彼 岸 花 (6)




 ―――いずれ…お前と別れ別れになっても、逸れず、また会えるように。

 この場合『いずれ』とは来世のこと。今生(こんじょう)の生命が終わっても、次の世でまた花梨に逢いたいと、ずっと花梨の傍で生きてきた老犬はそう願ったから。縁があればやがて会えると知っているし、きっと会えると思うけれど、天へ願いを届けられるならそれを届けて欲しいと。それが願い事の中身。
 だから、今すぐというものではないにしろ耕太郎の死を言葉にすることが酷く躊躇われた。理の内の出来事であるとは言え、花梨はきっと悲しむだろう。
 「耕太郎はお利口さんだから、そんなふうに一人でどこかに行ったりしないでしょ? もう、お前は心配性なんだから」
 「―――…」
 微妙に判っていない様子の花梨が、耕太郎の頭や耳を撫で回している。
 「新しい迷子札、買ってあげるからね。それまでは、絶対迷子になっちゃだめよ」
 花梨が抱き締めると、耕太郎はくすぐったそうに身を捩った。

◇ ◇

 馬頭観音(ばとうかんのん)は六道(りくどう)のうち畜生道を統べる。畜生類、即ち、四足の生き物たちの救済主でもある。だから、耕太郎の願いをこの馬頭観音に祈った。また、その願いとは来世でも花梨のもとに辿り着くこと。それは旅の無事……無事の帰還を願うのも同然。荷駄を運ぶ馬の守り神でもある馬頭観音は、そのまま旅の無事を祈る信仰の対象。諸々を考え合わせれば、耕太郎の願いを伝えるのに最も相応しい相手だった。
 泰継はもう一つ彼岸花を手折り、その花びらに呪を唱え自分の頭上から散らせてみる。
 異質ではない、常世のもの。属する世界…揺るぎない世界があること。願う対象があるということ。
 願いは、そのまま希望。願うことは悲しみから希望を掬い取るということ。では、自分は―――自分は、いずれの六道にも属さぬモノ。魂の還るべき環を持たぬ、寄る辺のない存在。

 (自分は―――誰に願えばよいのだろうか……)

