風にさらわれた麦藁帽子。 伸ばした小さな手は、虚しく空をつかむ。 お気に入りの帽子は、峠の風に乗ってヒラヒラと舞い、谷底深く落ちてゆく。 その行方を眼で追いながら、一生懸命手を伸ばした。 届くはずもないと、自分は判っているのに。 遠く小さくなった麦藁帽子は、生い茂る夏草の中に沈み込んで―――やがて見えなくなってしまった。 『!』 天を見上げていると、ふわりと抱き締められた。見上げた空は冬の空で、何処から連れてこられたのか風花が舞っていた。 『寒いね』 抱き締めてくれた誰かに声をかける。 『今頃、あの麦藁帽子に―――雪が積もっているかもしれないね』 その人が答えてくれた。少し笑っているのかもしれないと、ぼんやりと考える。それから自分が何かを言うと 『―――優しいね、花梨は』 その誰ともわからぬ人は、また笑った。 『?』 『―――どうか―――り。わ――――い…よ』 『え?』 「―――なんて言ったの?」 その誰かに向かって手を伸ばしたけれど、あの麦藁帽子のように遠くへ行ってしまった。 トントントン……… まな板の上で何かを刻む音。 味噌汁の香りがする。 (…朝………) 窓から覗く薄明かり。 人肌の温かな毛布の中から思い切って腕を出して、そっとカーテンを持ち上げる。 (寒っ……) 目の前に冬の雲海が広がった。朝焼けの紅と夜の名残の淡い紺色。冷たい空気が頬を刺す。 ―――あの麦藁帽子に雪が積もっているかもしれない。 唐突に思い出すのは、今朝方見た夢。夢というのは脈絡も無くつかみ所も無く、醒めてしまえば淡雪のように消えていくもの。夢を見たという感覚と、指の間を砂が落ちていくような苛立ちを残して消えていく。 「あら。花梨ちゃん。起きてたのね」 「―――お祖母ちゃん、おはよう」 「はい、おはよう。ご飯できてるから早く降りていらっしゃい。寒いわよ。ちゃんと 上着羽織ってきてね」 「はーい」 花梨の短い猫っ毛は、すっかり爆発している。のそのそと布団から這い出して、フカフカのスリッパに足を入れて寝巻きの上からフリースを羽織る。 階下へ降りると、暖かかった。 味噌汁の鍋から立ち上る湯気、ご飯が炊けた匂い。 暖かい空気に後ろ髪引かれながら、洗面所へ移動して顔を洗う。 (髪が凄いことに………ご飯食べてからにしよう、こっちは) 眼が覚めるようにと、ほっぺたを自分でパシパシ叩いてから、また急いで暖かい部屋に戻った。 「ごめんね、お祖母ちゃん。私、寝坊しちゃった」 「いいよ、お休みの日ぐらい。いつもは学校行くまえに花梨ちゃんが用意してってくれるから。たまには、お祖母ちゃんの朝ごはんもいいでしょう?」 「―――うん。美味しい。やっぱり私のお袋の味はお祖母ちゃんのご飯だよ」 「ふふふ。嬉しいこと言ってくれるね」 サトイモと鶏肉の煮物。 春菊の和え物。 大根と葱の味噌汁。 それから白いご飯。 祖母の利代が作るのは、ごく当たり前の旬のものを使った料理。異界から戻ってきたときも、この味で改めて帰ってきたことを実感した。差し向かいで、こうして朝ごはんを食べるのももう10年以上続いている。 二人きりの家族。 庭にも、一人(一匹:耕太郎という名の柴犬)大事な家族がいるけれど、ご飯を食べるのはいつも二人きりだった。 「―――花梨ちゃん」 「なぁに?」 サトイモをつつきながら返事をする。 「今度―――年が明けるまえに、泰継さんとお墓参りに行ってらっしゃい」 「んぁ!?」 「あらもう、お行儀が悪いわね。きちんと噛んで飲み込まないとつっかえますよ」 「―――」 「改めてお父さんとお母さんにご挨拶してきなさい。それと―――これは春になってからでいいけれど…」 「――坂本の?」 「そう。坂本宿のお祖父様とお祖母様のところに、二人でご挨拶に行ってらっしゃいね。」 花梨の母の実家へ行って来いということ。雪深い土地なので、春になってから挨拶に行けと利代は言っているのだ。 坂本とは、旧中山道の宿場町―――花梨の亡くなった母はその旧家の姉娘だった。 両親が亡くなった折に、花梨を引き取る引き取らないで、この利代と揉めたこともあったのかもしれない。歳の近い従兄弟もいるのだけれど、坂本の家とは、だいぶ疎遠になっている。 「えー。お祖母ちゃんは行かないの?」 「やぁねぇ。花梨ちゃんを独り占めしちゃったから、お祖母ちゃんは敷居を跨がせて もらえないわ、きっと」 「―――もう。そんな駆け落ち娘みたいなこと言って」 「あらあら。そんなに若く見えるかしら」 「…………」 花梨は、この祖母には敵わない。 幼くして両親を亡くした花梨を、大事に大事に育ててくれた父方の祖母。気も若かったのだろう。他の若い親に混じって、しっかりお受験戦争に嵌り、花梨を中高一貫の私立女子校へ入学させてくれた。両親が居ない寂しさはあったけれど、物心両面で、不自由を感じさせることなく力を尽くしてくれて―――この祖母が笑ってくれるのなら、何でもしたいと思うほどに、花梨の大切な人だった。 