると、彼は少し困った表情(かお)をして、目を伏せた。それから、ゆっくりゆっくりゆっくりコトバを選んで。
 「お前に……会いたい、と」
 「?」
 「いずれ…お前と別れ別れになっても、逸れず、また会えるように。お前の許に還れるように」
 「耕太郎が、そんなお願いを?」
 「そうだ」
 「…それって」
 「――――…」
 「それって…迷子の心配ですか?」
 「っ!?」
 「それで耕太郎の“迷子札”なんだ!」
 「……………」
 「泰継さん?」
 「……………迷子、、、そうだな。そんなようなものだ」
 ほっとしたような困ったような曖昧な表情(かお)なんかして。それから徐に手を伸ばし―――さっき耕太郎にしたみたいに、わたしの髪をわしゃわしゃとやって。
 「やだ、泰継さん、変な髪がたになるから〜」
 「っ…」
 「あ、笑った、ひどい」
 「ちょうど…穴倉から這い出てきた狸のよう…」
 「ちょっとそれ自分の彼女に向かって、ひどいですっ!」
 相変わらず人の髪をわしゃわしゃやりながら、勝手に笑っていたけれど。だけど、やっぱり……彼はまた一人で何かを諦めてしまったように思えた。

 他愛ない祈りは、耕太郎のためのお呪い。
 彼は、他者のために祈ってきたひと。
 自分の願いはああやって諦めてしまい、自分のための祈りのコトバをきっと何一つ知らないひと。





** ** **
 やっと『碧に還る』にリンクさせることができました。うおおぅっ…もうちょっとー!