 ハラハラと落ちる緋の色は鮮やか過ぎて、どこか現実味に欠ける。だからこそ“天上の花”なのだろう。
 ぼんやりと天を仰ぐ泰継の横に、いつのまにか花梨がやってきてシャツの袖を引いた。
 「? なんだ、どうした?」
 「あのね」
 「?」
 「泰継さん、さっきのお呪いもう一回やってくれますか?」
 「……何故だ?」
 「さっきのお呪いは、迷子にならないお呪いでしょう? それって、ずっと一緒に居られるようにっていうことと一緒だもの。だから、えっと……泰継さんの分も。泰継さんも迷子にならないように…です」
「!」
 屈託なく笑う花梨を見て、泰継は、驚いたように双色の瞳を見開く。
 「あ、変ですよね……泰継さんが迷子なんて、ありえませんものね。変なこと言ってごめんなさい」
 やっぱり、いいです…と。小さく言って俯いた花梨の頬に、泰継はそっと手を充てる。
 「泰継さん?」
 (ああ、そうか。自分の願う先は―――この)
 「さっきのお呪いは…わたしと耕太郎だけでしょう?」
 「そうだ」
 「じゃあ、なおさらお願いします。わたしは耕太郎と一緒にいたいけど、泰継さんとだってずっと一緒に居たいです。神様ってけっこうアバウトなところあるから、二人が三人に増えたって“問題ない”ですよねきっと。だからもう一回。皆で一緒に居られるお呪いをお願いします。さっきみたいに泰継さんのものも何かお供えして……わたしのお願いをこの祠の…えっと…ばとうかんのん様に、ね?」
 (ああ、そうか。自分の願う先は―――矢張り、この)
 「…お前が…それを望むのか?」
 「はい。だから、これを」
 花梨が、上から二つ目のボタンを指差す。
 「これを?」
 「はい。あとで、予備のボタンを私がつけてあげます。だからそれをお供え用に、私に下さい」
 「…? 好きにすればよい」
 「よかった。第二ボタンもらうのってちょっと憧れだったんです」
 なぜ第二ボタンなのかは分からなかったが、花梨の笑顔を見ていると理由などどうでもよくなった。それに、花梨に繕い物をしてもらえる……というのも悪くない。
 「ちょっと違うけど、好きな人の第二ボタン〜♪」
 「…???」
 奇妙な節をつけてうたうように喜んでいる。理由も何もまったくよくわからないままだが、花梨が喜ぶならそれでいい。着ているシャツのボタンを外し花梨に渡すと、彼女はまた笑った。
 そうして、泰継のことも耕太郎のことも引きずるようにして花梨が祠の前に立った。ゆっくりと屈んでハンカチの上に泰継のボタンを置いてから、
 「泰継さんも耕太郎も迷子になりませんように!! それから、」
 「………?」
 「お供え物はないけど、みんな…うちのおばあちゃんも。あと、泰明さんもあかねちゃんもみんなみんな仲良くずっとずっと一緒にいられますように!! それからそれから…」
 「????」
 「泰継さんが、わたしのことをずっとずっと好きでいてくれますように…!」
 「!!」
 「いまのを全部まるっとお願いします…!」
 大声で一息にそう言って、パンパン! と、花梨が派手に拍手(かしわで)を打った。
 「………花梨…」
 「?」
 「まったくお前は…」
 「…! わ、ちょっと泰継さ…」
 急に肩を抱き寄せて花梨を慌てさせてしまったけれど、泰継はかまわず彼女の身を抱きこんだ。彼女の他意のないあどけない優しさは、いつも、泰継によくわからぬ感情を齎す。花梨が口にした願いに、深い意図はないのだろう。まっさらな優しさ―――それこそ、白い龍の神が愛して手放そうとしないもの。
 「…花梨」
 「?」
 「だからお前はなんにでも懐かれる……」
 神にも神への遣いになった緋色の花弁にも、そして、自分のような人外のものにさえ、こんなに深く…。
 「泰継さ…?」
 「わるいが、」
 少し、このまま…祈らせてくれ、と抱き込んだ花梨に呟く。
 「あの…さっきのお呪いは?」
 「…いいんだ。あの呪では効かないから…」
 泰継は、そのまま目を閉じて祈った。
 叶わぬ願いを叶えるための呪など知らない。だから、ただ黙して祈った。
 願う先も違う。
 当の花梨には、きっと重荷なってしまうだろう。
 だから、言の葉に載せず呪に織り込まず、ただ黙して祈る。これは、叶ってはいけない願いなのだから。
 なんと無意味な行為だろう。
 彼女に出会って、確かに自分はどこかおかしくなった。こんな願いを持つことも、こんなふうに祈ることも、彼女に出会うまでは有得ぬことだった。
 けれど……祈らずには居られなかった。
 ―――花梨に覚えていて欲しい。魂の還る輪を持たぬこの身のことを、彼女の魂が流転しても。
 夏の夕間暮れ。
 手を繋いで見上げた宵の明星。
 そのとき抱いた願いさえ、浅ましいものだと思った。  けれど、気付いてしまった。本当は、それだけでは足りない。本当は、灼けつくほどに思っている、願っている。

 ―――ずっと先まで、傍に居たい。

 寄り添う今生(いま)が短いのなら、来世(つぎ)も。会いたい、傍に居たい。巡り再生し光に満ちた彼女のすべての軌跡においても、傍に居たい。
 そうやって、現在(いま)が、永劫続いていくことを、灼けつくほどに強く願っている。彼女の未来すべてを欲している。
 自分の願いを受け入れる神仏など居ない。ましてや、花梨の流転する魂に対する願い。理から外れたものが抱く理から外れた願い。願ったとて、受け入れられるものではないだろう。
 それに―――。
 「…泰継さん」
 「?」
 「泰継さんも何か願い事があったんでしょ? いつか……わたしにも教えて下さいね」
 「―――」
 それに―――願いを口にしては、きっと手を離せなくなる。彼女の理を乱し傷つけることは、忌避せねばならない。
 やがて時が来たときに…ただ消滅する。それが、自分にできる唯一のことなのだから。





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 『碧に還る』は、この場面の1年後、、、のことです。『彼岸花』はあと残り1話になりました…。『碧に還る』の後日談になっています。
 書きたいことを巧く纏められず、こんなにややこしい時間の流れに…。お付き合いくださる神子様には、申し訳なく…くっっ。長い話になってすみませ…。