「でも、真逆ねぇ。こんなに早くお嫁にいっちゃうとは」 食後のお茶を啜りながら、利代は感慨深げだ。 「しかも、あんなに男前でねぇ………。泰継さんの好みのタイプが、ちょっと変わっててよかったわねぇ………」 「なんか、お祖母ちゃん。感心するところが違う気がする」 「ふふふ、これでも嬉しいのよ、お祖母ちゃんも。あんなに男前の孫ができるなんてさ」 2年前の冬。高校1年生が終わる頃、花梨がようやく彼氏とやらを利代に引き合わせてくれた。 町内の年寄りネットワークを舐めてはいけない。 前の年の秋口から、どうも花梨ちゃんにボーイフレンドが居るらしいとの噂がたち、 その情報は利代の耳に入っていたのだった。 随分、男前だとか。 旧帝大の学生さんらしいとか。 耕太郎がその青年によくなついているとか(この情報には、内心、耕太郎のことを役立たずめっ、と罵った)。 二人が手を繋いで歩いていただとか。 真偽の程は兎も角として、会う前から利代のほうにはしっかり情報が溜まっていて、いつ家に連れてくるだろうかと期待半分怖さ半分で待っていた。なにしろ手塩にかけて育てている孫娘。碌でもない男だったら、即刻別れさせなければならない。それが親代わりの利代の役目というもの。 ―――近頃、耕太郎の散歩時間が長くなったんじゃない? とカマを掛けると、隠し事のできない花梨は、あからさまに顔を紅くしてボソボソと白状した。 ―――好きな人がいるの、と。 お付き合いしているの? と訊くと、コクンと頷く。それから、すごく大事な人なんだ、とはにかんで笑った。 その青年がそのまま婿殿になるとは思わなかったのだ、あの時は。二人とも若いから、これから経験していく恋の一つなのだろうとそんな風に思っていた。けれど――― 寡黙でぶっきら棒で何処か古風な青年が、花梨に対してだけ柔らかく微笑むのを何度か目にするうちに、どうやらこれは本物らしいと何時しか覚悟を決めていた。 台風が来て庭が荒れれば、翌日には駆けつけてきて、雨樋の修理や庭掃除をしてくれる。花梨が修学旅行で不在の折は、耕太郎の散歩を毎日してくれた。買い物帰りにたまたま路で会えば、黙って手を差し出して重い荷物を持ってくれる。慣れてくればその寡黙さも気にはならず、優しくて不器用な彼を利代のほうもすっかり気に入ってしまった。 とうに両親を亡くし兄と二人で暮らしていると聞いた。少し翳があるのはそのせいかと納得する。だからと言って陰気なのでもなく、意思の強い瞳とは裏腹にやや儚い感じがして、さては、花梨ちゃんはこういうのに弱いのか、と、利代は孫娘の『傾向と対策』に余念が無い。 余談だが―――気に入ったポイントの一つに、利代のことを『利代殿』と名前で呼ぶことも入っている(不覚にも利代はトキメイタ)のだけれど、これは年寄りの密かな楽しみであって孫娘には内緒。 そうこうしているうちにほんの一月前、秋の終わりに、その青年―――安倍泰継が花梨さんを下さいと頭を下げにやって来た。次の春、花梨の高校卒業と同時に嫁に貰いたいので、結婚を前提としたお付き合いをさせて頂きたいと。要は婚約の申し込みで、その横で顔を紅くしている孫娘は、前の日に指輪を贈られてあっさりOKを出していた。 「―――泰継さんなら、大丈夫じゃないかしら。」 「え?」 「なんだか独特のペースがあるし、年寄り受けがいいもの。坂本の家に行っても気に入られるんじゃないかしら」 「ははは…そうだね。そうだといいんだけど」 「それにしても、なんでしょうねぇ…泰継さんのあの落ち着きは」 そう呟く祖母の鋭さに内心ギクリとしつつ花梨は話題を逸らす。 「ああああの。お祖母ちゃん、この煮物の作り方今度教えて」 「ほほほ。今でも十分お料理上手じゃない、花梨ちゃんは」 「そんな…ことないよ。まだまだだよ。泰継さん和食が好きだから、お祖母ちゃんにもっと教えてもらいたいよ」 「あら、嬉しいこと。大学入る前にみっちり花嫁修業ねぇ」 結婚を許す代わりに花梨と約束したのは、大学をきちんと出ること。 婚約騒動に先立って花梨は某大学への推薦が決まっていたし、大学を出すまでが自分の仕事と思っていたので、そこは利代にとっても譲れなかった。 幸い泰継のほうも、花梨の好きでいい、と嫁に貰う以外のことについては全く淡白で、結局のところ安倍泰継という青年は花梨の傍に居るという以外欲というか望がないのだと―――改めてそれを思い知らされた。 大雑把といえば大雑把だし、懐が深いとも言えるし、若いのにやけに包容力があるのだ。それがまあ先ほどの、「なんでしょうねぇ、あの落ち着きは」という疑問につながるのだけれど、孫娘のことを至極大切に慈しんでいるのだと嬉しくもあった。 「そうそう。煮物いっぱい作ったから、泰継さんのところに持っていって差し上げれば? どうせ、あとで遊びに行くんでしょう?」 「……………………う…うん」 モジモジと頷く孫娘を見ながら随分素直に育ってくれたこと、と利代は眼を細めた。 |